第24話 早坂の調査
浅井祐子は七キロ離れた駅前のスーパーから、品物を積んで此の近隣の村々を廻っていた。今日も施設に移動スーパーが到着すると、おばちゃーんと美咲が真っ先に駆け寄ってきた。後から亜紀も急かされるようにやって来た。その後を荒木所長に連れられてホームのお年寄りたちがぞろぞろと繋がって出て来た。みんなは移動スーパーに群がり品物を物色して、お目当ての物が買い揃うと順次入れ替わる。レジの合間で祐子は、所長に声を掛けた。
「亜紀さんはスッカリ馴染んで板に付いてきたわね」
所長も彼女の扱いが
「それは良いことじゃないですか」
と祐子は今度は亜紀に言う。
「それが昔の戦時中の話ばかりであたしも合わせるのに苦労してるンですよ」
まあ知識が増えて良いんじゃないか、と所長が言えば、亜紀は五歳の子らしくないとぼやいている。その美咲は亜紀の手を引っ張ってお菓子を物色していた。それを見て笑ってる荒木に「ここへ来る途中の川沿いで、釣りをしている人を見かけた」と祐子が声を掛けた。あそこは釣れるわけがない、と荒木はまた笑った。
「だから、あんたそこはイワナやヤマメは釣れないわよって言ったげたのよ」
「あそこで釣りをするなんてド素人だよ」
「じゃあちょっと指南したげたら」
「冗談じゃないよ、そんなことしてみろ都会からわんさと釣り客がやって来ればどうなる」
と所長は、あそこは雑魚ばかりだから、そのうち諦めて帰るだろう、と否定的だった。
祐子は常連客が去ると、移動スーパーを閉めて保養施設を出た。その帰り道でまたさっきの男を見掛けた。所長の話から、男が気の毒になり、車を止めて河原へ降りて、此処は釣れないと忠告した。しかし男は釣りよりも、自然の中でのんびりしたかった。
「それで釣りを始めたのですか」
男は唯、無心で水面に竿を垂らすと、時間が忘れられるのがいいらしい。
「なんか悩みでもあるんですか」
「そんな顔してまっか?」
「そんなダイレクトに聞かれても答えようのないお顔をしてますから」
「それは何んでっか?」
「お優しい顔立ちちゅうことですよ」
「なんか誤魔化されたような気がするなあ」
「都会暮らしが馴染めない性に合わん、そんな顔付きですよ」
「そ〜か、そうかも知れんな〜あ」
あの老人ホームで働いている者を見ていると、羨望の眼差しで見てしまうらしい。
「でもチャラチャラした若者は長続きしないのよ。だからよっぽどの世間嫌いか気の長い人しかあそこは務まらないわよ」
見るとやるとでは大違いだと説明した。
「そうでしたか、此処の集落の人に聞けばあのホームで働く女性は二人ですね一人は子連れだそうですがじゃあそんな人でも務まってるんですね」
「亜紀さんのことを言ってるんですか、あなたいつから来てるんです」
「三日前に来て、此処が気に入ってから良い釣り場を探して此の近辺の人に聞けば此処の集落の住民にはその子供が偉い人気だそうですね」
「まだ五歳ですから此の村のお年寄りからすれば可愛くてしょうがないんですよ。それよりお宅は三日前から何処に泊まってるの?」
男は道路から数メートル入った少し拓けた木立の中の車を指した。
「あの車で寝起きしてるの、それにしてもまたこんな山奥にどうして」
「あなたこそこんな山奥で大変なのに集落の人の為に頑張ってるのに感銘しました。実は正直言いますと今度うちの会社では老人の保養施設を作る予定を立てていて、それでこっそりと此処の施設に出入りしている人と物の調査をしてるんですけれど……」
「最初からそう言えば良いのに」
「いえ、あ、それが昔うちで働いていた者が一人居るのでそれでこっそりと此処で釣りを装ってますからくれぐれも内密にして頂ければ……、あ! 期限切れに近い
と移動スーパーの品物をかなり買い占めた。お陰で裕子は大助かりと礼を言った。
「じゃああたしも仕事として割り切って見ぬ振りするわね」
祐子は暫くは売れ残りの心配は無くなって、仕入れがやり易くなると、安堵して駅前のスーパーに戻った。
早坂は独自の調査をするにも、対象者の柳原亜紀とは面が割れていた。村のコミュニケーションも担ってる浅井祐子さんとの関係は上手く行った。
これで仕事がやり易くなり、近辺を散策すると、絵を描いている男を見付けた。後ろで暫く眺めて、男が気付いた頃を見計らって声を掛けた。
「やあこんにちは水彩画でっなあ、よう描けてまんなあ」
井上は後ろに男の存在を感じていたので驚かなかったが、喋って来るとは思わなかったようだ。井上が面倒くささを感じ取ったにも拘わらず男は続けた。
「風景画がお好きなようですね、いや〜、何ですか、この前から此処で渓流釣りと云うものをやってますが此処は釣れなくてもそれなりに気持ちが安らぐもんですなあ、こんな良い場所だから絵もはかどるでしょうね、いや〜、これはあくまでも絵から受けるイメージですからお気持ちにそぐわなければお許し下さい」
絵描きはやっと早坂を視線に捉えて、穏やかに向き直った。
「いや、仰るとおり此処で此の風景を前にして絵筆を振るってるときが一番心が安らぐもんですよ」
「やはりそうでしたか絵はそのままの気持ちを表している、それが本当の絵と思いますよ下心があれば手元は乱れますからねえ」
井上の絵筆が一瞬止まり掛けた。
「この絵にそれが見えるんですか」
「感じたまま言っただけですから手を止めて仕舞って気に障れば申し訳ない」
井上は手が止まったのは、別な意味だと解釈して欲しいと伝えた。
「そうでしたかやはり嘘の無い絵なんですねだから人の心を捉えるんですね」
「此処では見掛けない人ですが旅行ですか。あの駅は普通列車も殆ど止まりませんから此処でノンビリしてられませんよ」
「いやー帰りの汽車の心配までして頂いて恐縮ですが車ですから要らぬ心配をお掛けしてしまいました、だから実に気ままなもんですよ、だからあなたもそうやって自由に絵が描けるんでしょうね。処であの保養施設はかなり古いんですね地元の古老の話では元は海軍の物で、怪我が治っても心の傷を癒やす施設だそうだったから今では失恋を癒やすにはもってこいの場所だと思いませんか」
井上は笑って、そんな病を抱えている人は此処には居ませんよ、と否定した。
「じゃああの子持ちの女性もそうなんですか」
怪訝な顔付きをした井上に、此処では唯一、訳ありの存在に見えたから訊いた迄だと答えた。そう言われれば片親の若い親子は、此処には似つかわしい存在に見えて納得した。
「ああ、亜紀さんですかあの人はそうじゃないですよ」
「じゃあどうして父親が居ないんです亡くなっていれば別ですがそうでなければどっちかの片思い、つまり失恋でしょう」
「絵と謂い女性と謂い、あなたは割り切れない物を割り切るんですね」
「頼んで生まれた訳じゃない世を生きること自体が割り切れないでしょう」
何処まで理屈っぽいんだ此の男は。
「まあそれはそれとして。じゃあなぜ彼女がシングルマザーだから失恋だと決め付けるンですか良くないでしょう」
「ああもう一つ解釈がありました。何年かすれば一緒になれると云う
「あなた一体何が云いたいです、一体あなたは何者なんだ」
「その絵から導き出されただけですよ、あなたの絵はひとつのドラマを作れるほど恣意に富んだ作品だと云いたいですね」
俺がこの絵に一つのドラマを塗り込めていると謂うのか。それが失恋のラブロマンスだと謂うのか。井上は暫く己の絵に見入って仕舞うと、此の不可解な男に不思議なほど、親近感が湧いてしまった。
「いやこれは余計な事を云ってしまって作風が変われば大変ですからこの辺で失敬します。私は此処へ釣りに来て暫くあの渓流で愉しんでますから気が向いたらまた伺います」
と云って男は去った。
けったいな奴だと井上は男を見送った。
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