第28話 亜紀・彼への旅路
近鉄電車で生駒のトンネルを抜けると、彼の待つ大阪になる。高校を出て大阪のホテルに就職した頃は毎日この電車で通った。
そのホテルでの社会人一年生は矢張り緊張した。それを最初に和らげてくれたのは波多野だった。彼はスタッフのまとめ役を佐知さんに任せていた。波多野は先ず佐知さんに指示して佐知さんが各自に指示していた。
悦子はあたしと同期で、エッちゃんとみんなから呼ばれていた。彼女はノホホーンとして目立たない子だが、佐知さんは手を焼いていた。
エッちゃんとは、一緒に接客講習を受けた仲でもあり、何故か彼女とは気が合った。そして彼女は存在感が薄いせいか、みんなが知らない情報を器用に仕入れてくる。ひと月ぐらい経った時だろうか、エッちゃんが聞き出した情報は、従業員の控え室で食器を洗っていた時に、チーフの波多野さんが柳原亜紀は爽やかな子だなあとうっかり溢した。
「良くそんなもんを言ったもんね」
「だってあたしの存在は完全に無視されていたもん『アッ!お前そこに居たのか』って言われてエッへへって笑っちゃうと、これは内緒だよと言われた」
「それをあたしに言っていいの?」
「良いも悪いもないでしょうそれともあのチーフはお嫌い?」
返事を躊躇うと透かさず。
「あたい亜紀ちゃんのキューピットをやっちゃうから」
と嬉しい援護射撃を受けた。だから亜紀ちゃんも中途半端な気持ちじゃああたしも身が入らないからね、と釘を刺された。此のエッちゃんのお節介は、気持ちの整理もないままに、彼への吸引力を増して仕舞った。
お陰で控え目だった気持ちがエッちゃんから、チーフが気に入ってると解り、あたしは今まで以上にゲーム感覚で熱が上がった。
それからは波多野さんに目立つように振る舞いだした。これが功を奏して向こうも気に掛けてくれる。更にエッちゃんの仕入れた情報で、彼の趣味とか好みが解り、作戦が立てやすくなった。これで彼から気に入られる方法が解ると、気持をグッと引き寄せられた。
彼は冗談を言って人を良く笑わせた。だけどあたしには何処までが、冗談なのか判らない様に、時折真実を混ぜて言ってくる。思わず彼の心の奥底が見えてしまうと笑えなくなってしまう。そんな二人の日々が続くと、彼は悲劇の被害者を演じるようになった。でもあたしには、彼が心を痛める
エッちゃんも、これだけアンテナを張っても、捉えられないのを不思議がった。
「これはあたしの勘だけどチーフは何かを隠している」
エッちゃんは急に訳の分からないことを言い出した。
「世間ではあたしは空気みたいな存在なんだよ。だからみんなは環境で言葉を選り分けるけど、選り分けられない環境に居るあたいには伝わりにくいものまで伝わるんだ。だって何もない空気みたいな存在だもん、なのに伝わらない。これはあたしの勘だけどある時期までは口が裂けても言えないもんを彼は持ってるんだ」
「そう云えば最近は言葉の端々に影のようなものを感じるけどどうかしら」
「亜紀ちゃんだけには伝わるなんてそれは何なの」
「今まで爽やかだった渓流に嵐が過ぎた後にせき止められた澱みのようなものかしら」
「亜紀と云う嵐が彼の心中に吹き荒れて感情をゴチャ混ぜにされちゃってその気持ちの修復に心を痛めているんじゃあないの」
「あたしに寄り添うことで何かが芽生えたって言うの」
「それが愛だと云うものなら亜紀は素晴らしいと想わないの」
「いやこれは愛でなくエッちゃんからの友情の賜物だ」
「それを愛に変えたのが亜紀ちゃんだよ」
みんな仕事上は彼の下では何の不満もなかった。だからチーフの内面は誰も捉えきれなかった。エッちゃんは一番に忘れられる存在ゆえに、みんなは彼女が気にならず、つい口を滑らしても苦にならなかった。それがまた排水溝のように、エッちゃんの耳に流れ込んだ。亜紀はそれを両手に受けて、どれがあの人の為になるか選別すれば良かった。それでも伝わらないもの、言えないものがあれば、拾ってあげなけゃあいけない。それがあの人を愛した人の勤めだと想い、オブラートに包み込んで彼の喉に「どうしたの」とそっと投げ入れた。
それが効いたのか、有る日に二人っきりで話したいと彼が切り出した。きっと喉のつかえた何かを告白するんだと決めて逢ったんだ。
* * *
その喫茶店には、ピアノに管弦楽が加わった曲が静かに流れていた。テーブル席に向かい合って座る彼の居ずまいは、何処かいつもの覇気は見られなかった。それと引き替えに、何処か寂しげな神経質的なものが、全体から湧き上がり、空気を振るわすように漂っていた。いつもの彼じゃない、何か重大な決意を秘めている。
察しが付いた。別れたいんだ。何故、どうしてあたしの何処が気に触ったと云うのだろう。だが最初に出た言葉は「君が好きだ!」だった。
用意した引き留めの言葉が宙に浮いて、亜紀は暫く返す言葉に戸惑った。それを知ってか知らずか彼は、此の言葉の前に立ちはだかる物を取り除く努力を、君はいとわないか訊ねられた。
「それって何なのあたしで出来ることなの?」
「君しか出来ない」
彼の瞳は透明のように、亜紀の心の中に跳び込んでくる。それが亜紀には「これが愛なんか」と痛いほど心に突き刺さって来た。
「君を知るのが遅すぎたでも後を追うように君を乗せる列車が出るそれまで待ってくれるだろうか」
亜紀はちょっと首を傾げた。
「相手を気に入ったから一緒になる。でもそれ以上の人を知ったときにはもう列車はホームを離れてしまった。だから僕は途中で降りて君を待つ」
「それはいつ出るの」
「五年後」
「どうしてそんなに待つ必要があるの?」
「君が此処へ来る前に既に相手とは結納を交わし子供も出来るんだ」
亜紀は動揺する気持ちを微塵も見せなかった。これに波多野は胸にジーンと来た。
「どうして今まで隠していたんです」
「隠すつもりはなかったただ言いそびれただけだが君に傾斜した愛情がそうさせた」
「あたしの
「いや君の魅力の所為だよ」
* * *
「と恋する人から言われたら何て返せばいいの?」
ここまで黙って聴いていたエッちゃんは、
「キザねー、まさかあのチーフが、信じられない、でも心に思う言葉が何の
と云ってくれた。
のぼせている人には結納の話は冷水になるけど、亜紀には逆効果だった。
「それで亜紀は結納は倍返しだそうだからスナックで働いて返すって云ったのね」
ーー亜紀は原理原則に従う必要はない。愛を全うするなら結納相手を無視すべきで、愛に秩序はなく貫くだけだ。と言い張り、金で解決すべきではないと悦子は云う。
ーーでも
「でも五年待て、だと、ふざけんな ! それが愛なの」
とエッちゃんは憤慨した。
「そうだけど、でも相手とは五歳違うから五年後には同じ歳のスタートラインなんだと考えてくれと云われたの」
ーー結納を交わした相手とは五年の年月を隔てている。つまり五年経てば君は彼女と同じ歳になる。そこから二人の生活を始めれば、彼女も納得してもらえる。すなわち愛のリレー方式で次に愛した人が、その人の愛を受け継いで行く。五年の距離を空けてあたしが彼の愛の最終ランナーとして完走する。これが三方を立てた彼のシナリオで、これであたしは待つ覚悟を決めたの。
「でも五年後どころか明日さえ解らないのにそれでいいの?」
「それでも変わらないのが彼の愛だと信じれば付いて行けるでしょう」
だから最も愛情が熟成された時を選んで、亜紀は受け容れた。悦子にすれば遠距離恋愛ならいざ知らず、それは有り得ないが、もしかして二人が行き着けば、それが、究極の愛なのかは誰にも解らない。
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