第3話 亜紀の逃避先
その日の内に行き先も決めずに電車に飛び乗った。五歳の娘でも非常事態だと認識しても、なぜそうなったかは知る由もない。落ち着く美咲には、ピクニック気分が何処か片隅には、残っているのかも知れなかった。早朝のせいか電車は空いていた。しかも都会から田舎へ向かう、昔風に云えば下り線の列車だ。まだ小さい美咲は、窓側にへばりついて車窓から見える景色を見とれる。
「ママお
「そうね葉っぱばっかりに成ってきたわねだったらたいくつ」
「ううーん、だって今日は朝からズーとママと一緒だから退屈しない」
「そうか美咲、今日からずー〜と一緒よ」
「ママー、嬉しい」
「美咲、あんたがそんなに笑ったのは何年ぶりかしら」
幼いままに愛想笑いを浮かべる智恵を植え付けてしまった。それはあたしの至らなさだ。美咲に寂しい思いをさせたと亜紀は反省した。だが美咲はママのちょっとした愁いに直ぐに反応した。
「ママ、あたしを置いて何処にも行かないよね」
急なに言うの、と微笑むと美咲も穏やかな表情を浮かべて、ママの膝に乗っかって来た。
甘えたいのね、と亜紀は抱き寄せてやった。安心したように美咲はまた、車窓に映る景色に想いを馳せた。
此の列車は都会と都会を結ぶ列車で、人目を避けての逃避行だから、どっか途中でもっと山奥へ往く乗換駅で、列車を乗り継いだ。お昼はとうに過ぎていたので、亜紀は幕の内弁当、美咲は小さめの海苔巻きや卵焼きの入った弁当と、お茶を二つ買って、乗り継ぎ列車に乗った。走り出すと二人は弁当を食べた。こんな風に外で一緒に食べるのが、美咲には初めてで嬉しいのか、良く喋りながら食べていた。
車窓は何処までも続く山あいの新緑を映し、時折古びた集落を視線の彼方に飛ばしてゆく。やがて鬱蒼とした木々に囲まれた駅らしき場所で停車した。
あらこんな所で降りる人が居るのかしら、と思う内に大きな荷物を幾つか抱えたおばあちゃんが、行き過ぎると此処で降りようとした。ひとつに纏めればいいのに、沢山の荷物を下ろし始めた。
「わあー大変、美咲見てないで手伝ってあげよう」
「分かったママ」
亜紀は美咲の手を引いて、ドアに残る荷物をリレーして降し終えた。そこで美咲が「ママ大変ドアが閉まっちゃうよ」と慌てて戻ると、列車はドアを閉めて三人を残して出て行った。二人とも荷物はリュックに纏めて、背負っているから無事だったが、思案する二人におばあちゃんは列車もう来ないと言った。
「旅行? 何処まで行くの?」
「ええそうですけどでも行き先を決めてないから。美咲、今日は此処へ泊まろうか。何処かに民宿は在りませんか」
「此処はそんな気の利いたもの無いわよ」
ええ! どうする美咲、困ったわねぇ、と云うとおばあちゃんは、あたしのために申し訳ないと、今日は家に泊まりなさいと云ってくれた。
此処は無人駅らしく、待合室のようなベンチが置かれた小屋の周りには、樹木以外何もなかった。
「おばあちゃんの家は何処?」
あそこ、と一本の道路が木々で遮られたその先を示した。
「遠いの?」
「一キロちょっとだから大丈夫よ」
「でもおばあちゃん坂道よ。あたしはいいけどこの子はそんな山道は歩いたことが無いのよね」
するとおばあちゃんは、駅前に置かれた電動のシニアカートへ案内した。
どうやらおばあちゃんは此のカートで帰るらしい「この子だけなら乗せてってあげる」と謂われて有り難かった。が美咲が泣きそうな顔して、亜紀に絡みつくのをやっとなだめた。美咲はおばあちゃんの膝の上に載せられて村道を先に走り出した。此の一本道は集落まで続いていた。集落に入れば家ごとに細い道で此の村道と繋がっている。一番手前の家だから直ぐに分かる、とカートは亜紀を残して行った。
美咲がママー、ママーとおばあちゃんの膝から振り返っては叫んでいた。大丈夫よー、お利口にしてー、と何度もカートが見えなくなるまで叫んでやった。その度に美咲は頷いているように見えた。
やれやれ一キロ以上もあれば、あたしはともかく美咲の足だといつ着くか分からない。だからのんびりと歩き出すと、途中からクラクションを鳴らされた。うっそー、こんな山奥に、しかも抜け道でも無く、この集落で行き止まりと聞いた村道に何で車が来るの? 。
食品と雑貨を積んだ軽四の車が不審そうに思ったが、背中に背負ったリュックで旅行者に見えて、亜紀のまあ横を併走して止まった。
スライドした窓から、四十そこそこおばさんが顔を出して、不思議そうに亜紀を眺めた。
「どうされたんですか、此処には旅館も民宿もないのに……」
「此処で降りたおばあちゃんの荷物を手伝っているうちに列車が行ってしまってこれからそのおばあちゃんの家へ行くところなの」
訊けばこの移動スーパーは、一日おきにやって来る。丁度これからその家に行くからと早速乗せて貰った。
訊けば此処は十世帯十七人が、肩を寄せ合って暮らして居る。昔はもっと居たが子供は大きくなると、みんな此の村から離れた。いわゆる限界集落らしい。
「じゃあこの辺は何もないんですか」
「そうよ隣の駅までは七キロありそこならちょっとした町だから郵便局も診療所もあるし小学校もありスーパーマーケットもあるわよ」
その駅前には何でも揃っていた。反対側の駅は四キロだけれどトンネルがあり、道路だと山越えで十キロほどになっていた。
「おばあちゃんは電動車椅子で一キロやって云うて先に行かはったけど」
「そうよ殆どがお年寄りばかりなの。だからこうして食べ物や日用品を持ってこの辺りを巡回しているの」
「でもそんな人の少ない集落でも売り上げはあるの」
「あの集落の近くには、介護施設を兼ねた養護施設が有るから。そこの人たちが沢山纏めて買ってくれるの。だから結構実入りが良いの」
軽四は暫くは民家がない谷川沿いの村道をただ走っていた。
見えてきた集落の片隅には、木造二階建てで学校の校舎に似たような物が立っていた。
「あれがその養老施設。でも入居者は都会の人で地元の人は一人も居ないの、矢っ張り此処はお年寄りには環境が良いのかしら、みんな元気なのよ」
それはリハビリを兼ねた養護施設でもあった。そこにはATMが設置されていた。
「じゃあ預金が下ろせるのね良かったわ」
「何なら施設の方から先に行ったげるわよ」
「いえ、おばあちゃんの家に娘が先に着いて預かってるからそこで降ります」
「ええ! 一人旅じゃなくて子連れなの、それって何か訳ありそうね、まさか今よく聞く夫からのDVで逃れたの? 、此処のお年寄りはみんな虐待でなく躾だって言ってるけどそれなの」
「う〜ん、じゃあないだけど……」
「何か余計な事、訊いちゃったかしら、そうよね普通列車は両隣の駅は止まってもあの駅は殆ど通過してしまうもの、そんな駅で取り残されただけよね」
亜紀はそうなのと笑って応えた。
「普通列車も通過する駅なんて、じゃあ、あの施設の人たちはどうしてるのかしら」
「あそこには小型のマイクロバスもあるのよ。不定期だけど隣の町まで送迎しているらしいわよ」
「へ〜え、でも何でこんなへんぴな所に在るのかしら?」
それは昔の海軍病院だった。何でも戦前は海軍の療養施設だった。だから昔は此の村でも傷痍軍人さんをよく見かけたそうだ。前線で傷ついた傷病兵の機能回復、それと共に心のケアには此処はもってこいの場所だった。そう云われれば長閑な風景が存在していた。
この辺りから道は枝分かれして、最初の家に近付くとさっきのおばあちゃんが家から出て迎えてくれた。
「あのちっちゃい子が娘さん?」
「ええ、美咲って言います」
そう言えばお互いに名前を知らなかった。そこで柳原亜紀と
車が止まる前から、助手席の亜紀を見付けると、走ってくるから「危ないからそこにじっとしてなさい」と言っても飛んできた。車から降りた彼女の足下に飛び付くと、絡まって暫く離さなかった。泣きべそをかきそうな美咲を、抱き上げておばあちゃんに礼を言った。
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