#4 白狐

 朝日すら差さない暗闇で目を覚ました。

 陽が当たらないのに草木が生い茂り、鳥のさえずりさえ聞こえない奇妙な森の中、ただ一筋だけ通った道を通っていく。


 ふと、今まで感じていなかった生物の気配を感じた。幸い、この獣道を進めば巡り会えるだろうが、その気配はあまりにも弱々しく、今にも消え入りそうだった。

 命の灯火ともしびが失われる前に急がなくては。無我夢中で足元の悪い道を走る。急な曲がり道で足が縺れもつれて捻ろうが、救える命をそのまま放っておくことなどできない。

 走った勢いでかすった草に顔や手足を切られようと、それは些末なことだ。

 微かに、血の匂いが鼻を刺した。目を凝らして見ると、先の道に朱殷しゅあんと白がまだらに散りばめられた小動物が倒れている。

 すぐさま近寄り、それが乾いた血に塗れた白狐のようだった。最早息をしているのか分からない。


 一刻を争う状況だ。

 まだ体温は残っている。

 その狐の身体に触れると、まだ心臓は鼓動しているのが分かった。

 今は、この小さな命を助けることが先決だ。

 体中を巡る魔力を掌に集中させ、光を灯す。


 才能のある僧侶は『神聖魔法』の修行を、普段のお勤めを終えてからも、安息日であろうともく励むものだとベネディクトゥス様は仰っていた。

 あの方も司教、大司教、そして教皇へと上り詰める前は特務僧兵の任を務められていた。どの僧兵よりも人の死に携わり、どの僧侶よりも慈悲深かった。

 様々な命の形を見てきた。


 命あるものは皆、死ぬ。

 これ以上ないくらい単純明快なことわりだが、もし救える命が手中で掴めるのなら、それは必ず救うべきなのだ。


 私の神聖魔法が奏功し、みるみるうちに白狐の傷口は塞がる。血で汚れた身体も、神聖魔法の不浄を祓う効果で清潔な白さを取り戻していた。

 呼吸も息遣いが分かるほどには安定しているのが見える。予断は許せないが、首の皮一枚繋がったようだ。

 外傷や内蔵の損傷はこれで治ったはず。それでも流れた血を取り戻すことは敵わない。こればかりは滋養のある食物がなければ全快は難しい。

 食料袋に入っていた煎り大豆をいくつか手のひらに載せ、ジョッキの底でそれを割り砕く。それからジョッキには水を注ぎ、口に大豆と一緒に流し入れる。


 あとはこの獣道を進みながら、この狐が目を覚ますのを見守ることにした。

 その時に特段拒絶されることがなければ、そのまま世話をしても良いかもしれない。

 もしこの辺りに棲んでいる動物だとしても、迂闊に野に解き放っては無責任だと思った。

 そもそも、ここで血溜まりを作って倒れていたのだから、同族や天敵、あるいは恐らく潜伏しているであろう魔物にやられたかと容易に推測が立つ。

 口の聞ける種族であれば、事情を聞きたかったのだがやむを得ない。

 私は白狐を優しく抱きかかえ、再びイオリゴ共和国への裏道を進むことにした。


 しばらく歩き続け、身体に倦怠感を覚えたら食事にして、また歩き続け、限界と感じたら夕食――と言って良いのか分からないが――を済ませて眠る。

 食事の際、私は堅パンだけを食し、眠り続ける白狐には砕いた大豆を水で流し込んでやる。森を抜けるまではこのサイクルに終始するだろう。


 四回ほど繰り返した後の朝。

 そう、もう朝と断定しても良い。目先の道が明るく開かれていた。私は漸くこの樹海の山道を超えることができたのだ。結局、歩いている間はこの狐以外、特段動くものには出くわさなかった。

 一路、災いの無い道であったことを私は神に感謝した。


 抜けた先に見えた街道から先に、とても大きく、城壁のような結界に囲まれた街が見えた。恐らくあれがイオリゴ共和国だ。

 ぞろぞろと隊商や、武装した冒険者と思しき入国者が見える。私は早足で最後列を目指して向かった。


 検問の列を静かに並ぶ。驚いたのは、思ったよりも列の進みが早い。イグナチオでは、自国内の街と街を結ぶ検問ですら五時間以上かかることもあったというのに。

 いよいよ私が入国審査を受ける番になった。フルプレートを着た二人の門番のうち、一人が無言で手を差し出したので、イグナチオで発行したギルドカードを渡す。

「……ストラスト・ヤト。職業は僧侶か。イグナチオ皇国からということは、新教の僧侶だろう? 目的は布教か?」

「い、いえ。教会からいとまをいただきましたので、こちらで静養しようと思いまして」

 門番の顔は見えないが、頭を動かし私を一瞥してから「ふぅん」と軽く呟くのが聞こえた。

「なるほど。そういえば、新教特有の外套も着ていないな。その抱えている狐はお前のペットか?」

「この子は道すがら怪我をしているのを見かけまして。治療をしてから、ここまで連れてきたのです」

「ほう、良い心がけだ。お前は異教徒だが、慈母様はお前の行ないを評価し、祝福してくださるだろう」

「慈母様?」

「我らが慈母神教のイオ様のことだ。慈母神教では、ちょうどお前の抱えているような白い狐は神の使いと言われている」

 これは思わぬ巡り合わせとなってしまった。

 良かれと思って救った命だったが、神の使いをぞんざいに扱っていないだろうか。

 やっと辿り着いた先でのトラブルは避けたい。

「もしかして、白い狐をここまで連れてきたのはマズかったでしょうか? 何かお咎めなどあったりは……」

「お咎め? いやいや、神の使いとは言うが慈母神教では、神に近い存在を傍らに置くことは褒められる行為だぞ。敬虔な信徒達は皆、それぞれの家で飼っているからな。先日も俺の家で子狐が五匹生まれて、入信したばかりの若者に譲ったところだ。

これが神の使いとは思えないほど可愛くて――」


 饒舌にペット自慢をする門番に、先程とは打って変わって和やかな一面を見出してつい苦笑してしまう。ともあれ、私の行為は寧ろイオ教にとっては良き行ないであったことにホッとする。

 熱狂的なイオ教信者と思われる門番を、黙っていた方の門番が小突いたお陰でペット自慢は収まった。

 私もきっと同じように新教の道を進む者が、図らずとも神を敬う行為をすれば喜ばしく思うので彼の気持ちは理解できてしまう。

「まあ、なんだ。命を落としかけた神の使いをお前は救った。慈母神教に改宗すれば、皆歓迎しよう。気が向いたら教会に立ち寄るが良い。では改めて、ようこそイオリゴ共和国中心都市、聖都イオニアへ」

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