第19話

 歴史では信長軍の大勝利で終わっている天王寺砦の戦いも、本願寺側の記録を読むと逆の展開である。

 本願寺の資料によると、

『天正4年戸口付近の戦いの際のことである。織田信長自ら指揮し、羽柴、柴田 など 名うての武将を加えた大軍が猛攻を加えてきた。 大阪の一揆方はようやく戦況不利に陥ったころ、本願寺宗主顕如が紅の衣に身を包んで 高櫓の上に姿を現した。顕如の姿を見るや織田軍の中にいた真宗門徒たちはたちまち地に跪き、武器を捨てやおら「後生助け給え」と念仏を唱え始めた。その折も折寺内の早鐘とともに紫の衣に南無阿弥陀仏一心不乱と書かれた軍旗が閃くや城内の一揆勢は揃って打って出て、あっという間に戦況は逆転した。 』

 伝説と無視されている本願寺側の資料は、事実は勝利側が作るとしても興味深いものがある。今少し書いてみると、

『戦況は逆転し、織田軍は退却を始めた。その頃大阪の周辺には畿内の門徒らが集まっていたのである。志は大阪にあるものの、自分が籠城に加わったら妻子はどうなるのだろうか、年老いた両親はどうなるのだろうか、 と思い止まった彼らではあった。

 だが、大阪の 方を見て戦況はいかにと心配でならず、やがて20人30人と連れ立って大阪近辺にやってきた者達が集まり、とうとうその数は万を超えた。これらの者たちが、退却する織田軍に棒や竹竿あるいは鎌、斧と言った 得物で打ちかかった。

 さすがの織田軍も退却中のこと言ゆえ 臆病風に吹かれ、竿や棒も槍や刃に見えたのだろうか。算を乱して逃走し、究意の兵士にも討ち取られる者も出た。門徒のなかには、首を取って 鎧や槍、薙刀を奪う者もいた。邪見放逸にして本願寺に戦いを挑んだ信長公は、誠に諸仏の冥罰を受けたのであろう。』

 以上、長々と資料を紹介したのは他でもない。桶狭間で二万五千の今川軍を二千で撃ち破り、大将の首を取った信長でさえ本願寺戦では負傷し、多くの将を失い、しかも敵の将は一つも討ち取れなかった事実である。戦の天才信長でさえ、本願寺には辛勝しかできなかった。

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