第18話

 本願寺は全国に激を飛ばし、全国各地から門徒が集まった。 確実に番衆を送ったと史料がある国だけでも、摂津、河内、大和、和泉、近江、越前、加賀、能登、越中、越後、美濃、尾張、相模、武蔵、紀伊、阿波、讃岐、備後、安岐、石見と挙げることができる。 これに番衆を送ったという伝説の残る国を加えると、佐渡、信濃、甲斐、伊豆、丹波、播磨、備前、豊後、筑後、備前と主要な伝説だけを取り上げても32ヶ国となる。しかも門徒たちは番衆という軍事的支援だけではなく、もっと多くの武器、弾薬、兵糧など次々と送り込んでいた。新聞、携帯がない時代に、大阪周辺には多くの門徒が檄に応じて集まっていた。

 佐久間は、それらを追い払うことができなかった。大阪周辺は一向宗の寺が多く一応中立の立場を保っているが、大阪周辺で事を起こし万が一住民を殺すようなことがあればただではすまない。大阪中の一向宗が敵に回れば、織田軍は袋の鼠となる。 織田軍は石山本願寺を囲んではいるものの、大阪中は一向宗の強固な地盤である。

 織田軍は石山周辺の10か所の砦と点を確保しているに過ぎず、面は本願寺の勢力範囲であった。日中戦争の中国における日本軍のように織田軍は度々本願寺側のゲリラ戦に悩まされ、しかもそれを安易に討伐できずにいた。石山戦の織田軍は畿内出身の者も多く、一向宗徒も多かった。周りは敵だらけ、身内にも内通者が多数存在しているのは明らかだった。

 大阪本願寺を石山本願寺と呼ぶのは大阪本願寺を矮小化する言い方で、逆に言えばそれだけ石山本願寺は信長にとって最大の強敵だった証拠である。 松永久秀、三好義継、荒木村重、 別所長など近畿の武将が数多く信長を裏切ったのも、石山本願寺を信長が攻略できなかったからである。

 彼らは信長が石山本願寺を攻略できないのを信長与し易しと勘違いしたのである。本願寺は三河、尾張、加賀、越前など地方では大名と戦っているが近畿の大名とは戦わなかった。近畿の大名は、もともと本願寺とは 友好的であった。 近畿は本願寺より歴史も格式もある大寺院がいくつもあり、新参の本願寺は大名と手を結び勢力を拡大した。特に三好と本願寺は、共に近畿では新興勢力で仲は良かった。

 近畿では本願寺の方が信長より馴染み深く 、大名から庶民に至るまで縁が深かった。近畿では進駐軍の織田軍より在来の本願寺の方が応援する人々が多く、それが織田軍を苦しめた。

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