第11話
劣勢に陥った信長は、ほぼ全軍を佐久間信盛に預け信玄にあたらせた。しかし信盛はこの一大事に戦わず、守りに徹した。信長は出馬できなかったぶん、信盛の采配に業を煮やしていた。将軍が裏切ったことで、京近郊で信長に味方に留まっていたのは石成友通、義昭の側近で勝龍寺城主の細川藤孝、三好三人衆方の摂津国人池田氏の家来である荒木村重の3人だった。
信長の勢力範囲は、尾張、美濃、南近江の二カ国半に激減、将軍家よりも小さくなってしまった。信長は藤考と村重と共に4月3日から4日にかけて上京を焼き討ちにして、義昭に圧力をかけた上で和睦交渉を行い7日には義昭の挙兵を鎮圧してしまった。 信長は義昭の兵が集まらないうちに先制攻撃を与えて義昭の気勢を削いだが、義昭には三好家という強い味方がついておりまだ諦めてはいなかった。
当時信長はまだ信秀の不肖の息子という認識から脱してしておらず、勢いで京に入った成り上がりとしか見られていなかった。それに比べて三好義継の父長慶は、10年以上も前に近畿や四国の十数カ国を支配していた大名であった。しかも三好家は、官位も高く血筋も信長より格段に上だった。長慶は 御伴衆に任じられ位階も将軍義輝に並ぶ従四位下を得ており、加えて相伴衆を任じられ、さらには桐絞を拝領していた。
三好家の非常に高い官位は家督とその嫡子だけではなく、兄弟や一族、重臣にまで栄典が及んでおり、つまり三好家は三好実休、三好長逸、松永久秀という有力大名家の格式を持つ家を内部に包含する大大名であった。 三好義継は父方が足利将軍家並みの家格であると自負する三好家の当主であり、母方は朝廷で近衛家と勢力を二分し関白職を争う九条家という日本屈指の貴種で、信長とは比べようのない戦国武将最強の血統であった。
この三好義継は、三好長治と組んでかつての支配体制の再興を目指した。長治は、父 実休時代の三好四兄弟による支配体制長慶(摂津、山城)実休(阿波、丹波、河内)安宅冬康(淡路)十河一存( 讃岐、和泉)を三好長治(阿波、河内)三好義継(山城、摂津)十河存保(讃岐)安宅神五郎(淡路)で復活しようとしたのである。 三好家は 山城、丹波を失陥したとはいえ、久秀や長逸が本宗家当主を補佐し、三好一族が一体となって天下を治めるという父世代の黄金時代を再建を目論んだ。
そして8月になると、義継が妙心寺に久秀が 大山崎に禁制を発給しており、京都を窺うまでに勢力を拡張していった。 8月と12月には吉継の家臣が 四天王寺に定書を発給しており、摂津欠郡を支配下に置いた。三好家は、次第に復活し始めた。
三好家が復活すれば、讃岐、淡路、摂津、河内、和泉、山城、大和の八カ国を領する大大名となり、尾張、美濃、南近江の二カ国半しか領有していない織田家を圧倒する。しかも多くの銭貨が集まる京、堺を領有し、 経済力や勢力と共に織田家を凌駕する。三好家は将軍義昭も擁しており、織田家は一地方の大名に転落を意味していた。しかも甲斐より戦国最強と言われた武田軍が松平領に侵攻し、織田家は絶体絶命のピンチを迎えていた。
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