第10話

 長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎である。 佐脇藤八を除く3人は、彼らに苦言した坂井道守を惨殺したため出奔し、松平元康の元に身を寄せていた。小姓衆といっても、年齢的には信長よりやや年少にすぎないので壮年に達していた。桶狭間の戦いでは信長の側近中の側近として従軍したが、このうち4人が討ち死にしたことになる。 帰参を願っての参陣だったと思われるが、信長に許されることなく戦場に散った。

 もう一人の岩室長門守はこれに先立って討ち死にしているので、桶狭間の戦いの頃に最も身近だった小姓衆全員が討ち死にしてしまったことになる。信長から援軍の対象の一人として、派遣された平手政秀の息子汎秀も気負っていた。彼は、信長に認めてもらおうと必死だった。

 彼らは、武田軍が自分達を無視して岐阜に向かうのを見過ごすことができなかった。 これが信玄の罠であると知らずに、信長軍は三方ヶ原に誘き寄せられ次々と殲滅された。松平軍も、信長軍を見捨てられずに出陣し大敗した。

 三方ヶ原の戦いは、織田、松平連合軍の完敗で終了した。この時の織田軍の援軍が三千というのはおそらく三方ヶ原で戦った織田軍の人数だろう。佐久間信盛は、この戦いに参加せずに浜松城に留まった。信玄が浜松城を攻めなかったのは、おそらく織田軍の主力がまだ浜松城に温存しており力攻めでは落ちないと判断したのだろう。

 戦で勝利した武田軍ではあったが、織田軍を全滅するという計画は失敗したことになる。武田軍は浜松城で松平元康を殺すことを諦めて、 遠江の松平の支城を攻め落とす策に変更する。松平が部下を見捨てれば信用を失い自滅すると考えたのである。松平元康は、窮地に陥った。

 信長はその人生の中で何度もピンチを迎えたが、その中でもこの時期が最大のピンチであった。しかも今までと違い、彼はこの戦場に行くことができなかった。なぜならこの時期、京で将軍足利義昭が信長を見限り義景と長政に挙兵の意思を明らかにしたからだ。 信長は2月23日に、細川藤考宛の黒印状で義昭との和睦を望み人質を差し出したことを伝えている。状況は圧倒的に信長に不利であった。

 筒井順慶も、信長を見限った。2月27日三好義継、松永久秀、三好長逸は中島城を攻略して、信長方の細川信良を堺に退去させた。その久秀に対して興福寺大乗院尋憲は、3月6日付けで 「天下本意に属し京都へ上洛候由、尤も日出度候」と祝意を表していた。上洛した久秀も、義昭と結んだことを3月9日付で興福寺の福智院実舜と 自らの家臣四手井家保に伝えているので、畿内の人々は信長の敗北を確信していたことを伺わせる。

 義昭は7日に信長へ人質を返し、対決姿勢を強めた。22日には聖護院道澄へ、朝倉、本願寺、三好だけではなく、毛利や小早川、浦上氏にも参陣を促していることを伝え、本願寺顕如は大友宗に畠山秋高と遊佐信教が義昭に味方したことを述べている。

 すなわち足利義昭は、織田信長を切り捨て 武田信玄、朝倉義景、 浅井長政、本願寺顕如、三好義継、松永久秀、篠原長房、筒井順慶、畠山秋高、 遊佐信教、浦上集宗景、毛利輝元らを取り込むことで幕府の再強化を図ったのである。

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