第7話 三方ヶ原の戦い

 永禄13年1月23日、信長は政権を委任することなど掲げた五ヶ条の条書を義昭に認めさせ、同日付で幾内近国の諸大名らに2月中旬に上洛して幕府に礼参するように命じた触状を発した。信長の風化に置かれるのを不服とする朝倉は無視し、 相談もなく部下扱いされる浅井も納得がいくものではなかった 。 

 信長は触状を無視したとして越前朝倉義景を討つため、4月20日松平元康の援軍を得て総勢4万人を率いて出陣した。朝倉の手筒城、金ヶ崎城を一気に落城させ、越前に乱入しようとした矢先に妹お市の嫁ぎ先の浅井氏が反旗を翻し、朝倉軍に呼応して信長の退路を断った。袋の鼠となって窮地に陥った信長であったが、松永久秀の尽力によって湖西を通って京都に逃れることができた。

信長は志賀、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛 、長光寺城に柴田勝家、安土城(信長の安土城とは別)に中川重政兄弟を配置し、浅井勢や六角氏の逆襲に備えた。岐阜に戻った信長は態勢を立て直し、松平元康の援軍を得て6月28日、姉川で浅井、朝倉連合を打ち破った。

 しかしその後は三好三人衆に味方した本願寺が信長を攻撃し、摂津から撤兵するなど苦境の連続だった。浅井、朝倉も十分な余力を残しており、 三方とも言われる軍勢で 南近江の坂本口に迫り、京都に入洛する勢いを見せた。宇佐山城守備していた森可成は、果敢に戦を仕掛けたが衆寡敵せず討ち死にした。 この時信長の弟 信治ら多くの将を討ち取られた。10月22日には若狭でも武田氏が信長から離反し、11月21日には長島一向一揆が終わり尾張小木江城を攻略し、信長の弟の織田信興を討つなど各地で反信長の挙兵が相次いだ。

 三好三人衆、阿波三好家、本願寺、延暦寺、六角氏、浅井氏、朝倉氏、若狭武田氏が信長に対し 包囲網を狭めていくかに見えた。ところが長島一向一揆が織田信興を討った11月21日に、六角承禎が志賀の信長の陣に赴き、両者の間で和睦が成立した。また11月12日より松永久秀の仲介で、三好三人衆や三好長治と信長の和睦交渉も始まり、21日には久秀の娘を信長の養女として長治に嫁がせることが決定し、22日には岐阜から信貴山城へ娘が下った。そして12月7日には、篠原長房から久秀に人質が遣わされた和睦が成立した。

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