第32話 掃除とお祝い

 ちょうど前払いしていた分がなくなるタイミングで、その日のうちに私は黒牛くろうしつの亭から引っ越した。


 即断即決の即行動にリーシェさんはびっくりしていたけど、私としては一刻も早く自分の家――というか自分のトイレ――が欲しかった。


 引っ越し荷物は木箱に入れて自分で運べるくらいの量(デルトンさんが運んでくれた)。宿屋に泊まっていたのだから当然だ。大荷物になるはずもない。


 ちなみにデルトンさんは同じアパートの一つ下の階に決めていた。隣の部屋もあいていたんだけど、タッチの差で他の人が契約してしまったのだ。


 家具も何もないがらんとした部屋。


 それでも、ようやく自分の居場所ができたみたいで嬉しかった。


 取り急ぎベッドだけは買った。しかもちょっと奮発していい物を。


 だって睡眠は人生の四分の一から三分の一を占めるのだ。


 高校時代に夜更かししてばかりいた私は、働くようになって睡眠の大事さを学んだ。眠いと翌日のパフォーマンスに影響する。


 一緒に買い物に付き合ってくれたデルトンさんも、睡眠は大事だと力説していた。


 注文したベッドが運び込まれた後、私が最初に自宅でやったのは、もちろんトイレの掃除だ。


 浄化の魔導具をトイレに溜まった水の中に落とせばたちまち綺麗に……なんてことにはならない。


 おけに洗濯物と一緒に入れても水しか綺麗にならないから、よく知っている。


「でも、一応やってみよう」


 上手くいけば超ラッキーだ。


 私はぽとりと浄化の魔導具を水の中に落とした。


 魔導具と水が青く光り――。


 パキッ


 一瞬で魔導具にヒビが入った。


 そんなに汚いの!?


 もう二度と使えないなとは思っていたけど、これはかなりショックだ。


 いやいや、たまたま限界だったのかもしれないし。だいぶ使った後だもん。


 さらに魔導具を犠牲ぎせいにしてまで実験をやる気にはなれず、私はブラシを手に取った。


「げ」


 そして気づいてしまう。落とした魔導具を拾わないといけないことに。


 ゴム手袋はない。


 背中をぞわりと悪寒おかんが走った。


 なんとかブラシで取ろうとしたけど上手くいかず、結局私は観念して手を突っ込んだ。


 その後ブラシでこすり上げ、どうせ一度突っ込んだんだからと、ブラシで落とせない所は手を使ってたわしでこすった。

 

 結局、こびりついていた汚れを全部落とすことはできなかった。


 でも、かなり綺麗になったと思う。これ以上は無理って自分で思える段階まではやった。


 外側もピカピカにみがき上げたときには、部屋の中はいつの間にか薄暗くなっていた。


 ぐぅ、とお腹が鳴る。


 いつもは朝ご飯だけだけど、今日は頑張ったし、引っ越し祝いってことで、何か食べようかな。


 台所があるんだから自炊じすいをすればいいじゃない。


 そう思ったけど、調理器具がない。食材もない。


 自分で作ればまだましな味付けができるのではと期待しているんだけど、まだしばらくはお預けだ。


 外で食べようとアパートを出る。


 しばらく歩いたあとにふと気になって後ろを振り返ると、デルトンさんがいた。


 こわっ!


 外出することをどうやって知ったのか。隣の部屋でもないのに。


 いや、私からデルトンさんに出かけるって言いに行くべきだったのかも。


 気まずい表情を浮かべていたデルトンさんに歩み寄る。


 そりゃそうだよね。こっそり護衛しているつもりが、護衛対象に気づかれたんだもん。気まずいよね。


 そんなヘマをそうそうする訳がないから、きっと油断していたんだろう。


「ご飯、一緒に行きませんか。引っ越しのお祝いに」


 私はデルトンさんを誘った。


 一人で食べるより、二人で食べた方が美味しい。きっと「ものすごく不味まずい」が「すごく不味い」くらいにはなる。


「珍しいな。いつもは食べてないだろ」

「今日は食べたい気分なんです」

「その方がいい。セツは食べなさすぎだ」


 私たちは近くのレストランに行くことにした。


 出てきた食事は……まあ、うん……。


 タレに漬け込んで焼いた肉や、酸っぱく味付けした魚を、デルトンさんは美味しそうに食べていた。


 こっちの人があっちの世界のご飯を食べたら、あまりの美味しさにほっぺたを落っことしちゃうのかな。


 それとも、すんごい不味く感じるのかな。


 そんなことを考えて気をまぎらわせつつ、私はサラダばかりつついていた。なまの野菜はまだ食べられる。


 合間あいまにはブドウジュースを飲む。


 お酒は飲まないと決めていた。


 まだ二十歳はたちになっていないからって訳じゃない。


 飲みたいと思わないし、この世界で酔っ払う勇気が私にないからだ。何かやらかすのも、何かされるのも勘弁。


「もっと食え」

「もうお腹いっぱいです。デルトンさんが食べて下さい」


 二人の前に置いてある何枚もの大皿。そのほとんど全部がデルトンさんの胃袋に収まった。私は味見だけ。


 自炊に賭けよう。


 素材の臭味くさみを消す方法はあるはずだ。


 その上で好みの味付けにすれば、きっと今よりは美味しいと感じられるはず。


 店は日中にしか開いてないから、調理器具や食材を買えるのは次の休みの日だ。


 来週は私の料理の腕がうなるぞ!


 ……卵焼きとカレーしか作れなかった腕だけど。

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