第5話 異世界の朝

 朝、目が覚めると、ベッドの天蓋てんがいの見事な絵が目に入った。


 やっぱり夢じゃなかったか。


 今何時なんだろう。時計は見当たらない。


 ただ、どっしりと重そうなカーテンの隙間から日の光が見えて、少なくとも夜ではないことがわかった。


 ごそごそと布団から抜け出す。装飾は見事だけど、寝心地はいまいちだった。マットは硬いし、上掛けは重い。


 分厚い絨毯じゅうたんの上を裸足はだしでぺたぺたと歩き、長椅子の背にかけていた制服を手に取る。


 コンコン


「ひゃっ」


 入り口からノックの音がして、私は制服で胸元を覆った。しわになるのが嫌で脱いで寝たから、今の私はブラジャーとパンツしか身につけていなかった。


「小日向さん、起きてる?」


 田野倉くんだった。


 カチャリとドアが開けられる。


「ままままま待って! 開けないでっ!」

「………………ごめんっ」


 田野倉くんは私の姿を目にして少し固まったあと、はっとして出て行った。


 何でカギかけなかったの、昨日の私!


 家の部屋にはカギなんてなかったから、開けたまま寝てしまったのだ。


 悔やまれるが後悔してももう遅い。


「あのっ、メイドさんが来て、顔を洗う用の水を置いてってくれたんだっ。それで、そろそろ朝食だってっ」

「う、うんっ。わかったっ!」


 確か田野倉くんには妹がいたはずだ。女の子の下着姿なんて見慣れてるはずっ。うんうん、大丈夫大丈夫。


 そう自分に言い聞かせながら、制服を手早く身につけていく。


 顔が熱い。火が出そう。


 田野倉くんだって田野倉くんだ。女の子の寝室を断りもなく開けるなんて!


 最後に靴下と靴を履いた。昨日と同じ靴下を履くのは嫌だったけど、素足でローファーを履くのはもっと嫌だった。


 カーテンを開け、ベッドを簡単に整え、髪を簡単に手ぐしでとかしてから部屋を出る。


「お、おはよ……」

「……おはよう。水はそこに」


 気まずい思いをしながら、田野倉くんが指さした方を見ると、タライが置いてあった。コントで上から落ちてくる銀色の金属製のやつじゃない。たるの下部分だけって感じの木製だ。


 中には、大きな黒の碁石ごいしみたいな物が入っていた。持ち上げてみると結構重い。


 なんだろう、これ。魔導具じゃないよね。


 しげしげと眺めていると、田野倉くんが教えてくれた。


「焼いた石を入れて水を温めてくれたんだ。魔導具じゃなくて残念だよ」


 何でもかんでも魔導具を使ってる訳じゃないんだ。


 石を戻して、ぱしゃぱしゃと顔を洗った。洗顔料が欲しかったけど、そこは諦めるしかない。顔を洗う習慣があるだけありがたいのだ。だってルイ十四世の時代には(以下略)。


 テーブルの上に置いてあったタオルをとって顔を拭く。タオルっていうか、ガーゼ? 


「終わった?」

「うん」

「じゃあ僕も」

「先に洗ったんじゃないの?」

「いや、僕の後じゃ小日向さんが嫌かなって」

「そんなこと全然思わなかったけど」


 なんという気遣いだろうか。さすがモテる男は違う。


 でもそんなこと言われたら、自分が使った後の水を使われるのが恥ずかしくなっちゃうじゃん!


 私は、昨日のカップの中に入れっぱなしだった浄化の魔導具をタライの中に放り込んだ。


 魔導具はすぐに反応し、水は綺麗になった。


 けど、なんか私がすごく汚かったみたいで微妙な気分になる。


「小日向さんの前にも使えばよかったね」


 田野倉くんはそんなことは気にした様子はなく、魔導具を取り出してから顔を洗い始めた。


 入れっぱなしにしたまま顔洗ったらまた反応するのかな、とちらりと思ったけど、気まずい空気になりそうだったから黙っていた。

 

 田野倉くんがテーブルの上で手をさ迷わせていたので、タオルもどきを渡してあげた。


「ありがとう」


 うわ。


 顔を拭いた田野倉くんを見て、私は目を見開いた。


 前髪が濡れておでこに張り付いていて、なんだか色っぽい。さすがイケメン。


 ときめきよりも前に感心してしまった。なんか、昨日の興奮っぷりを見て、憧れの気持ちがどこかにいってしまったようだ。


「何?」

「ううん、なんでも」


 手を振って誤魔化す。


 と、ここで、とても重要な問題が発生した。それも結構差し迫っている。


 やばい! どうしよう!


 なんで昨日メイドさんに聞いておかなかったの!


 田野倉くんに聞いてみるしかない。


 じゃないと人生の最大の汚点になること間違いない。


 超高速で葛藤かっとうしたあと、私は田野倉くんに聞くことに決めた。ぐずぐずしてたら手遅れになっちゃう……!


「あのっ、私、お花みに行きたいんだけど」

「花?」


 遠回しに言ってみたけど、通じなかった。


「パウダールームに……」

「?」


 ああっ、もうっ!


「トイレ! トイレに行きたいの!」

「ああ、トイレ。廊下出て右手の突き当たりだよ」


 お礼もそこそこに、私は廊下に飛び出した。膀胱ぼうこうがもう限界と言っている。


 トイレという場所の存在があることにまずはほっとした。所構わずというわけではないことは、建物の中が綺麗だったからわかっていたけど、部屋の中でおまる・・・という可能性もなくはなかったからだ。


 よくわからない記号のプレートがついた扉に手をかけて、立ち止まる。


 入りたくない……! 


 ああ、でも無理っ! もれちゃうっ!


 覚悟を決めて、私はトイレに足を踏み入れた。

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