第39話◇エピローグ・裏・前編

 



 夜。ディル宅。


「それでは、おやすみなさいですっ、ディル先生!」


 夕食の片付けを終えたアレテーが、帰宅するところだった。


「あぁ」


「……むぅ。おやすみなさいです、ディル先生?」


 アレテーは唇を尖らせた。

 彼女にしては珍しい仕草だ。


「あ?」


「……ディル先生」


「なんだ子うさぎ、まだ何かあんのか?」


「……子うさぎ……子うさぎに戻ってしまいました……」


 しょぼん……と落ち込むアレテー。

 よほどレティと呼んでほしいらしい。


 ディルはため息を溢す。


「お前が一年生き延びたら、呼んでやる」


 ぱぁ、と彼女の表情が輝く。


「はい、頑張ります! 先生の教えを守って、長生きします!」


「もう帰れ。眠くなってきた」


「では、失礼しますねっ」


 ぴょんぴょん跳ねるような勢いで、彼女が扉に向かう。


「……なぁ、子うさぎ」


「はいっ、先生っ! なんでしょう?」


「お前が…………。いや、なんでもない」


「先生?」


「忘れろ」


「? 大丈夫ですか?」


 ディルは舌打ちする。


「三バカを助ける時、お前に狼出してもらったろ。その借りを返すから、何か言え」


「えっ!? そんなっ、わたしはそのあと、先生に命を救われたわけですし!」


「アホ、教官が生徒助けるのは仕事だ。お前が三バカ助けたのとは違う。いいから何か言え。言わなきゃ俺が適当に何か考えるぞ? いいのか? そうだな、お前は年の割に体が貧相だから、胸がデカくなるダンジョンアイテムを――」


「言います! 言いますので!」


 アレテーが顔を真っ赤にしてディルの言葉を止めた。


「えと、えと……その、一緒にダンジョンに潜ってほしい……です」


 もじもじと、手と手を組み合わせながら、アレテーはぼそりと言う。


「あぁ?」


「まだ一人でダンジョン探索するのは心細いので……ダメ……でしょうか?」


 『落とし穴』を経験してしまった以上、第一階層安定空間で充分活動できる力を身に着けても、不安なのかもしれない。


「お前がそれでいいなら、行ってやるよ」


 彼女の顔に、笑顔の花が咲いた。


「はいっ! ありがとうございます」


「で? 俺が教えたこと忘れたか?」


 彼女がハッとする。


「そうでした……! えと……その、先生が七割というのはどうでしょう?」


 パーティーを結成する時は、獲得品をどう分配するか事前に決めておくこと。

 ちゃんと覚えていたようだ。


「悪くない。相手との力量差や経験差から、新人は対等な取り引きを出来ないものだしな。ただ、俺は山分けと決めている」


「えっ……わたしが先生に、色々と教えてもらう立場なのにですか?」


「俺の流儀なんだ。嫌なら一人で行け」


「い、いえっ。それでお願いしますっ!」


「よし、じゃあひとまず明日だな。体調次第ではズラすから安心しろ」


「はいっ! よろしくお願いします!」


「話は済んだ、もう帰れ。……腹出して寝るなよ」


「わたし、寝相はいい方なんですよ?」


「そうかよ」


 アレテーは再び就寝の挨拶をしてから、今度こそ去って行った。

 扉が閉まり、部屋に静寂が訪れる。


 彼女のいなくなった部屋で、ディルは本来言いかけていた言葉を口にする。


「『お前が生き返らせようとしてるのは誰だ』なんて、訊いても意味ないだろ」


 アレテーは、ディルに懐いているようでいて――実際慕ってはいるのだろうが――自分の心の深い部分については晒していない。


 誰を蘇生したいのか。

 実家で親の手伝いをしていたというが、その親はどうなり、健在ならば娘がプリガトリウムに向かうことをどう思っているのか。

 受講料をどう工面したのか。


 そういったことに関し、ディルは踏み込まない。

 そして、アレテーも語らない。


 訊いたら答えるだろうか。

 答えるのだろう、とディルは思う。


 だがそれをした時、ディルとアレテーという少女の関わりは、一段階深くなってしまう気がした。

 こんなふうに気にかけている時点で、もう手遅れかもしれないが。


「……くそ」


 ディルは頭をぼりぼりと掻き、直前の思考を追い払う。

 廊下に人の気配がないことを確認してから、部屋を出る。


 向かう先はアレテーの住んでいるのとは逆の隣室。


 二○四号室。


 ディルは、この部屋の家賃だけは欠かさず払っていた。

 扉を開くと、アレテーの部屋よりもずっと無機質な空間が広がっている。


 寝室に向かい、扉の前に立つ。

 ドアノブをひねるのに、いつも勇気が必要だった。


 十秒、二十秒と経ち、ようやく覚悟が決まる。

 扉を開く。


 そこには、ベッドがあった。


 ベッド脇には、透明の液体が詰まった袋と、それをぶら下げる点滴スタンドが立っている。

 液体はチューブを伝って、ベッドに眠る人物の腕まで流れている。


「……よぉ」


 声の軽さに反して、ディルの足取りは重い。

 一歩一歩、ゆっくりと近づいていく。


 暗い部屋で、窓越しに入ってくる月明かりだけが、周囲の輪郭をディルに教えてくれる。

 黒い髪の少女だった。


 ――『自分と同じ黒髪黒目。髪は肩くらいまであり、自分よりずっと長い。自分と違って、容姿に優れていると村でも評判だった。』


 ディルの妹を説明するこの表現が、目の前の少女にはそのまま当てはまる。


 なにせ、本人、、だからだ。


 ディルはベッドの側に膝をついて、妹の顔を眺める。

 血色はいい。表情はないが、呼吸はしている。


 かつて死人のような顔色で病に苦しんでいた頃とは、大違い。

 年齢は、ディルの一つ下。


 しばしば死者を想う際に『もし生きていたら、この年齢になっていた』と考えることがあるが、生き返った妹は、死んでいた期間分も体が成長していた。


 そう。

 深淵はある。

 死者は生き返る。


 ただし、生き返るだけ、、、、、、だ。


 ディルは深淵に辿り着いた。

 深淵への入り口は、基本的に隠されている。


 第七階層・傲慢領域にて、極稀に、極短時間、ランダムな地点に、『扉』が出現する。


 入れるのは一人だけ。

 取り戻せる死者も一人だけ。


 ディルは願った。

 どうか妹を生き返らせてください。

 健康な体で、続きの人生を生きられるようにしてください。

 お願いします。お願いします。どうかお願いします、と。


 願いは叶った。

 妹は、ディルが蘇生してから一年間、健康な体で、続きの人生を生きている。


 ずっと、眠ったまま。


 ディルは忘れていた。失念していた。

 自分たちが探索しているのは、大罪ダンジョン。

 人の罪を体現した空間。


 暴食領域で手に入る食材は、美味だ。あまりに美味で、飽きが来ず、中毒性こそないが、死ぬまで毎日それを食べることになっても問題ないと言い切れる魔法の食材だ。

 それ故に、人は許される限り、自分に可能な限り、それを食べてしまう。


 美食領域ではなく、暴食領域と呼ばれていることからも、それは理解出来るだろう。


 怠惰領域で手に入る『様々な事柄を省略できるアイテム』に関しては、回数や期限が設けられている。

 永遠に楽は出来ないとでも、教えるように。


 色欲領域で手に入る媚薬も精力剤も美しさも、一時的なまやかしに過ぎない。

 少し時間が経てば、本来の自分と直面することになる。


 全ての領域がそうなのだ。

 人生を豊かにするようでいて、完全には救ってくれない。


 永続効果のアイテムが手に入る深層においても、そこは共通している。

 どこかしら、歪みがあるのだ。


 人を構成するのは、肉体、魂、精神であると誰かが言った。

 肉体だけでは生きられない。魂だけでは動けない。精神だけでは存在できない。


 体と、それを生命たらしめる魂と、『個』を成立させる精神。

 三つ全て揃ってこそ、生命は起きて、考えて、動くといった活動が出来る。


 ディルの妹にあるのは、肉体と、魂か。

 精神がないのか。


 だから、起きてくれないのか。


 ディルは、寝たきりの妹を生かすことに人生を注いでいる。


 彼女がいつ起きても、そのまま人間らしい生活が出来るように、ダンジョン由来のアイテムも使って、健康的な肉体の維持に努めている。


 ディルが万年金欠なのは、自身の探索装備にダンジョンアイテムが必要なのに加え、妹を生かすのに莫大な費用が掛かっているからだ。


 これだけは、リギルを頼れない。

 自分がなんとかせねばならない。

 自分が生き返らせてしまった、自分の妹なのだから。


「こんなふうに、するつもりじゃなかったんだ……」


 生きて、元気に走り回る姿をもう一度見たかった。

 そのためだけに故郷を捨て、この都市で探索者になり、深淵を目指した。

 ようやく手が届いたと思ったら、これだ。


 ディルはしばらく、妹の寝顔を眺めていた。

 こんな形で妹が生き返った以上、かつてのように探索者は続けられなかった。

 だが、それ以外に出来ることもなかった。


 金が必要だった。

 リギルが用意してくれた職に、向いてないと分かっていながらも就いたのは、これが理由。


 だというのに――。

 フィールたちを見捨てられず、アレテーを見捨てられず、そしてきっと、仲間が危機に陥れば見捨てられず、助けに行ってしまう。


 目を覚まさない妹を取り戻してから、ディルはもうずっと自分のことを嫌いになってばかりだ。


「……また来るよ。おやすみ」


 妹の頭を撫で、部屋を後にする。

 そして、ここにいない人物に向かって、ぼそりと漏らす。


「……お前なら、これでも生き返らせるのか――アレテー」


 アレテーが過去について話さないのも、ディルが深淵について話さないのも、おそらく同じ理由からだ。

 自分の重大な罪を吐露するようで、とてつもなく、恐ろしいから。


「リギル、お前は何を狙ってる……」


 アレテーのことを、ディルは受け入れてしまった。

 おそらく、ここまでは彼の目論見通り。


 だがこの先は?

 彼女に本当のことを話して、止めろというのか。

 あるいは彼女が、ディルの現状を好転させると考えているのか。


 自室に戻る直前、ディルは妹の眠る二○四号室と、アレテーの眠っているだろう二○二号室、両方に一度ずつ視線を向ける。

 視線を切り、ディルは意識して、いつもの眠たげな目に戻す。


「……寝るか」


 ハッピーエンドを迎えることが出来ず、だからといって完全に絶望することも出来ず、ディルという人間の人生は続いている。


 アレテーという少女との出逢いは、彼にとって救いとなるのか。

 それは意外なことに、翌日判明した。



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