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「関くん、こっちです」


 ジージーと息継ぎをすることなく鳴き続ける蝉の声に交じって、風鈴の音のように心地よく体に染み渡る声で名前を呼ばれる。声がする方に目をやると、そこには木陰のベンチに座ってこちらに手を振る千波さんがいた。


「遅くなってごめん。クラスの担任に手伝いをお願いされちゃって……」


 例の帰宅部使いの荒い担任教師に宿題のノート回収を命じられ、なるべく急いだつもりだったが昼休み開始から十五分程経過してしまっていた。


「大丈夫ですよ、私も今来たところですから」


 あれ、これって普通台詞が男女逆じゃね? と思いながら、人ひとり分の間を開けて千波さんと隣に腰掛ける。


 うちの高校で昼食がとれる場所は主に三つある。


 一つ目は、俺や大塚が普段から利用している教室。家から弁当を持ってきている生徒や購買でパンを購入する生徒の大多数が自分のクラスの教室で昼食をとる。


 二つ目は、南校舎一階に位置する学食。入学したての頃にあった校舎案内の時にちらっと目にしただけなのであまり詳しいことは知らないが、生徒数をさらさらカバーする気がない程度にしか席がなく、暗黙の了解で三年生が優先的に利用している。安くて量も多く、中でもあんかけチャーハンは絶品らしいので、いつしか利用してみたいものだ。


 そして三つ目は、俺も今日初めての利用となる中庭だ。高校生活がスタートして一年以上経過したにも関わらず、なぜ今日が初めての利用になるのかというと、四方を校舎に囲まれてちょっとしたプライベート空間のような錯覚を受けるこの場所は、弁当持参組・購買組の中でも選ばれし男女の二人組――俗に言うカップルの利用が圧倒的に多いからだ。女友達同士での食事ならともかく、野郎オンリーのむさ苦しい食事をここでとろうものなら、周りのカップル選ばれし者どもから石を投げつけられること間違いなし。そんな、ちょっと特殊な場所が故に少し憧れはありつつも、これまで中庭に出向くことは避けていた。


「もう、なんで少し空けて座るんですか。逆に浮いちゃって目立ちますよ?」


 千波さんが不満そうな顔で俺を見つめる。周りを見渡すと、一定の間隔で中庭に配置された複数のベンチには、例によって一ベンチあたり一カップルが占拠しており、彼・彼女たちの間は漏れなくゼロ距離……とまではいかないものの、拳一つ、二つ分程度しか空いておらず、仲睦まじい様子でお弁当を食べていた。……ああ、隕石でも降ってこねえかな。


「いや、でも――」


 俺たち別にカップルってわけじゃないんだし、という言葉を言う前に、


「……そっち、詰めちゃいますね」


 そう言って、不意に千波さんが俺の横に移動する。いや、もともと横に座っていたことに違いはなかったのだが、横は横でも真横というか、拳一つ分あるかすら怪しいというか、横を向くと目の前にちょっと照れたような千波さんの顔があった。目が合った瞬間、照れ隠しにも似た優しい微笑みが俺に向けられる。


「――――‼」


 声にならない声が出る。顔が一気に沸騰する。そんな、陳腐な表現しか浮かばない。


 千波さんのふんわりとした黒髪が少し揺れるたびに、まるで椿のような、ほんのりと甘い香りが漂い、心を落ち着かせる――どころか、破裂せんばかりに心臓がバクバクと高鳴る。思春期以降、こんなにも近くに女性を感じることがなかった俺は、どうしていいのかわからず、ただただ顔が引きつる。


「さて、と。お弁当食べましょうか」


 そんなことを知ってか知らでか、千波さんは例の〝たぬき〟が刺繍されたランチバッグから取り出す。先ほどよりも少し顔が赤くなっているような気がするが、気温のせいだろうか。


「お、おう。食べようか」


 全身硬直状態だった俺も、その言葉を聞いて風呂敷からお弁当を取り出す。緊張感こそ抜けないものの、おかげで少しだけ落ち着いた。


「その、一応確認しておきたいんだけど……これも、俺の運命を変えることと何か関係があるの?」


 お弁当の蓋を開けながら、まだ聞けていなかったこの状況の真意を尋ねる。


「もちろんです。私と一緒に中庭でお弁当だなんて、普段の関くんなら絶対にあり得ないでしょう? 明日のデートもそうですが、選ぶはずがなかった選択肢をこうして一つずつ選んでいくことで、少しずつ、一緒に運命を変えていきましょう」


 そう言うと千波さんはいただきます、と手を合わせてお弁当を食べ始める。俺もつられて、厚焼き玉子を口にする。確かに、カップルというわけでもない俺と千波さんがこの場所でこうしてお昼を共にするというのは、本来ではあり得ないことだ。


「あ、厚焼き玉子おいしそうですね。私の唐揚げと一つ交換しませんか?」

「え、そんな不平等な交換でいいの?」

「そ、そうですよね……私の唐揚げなんかじゃ、関くんの厚焼き玉子と不釣り合いですよね……ぐすん」

「違う、逆! 逆! 俺の厚焼き玉子なんかでよければいくらでもあげるよ!」

「……えへへ。じゃあ、一ついただきますね。関くんも、からあげどうぞ」


 千波さんは俺の弁当箱から厚焼き玉子を一つとると、手元にある可愛らしく盛り付けされた弁当箱から唐揚げを取り出して俺の弁当箱に入れる。その数、なぜか二つ。……あれ、千波さんが食べる分の唐揚げ残ってなくね?


「おいしい! やっぱり、家によって味付けが違いますね。うちで作る厚焼き玉子よりもおいしいです」


 厚焼き玉子をぱくりと食べた千波さんはそんな感想を口にする。


「そう? そう言ってもらえると、母さんもうれしいんじゃないかな」


 別に俺の手作りでもなんでもないのだが、俺も少し嬉しくなった。


「この唐揚げは、千波さんの手作り?」

「ええ。その……関君のお口に合えばいいのですが……」


 不安そうな顔で千波さんに見つめられる。女子に見つめられるということ自体に慣れていない俺は余計に食べ辛さを感じながらも、唐揚げを一つ口にする。


「……美味しい」

「ほ、本当ですか?」

「うん、すっごく。手作りの唐揚げって、こんなにも美味しいんだね」


 思わず顔が緩む。あまり油物の料理が出てこないうちの家庭にとって、唐揚げは惣菜や冷凍食品のものが当たり前となっていた。久しぶりに食べた手作りの唐揚げは、目の前にいる美少女が作ったということも手伝って(むしろこれが一番大きいのかもしれないが)、それはもう格別な味だった。


「よかったぁ……」


 その言葉を聞いた千波さんは心底ほっと胸をなで下ろす。その表情は、このまま時間を止めてずっと眺めていたくなるくらいに魅力的なものだった。


「あ、もう一個の方も遠慮なく食べてくださいね。私はいつでも食べられますから」

「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」


 悪いなという思いより、あまりの美味しさにもう一つ食べたいという思いが勝ってしまって遠慮なく唐揚げを頂く。……うん、やっぱりすごく美味しい。


「千波さんって、料理得意なんだね」

「小学校の頃から母と一緒に料理を作っていましたけど、母と比べれば私なんてまだまだです。料理の世界は、実に奥が深いのです!」


 きらきらと目を輝かせながらそう語る千波さんを見て、思わずくすりと笑ってしまう。こんなにも表情豊かな彼女を、消しゴムを拾ったあの日の俺は果たして想像できただろうか。


「あの、関くんさえよかったら、なんですが……」

「ん?」

「今度からおかずを多めに作ってくるので……よかったら、食べてもらえますか?」


 思いもよらない千波さんからの提案に、口に入れたウズラの卵が飛び出そうになる。堪えて、しっかりと咀嚼して飲み込む。


「いや、それはなんか悪いよ……。千波さん朝忙しくなっちゃうだろうし、千波家の家計に俺の食い扶持まで組み込んでしまうのは……」

「二人分のお弁当を作るってわけでもないですし、手間とお金は気にしなくて大丈夫です! ……それとも、私が作ったおかず、やっぱり美味しくなかったですかね……? ぐすん」


 ……そのぐすんという良心の呵責を感じさせる魔法の言葉と仕草、やめてもらえますかね。指で隠している目に涙が浮かんでないことも、ちらちらと上目遣いでこっちを見ていることももちろん気がついてはいるけど、


「そ、そんなことない! 千波さんの料理はすっごく美味しかった! え、作ってきてくれるの? すっごく嬉しい、ありがとう!」


 今の俺にはテンパりながらこう答えるしかなかった。だって仕方ないだろ、そもそも女性耐性がないのにこうもグッとくる仕草をされちゃ、これ以外に答えがないと言っているようなものだ。


「うふふ。りょーかいです。……楽しみにしててくださいね?」


 小悪魔っぽい笑みを浮かべてそう答える千波さんを見て、俺の答えは間違っていなかったのだと自己採点する。おかずを多めに作ってくれることも、俺の運命を変えることと何か関係があるの? と確認してみたかったけど、それはなんだかとても無粋な問いである気がして、そっと胸にしまう。


「うん。楽しみにしとくよ」


 それから、一言、二言と、お弁当を食べながらたわいもない会話が続いていく。猫は好きだけど犬は少し苦手であること。少し前まで手芸部に入っていたけど、今は辞めて俺と同じく帰宅部であること。辞めた理由はただなんとなくで、部活で知り合った同級生とは今も仲良しであること。誕生日は四月で、俺よりも一年近く年上であること。甘いものに目がなく、学校近くに新しくできたおしゃれなカフェが気になっていること。授業の中では、家庭科以外だと歴史が好きであること。運動が苦手で、体育の授業はいつも憂鬱であること――


 中庭に風が吹き込む。それに合わせるように木々が涼しげな音を立て、木漏れ日が射しては消えていく。中庭に集合と聞いて暑そうで嫌だなと思っていたのに、木陰の下は拍子抜けするくらい涼しくて、いつもと変わらないはずの弁当は、教室で食べる弁当よりも美味しい気がした。


 ――いつの間にか、バクバクと高鳴っていた心臓が落ち着きを取り戻し、心地の良い時間が目の前を通り過ぎているのに気がつく。


「ごちそうさまでした」


 弁当を食べ終えた千波さんが手を合わせて呟く。先に食べ終えていた俺は千波さんが弁当を片付ける様子を見ながら、この時間が終わってしまうのがどこか寂しいような気がして、何を勘違いをしているんだと慌てて我に返る。この時間は、最初に千波さんが説明してくれた通りの意味しか持たない。それ以上の特別な意味を見出すのはナンセンス中のナンセンスだ。


「掃除の準備もありますし、そろそろ教室に戻りましょうか」

「うん。戻ろうか」


 名残惜しさを捨てきれずも、ベンチから立ち上がる。周りを見渡すと、他のベンチを占拠していたカップルたちもいつの間にかまばらになっていた。


「あ、すっかり忘れていました」

「どうしたの?」


 千波さんは歩きながら口を開く。


「関くん、好きな色は何色ですか?」

「色?」


 千波さんの唐突な質問に、うーんと少し考える。


「黄色、かな? なんで?」


 とりあえず、頭に浮かんだ色を答える。どの色が好きだとか、これまであまり考えたことがなかった。


「ふむふむ、黄色ですね。んー、今はまだ秘密、です」


 そう言って口元に人差し指を当て、イタズラっぽく俺にウインクする。ドキッとするからそういうのは冗談でもやめてください……。


 教室に戻る途中、ばったり清藤さんと会う。千波さんと並んで歩く姿を見て「……珍しい組み合わせだね」と声をかけられ、慌てて「いや、別にそういうのじゃないから」と適当にごまかす。千波さんからは「今の人誰ですか?」と不機嫌そうな顔で追求を受けたので「ただのクラスメートだよ、あはは……」と圧を感じながらも必死に弁解する。いや、弁解も何もどうしようもない真実なのだけども。


 それからその日は千波さんと顔を合わせることもなく時間が過ぎていった。てっきり、昨日と同じく一緒に下校するものかと思っていたけど、ホームルームが終わると同時にLINEで『今日は用事があるので先に帰ります、ごめんなさい』と連絡が来たので一人寂しく下校した。……あれ、寂しくってなんだろう? ただ、平常運転に戻っただけのこと。


 明日のデートの詳細は夜にまた連絡しますと聞いていたので、マナーモード設定を解除して大人しく千波さんからのLINEを待つ。途中、どうでも良いグループLINEの通知が何度か着て、LINEを開く度に、紛らわしいことしてんじゃねえと苛立ちを覚えながら既読をつけた。


 そして、いよいようとうとしてきた頃にスマホの通知音がピコン、と鳴る。またグループLINEじゃなかろうなと警戒しながらスマホのロックを解除してLINEを開くと、千波茉莉と書かれた名前の横に未読であることを示すアイコンが表示されていた。俺は安堵し、メッセージを開封する。


『遅くなってしまってごめんなさい(謝罪の絵文字と汗の絵文字)

明日のデートは、十時に高校前駅集合でお願いします(ハートの絵文字とかキラキラの絵文字とかたくさん)』


「相変わらず絵文字が中学生ばりにつけられてるな……」


 千波さんの絵文字センスに苦笑しつつ、返信のメッセージを入力していると、続けてもう一通のメッセージと添付ファイルが届いた。


『関くんの運命を変えるために、これから一ヶ月かけてやることリストを作成してみました。これからもっと増えていくと思いますが、参考までに見ておいてください。明日のデート、楽しみにしてます(キラキラの絵文字たくさん)』


 添付ファイルをタップすると、リスト作成用のアプリが起動されて千波さん作成のリストが表示される。


『□ 一緒にお弁当を食べる(私が作ったおかずも残さず食べてくださいね!)

 □ 一緒に下校する(今日は一緒に下校できなくてごめんなさい)

 □ 買い物デートをする(関くんの服とか選んでみたいです!)

 □ 映画デートをする(関君はどんな映画が好きですか?)

 □ もちろん、カフェデートもします(おすすめのお店があるんです!)

 □ そして夏と言えば、海です!(でも水着姿はちょっと恥ずかしい……です)

 □ お祭りで、一緒に花火を見る(ドキドキの……運命の日です)』


「…………」


 そんな、千波さんの心の声が丸聞こえなリストを読んで、にやけてしまう顔を誤魔化すためにベッドで一人もだえる。……これは、これは流石に反則だって。


 勘違いにも高鳴る胸の音がバクバクとうるさい。

 ――先ほどのうとうとはすっかり消え去ってしまい、長い長い、夏の夜が始まる予感がした。

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