金剛世界短編集

金剛司

第1話 砂上の名無し草

 国境が見えてきた。恐怖は8割くらい。残りの2割で、なんとかここまでやってきた。のんびりしていると振り返りたくなるから、思い切ってスピードを上げる。果てしなく続く砂の大地の中、馬鹿にデカいエンジン音だけが響き渡っている。 


 思い出すのはやはり、彼女のことだった。


 彼女は多分、多くを語らない人だった。『多分』と言ってしまうのは、俺が彼女と他の人たちとを比較出来るほど沢山の人に出会ったことが無いから。彼女は聞かないと何も教えてくれない。その返答は、いつも問いかけへの回答とは限らなかった。


 しかし彼女との一番古い記憶は、俺からの問いかけではなく彼女自身の言葉から始まっていた。湿布と煙草と酒の匂いに満ちた、薄いマットが敷かれただけの狭い車内で。


――15年前


「坊主、名前は。」


 温度の無い、突き放すようなきつい言い方。に、聞こえた。実際は、なんてことないただの問いかけだ。まだ小さかった俺は怒られた訳でもないのに半泣きになって答えた。


「し、らない。誰も、僕に名前なんて、つけてくれなかった。」


「ふーん。」


 ひどく惨めな気持ちになった。多分、このときの俺は、同情とか、共感とか、そういう慰めの言葉を期待していた。頬をぬるい涙が伝っていく。それでも彼女の態度は一向に変わらない。こっちに顔も向けずに、胡坐をかいたまま、凄く美味そうに酒を飲んでいる。


「体は。ど?ましになったか。」


 ましにはなったが、万全では無かった。目覚めたら「ここ」に居て、なぜか自分は傷だらけで、全身包帯ぐるぐる巻き。物音がするから助けを求めて出てきたら「彼女」が居て今に至る。


「もう…平気。」


 本当はそうじゃなかったけど、意地を張ってそう答えてしまった。こういうとき、彼女はさっきみたいに、「ふーん」とか「へえ」とか言って俺をほったらかしにする。そういう人だった。嘘も隠しごとも通用しない。意思疎通に必要のない、個人的な憂さ晴らしのための言葉には一切まともに取り合わない。


 でもこの時は違った。鉄の心にも慈悲は残っていたらしい。


「見せてみな。……ふんっ、なるほどね。無理して動いたりすんなよ、坊主。」


 俺は肯定も否定もしなかった。出てきたのは、「どうして死なせてくれなかったの」の一言だけ。


「あたしが変われなかったから、あと、そういうあたしに見つかっちまった坊主の悪運が強いから。」


 一瞬だけ目があった。火のついてない煙草をくわえたまま、彼女はにやりと笑った。


「なんだよ…それ。僕を、僕を助けたって…あんたに何の利益もないだろ。それに僕、行く当ても無いんだぞ、どうするつもりなんだよ、全く。」


 また、期待していた。一緒に住もうとか、一人にはしないとか、そんな言葉を。俺はじっと彼女を見つめていた。彼女は、深く長い溜息をついた。心がしんと冷たくなった。


「どうしたいんだよ、お前は。」


 時間が止まったような感覚がした。足が震える。俺の未来は、俺が決めなきゃならない。ずっと逃げ続けてきた真実。「あそこ」で暮らしてるとき、あれほど輝いて見えていたはずの「自由」が、魔物みたいに感じられた。


「僕、僕…は…!」


 ぼとぼとと、涙が零れてきた。頭を掻きむしりながら、足元を見つめた。どうしたいのだろうか、本当に。脳裏をよぎるのは、現実とかけ離れた、幸せの風景。彼女には、あんな言い方をしたけれど、別に死にたいわけでは無かった。なら、生きるほかに残された道はない。たとえ、思い描いた通りの結末にならないことが、分かっていたとしても。


「ぼく、は…生きていたい…!!」


「でも、行く当て無いんだろ。どこで、どうやって生きてくんだよ。」


「…ここに、いさせて、ください。しごと、てつだう…から。やくに、たづがら。」


 嗚咽交じりの酷い言葉だったけれど、言うべきことは言った。


「そうか。じゃ、契約成立だな。」


 そう言って彼女は立ち上がり俺の目の前に右手を差し出した。俺は、はっとしてすぐにその手を握り返そうと手を伸ばした。細くて綺麗な手をしてるけど、触れてみるとマメだらけで少し硬い。顔を上げたら、また目があった。彼女は手を握ったまま、その場にかがんだ。


「あたしも名無しなんだ。今はこの車と一緒に国中走り回る薬屋をやってる。」


「あ…え、と…。」


 急に顔が近くなって鼓動が早くなる。さぞかし恐ろしい顔なのだろうと思っていた。でも、存外に美人だったから、思わず返事するのも忘れて見とれてしまっていた。


「よろしく。」


「あ、うん。よろ、しく。」


 この日から、俺の全ては始まった。一面砂の大地で、芽を出すことすら諦めていた俺の前で、当たり前みたいに花を咲かせたヒトが居た。彼女もきっと、こんな場所じゃなく、もっと肥沃な場所で大輪の花になる夢を見ていたのかもしれない。


俺は国境のゲート前にバイクを停めた。


『あなたの顔の認証に失敗しました。データベースに問い合わせます。お名前をお答えください。』


「…ないんだなー、名前。ごめんな。」


『聞き取れませんでした。もう一度お話ください。』


「いや、だから…ないんだってば。」


『聞き取りが上手くできない場合は、以下の原因が考えられます。1、マイクが近すぎ…』


「あーっ、もう!付き合ってられっかよっ!」


 俺は右手のグローブをむしり取ってゲートに触れた。少し経つと、ゲートはゆっくりと開いた。


『入国を許可します。』


「はい、どーも。」


 踏み込んだらもう、二度と向こう側へは戻れない。俺の決断を、彼女はどう思っているのだろうか。豊穣の大地への憧れを諦めきれなかった俺のことを。


 雨が降ってきた。早いとこ、宿を探さなければ。ああ、あと新しい仕事も。やるなら、最初はやっぱり、薬屋なんだろうか。思いは次々膨らんでいく。今までのこと全てが嘘みたいに感じられた。


『じゃあな、坊主。』


 はっとして振り返る。そこにあるのは、ただ黒く巨大なゲートだけ。ゲートから俺の足元に伸びる、2メートル分の轍。それが唯一、目に見えた過去。轍がグネグネ曲がって見えた。







「さようなら、ストレチア。」






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