第9話

 音大編入試験に向けて、勉強し出した琴であったが、もともと英語は成績が良かったので、ネックは国語だった。ソルフェージュは、幼少の頃の音楽教育のお陰で、視唱も聴音も難なくこなせた。楽典は、学習すれば良いだけの代物で、なべて、それほど難関でもなかった。

 そんな勉強の日々を送っていた九月のある日、一通の手紙が届いた。

 送り元住所を見ると、東京都の都内の住所に「山際巧」とある。

 ――これって、山際さんの現住所じゃないのかしら? 伺ってもいいのかな? ていうか、一度は伺わないと、失礼かもしれないな……。

 文面は以下の通りである。

 ――拝啓 晩夏の候、貴女にいよいよ御清祥のことと存じます。

   CD贈っていただいてありがとう。

   今度の作品は、初回のものよりも、丁寧に仕上げられていますね。

   とても、素晴らしい作品です。

   ただ、売るとなれば、もうひとつ、こころが必要かもしれません。

   涸沢さんのメロディーは、どれも秀逸で、愛という基礎から放たれる清音です。だから、歌詞までもが素晴らしい歌に色づいてくる。歌詞とメロディーが、シンガーソングライターの卵だけのことは有って、ぴったり過不足無く、合致するのですよ。

   涸沢さん、けっこういいもの持っておられますね。

   もし宜しければ、一度、都合の付く時間に、私のスタジオに遊びに来て下さい。

   歓迎します。……

 琴は、半ば信じられないという心持で、二度読み返した。確かに、スタジオに来ても良いと言ってくれている。

 琴は、今週の予定を見た。明日が予備校明後日が実技のレッスン。今日しかない。

 もう午前十時を回っていたが、一張羅のドレスを着飾って、お化粧して、手紙の送り元の住所の地図をプリントアウトして、家を出た。

 住所は世田谷の小田急沿線だった。一時間は掛かるだろうか。

 駅から出て、駅前の店で花束を買った。そのあと、番地を探して歩く。電柱や家の門に番地が書いてあるので、すぐに判った。

 黒いモダンな鉄筋造りのガレージ付き一軒家である。表札は重厚な木彫りの草書で「山際」とある。

 インターホンを鳴らす。中から、はーい、という声がして、物音がした。

 しばらくすると、ドアが中から開けられた。山際巧のハンサムな表情が、目の前にあった。

 「涸沢琴です。お手紙ありがとう御座いました。あ、これ」

 そう言って、花束を差し出す。

 「はやいね、涸沢さん。もう来るとは思っていなかったよ……。とにかく、中に入ってください。お茶でも出しますよ」

 「はい、ありがとうございます」恐縮する琴。

 玄関を入ると、すぐ二階へ上る階段と廊下があり、その廊下の左側の部屋に通された。

 ドアを開けると、意外にも畳敷きの和室で、奥の窓から見える庭木と手前の掛け軸の掛かった床の間とによって、落ち着いた雰囲気になっている。

テーブルの前に正座すると、やがて、山際がお茶を持ってきた。

 「花束、ありがとう。大切に飾るよ」

 「山際さん、御独り住まいなんですか?」

 「結婚している風に見える? 独身だよ」

 「すばらしい演奏をされるから、しっかりお子さんも居られるのかと思っていました」

 「むしろ、関係ないね。恋愛は音楽には必要だけれど、結婚は、必ずしも必要ではないかもしれない……」

 「そんな、悲しいこといわずに、結婚して下さいよ、山際さん。美男子なんだし」

 「なかなか、いい相手が居ないんですよ」

 そう言って、山際は熱い茶を啜った。

 「涸沢さんは、どうして、音楽を作るようになったの?」

 琴は、そんなことを訊かれると思って居なかったので、回答に窮して考えた。

 「……山際さんの音楽を聴いたら……自分も何か演奏してみたくなって……でも、自分の技術じゃなかなか満足に弾けないし、……で歌っちゃえって感じでしょうか……」

 「僕は、逆に、歌えないんだよ。涸沢さんは、結構いい声しているから、うまく行けば売れるよ」

 「本当ですか?」

 「うん、大丈夫。……ちょっとスタジオ覗いてみる?」

 取って付けたように、山際が言う。

 「良いんですか?」

 「大歓迎。ちょっと来てみて」

 そういうと、茶を飲み干して、山際は席を立つ。琴もそれに応じて、立ち上がる。

 部屋を出ると、廊下を奥に入ったところに、真っ暗なスタジオがあった。山際が照明を付ける。ガラス一枚無く、壁は吸音材で埋め尽くされている。

 部屋の奥に、グランドピアノがあり、スピーカーやマイクロフォンなどの録音機材が揃っていた。

 「すごいですね。すごく金掛かってそう」

 「そうでもないよ、結構安物」

 「ここで、録音されるんですか」

 「いや、ここでは個人的練習とか、デモCD作ったりとかだね。本当のレコーディングは、別の場所で専門技術者に依頼して、やるけどね」

 山際は、ピアノの前に来て、鍵盤の蓋を開けた。

 「なんでもいい、ちょっと弾いてみて」

 「えっ、私がですか?」

 「どの程度の腕前か、聴いてみたいんだ」

 おそるおそる、山際のグランドピアノの傍に来る。おっかなびっくり椅子に座り、両の腕を鍵盤に乗せる。鍵盤は、冷ややかな感触がした。

 「じゃ、サザンの白い恋人たち、弾いて見ます」

 「どうぞ」

 琴は、トーンと一度試し弾きしたてから、一拍おいて、前奏を弾きだした。

 前奏は快調に弾けた。そのあと、主旋律。声を出して、伴奏に併せる。

 山際は、顎に手をやって、静かに聴いている。

 琴は、なんとか、伴奏を間違わずに弾いたが、途中リズムが狂ったりした。とちりながら、なんとか一題目を歌いおおせる。腕を静かに下ろす。

 「あー、恥ずかしいー!」

 そう琴が言うと、山際は拍手をして言った。

 「結構、上手いよ琴さん。これなら充分、弾き語り出来るな」

 「そんな、あんなにとちってて、とてもとても、人様に聴いてもらえるようなしろものじゃないですよ」

 「事務所紹介しようか?」

 「そんな……私なんか紹介しても意味ないですよ」

 「大丈夫、例の一枚目のCDは、実は既に、さるレーベルに紹介してあるんだ。……プロデューサーがすごく興味持っている。紹介するよ」

 「本当ですか! 嘘みたい」

琴は、とんとん拍子に進む話が、なんだか他人事のように非現実に捉えられて、実感が充分湧かなかった。

 それでも、山際に事務所の電話番号を教えてもらい、今度都合のいい時間に、連絡を取ることになった。

 山際のCDのレーベルは、ベクターレコードという大手である。そこの会社から独立した小さなレーベルに、サラブレッドレコードというのがある。紹介してもらったのは、そのサラブレッドレコードの小諸というプロデューサーだった。

 ベクターレコードで、数々のアーティストのアレンジやプロデュースをしたあとに、独立してサラブレッドレコードを開設した。今まで、八人のアーティストのレコードを手がけている。すべて、新進のポップスシンガーばかりなので、琴には丁度のレーベルのように思えた。

 山際は、その日、終止、琴に優しかった。音楽以外の身の上話や世間話が盛り上がり、二時間ばかり話して、琴は山際のスタジオを後にした。

 駅へ向かう途上、琴は、自分の運命が転がり始めたのを、深く噛み締めた。

 太陽が、じりじり上から照りつけた午後だった。

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