第8話

 大学は、試験シーズンだった。後期の講義は終わり、全ての科目で試験があった。その試験に合格することで単位の取得が出来、総単位数が三年末の進級に関ってくるので、真面目に勉強せねばならなかった。

 しかし、琴は、山際に夢中になっていて、こんな農業大学、卒業しても意味無いわ、どこかの音大受けなおそう、と本気で考えていた。

 だから、試験勉強に身が入らず、受ける試験殆んどが、散々の結果に成った。

 ――多分、来年落第だろう。それまでに、中退して、別の大学を受ける主張を親にしないといけない。

 琴は、そういう風に考えたが、なかなか親にそんなことを述懐出来なかった。

 だから、せめて経済的に少しでも自活できたらと、アルバイトを始めた。大学の講義は、親に対する建前ではサボれなかったが、サボってバイトに行くこともしばしばだった。

 バイトは、駅前のファーストフード店で時給が安かった。しかし、琴には、あまり条件の良いところも返って信用出来なかった。堅実に時間で稼ぐしかないと思っていた。

 だから、計算すると月五万も行けばいいところだった。しかし、毎日コツコツ溜めた。

 一方では、バイトと大学の余り時間を、作曲に費やした。山際巧に宛ててもう一曲書こうと、コンサートの帰途にこころに決めてしまった。

 絶対、メジャーデビューしてやる、こころは燃え滾っていた。

 バイトの請で、帰りが遅い日が続き、親は心配した。

 「毎日、帰りが遅いけど、サークルでも入ったの?」

 母が、ある日、琴がバイトを終えて十一時過ぎに帰ってきたときに、訊いた。

 「バイトだよ、お母さん」

 「そんなにお金溜めて、どうするの? 小遣いなら、もう少し上げるわよ」

  琴は、意を決して告げた。

 「私、大学辞めようと思うんだ」

 「なんで? 良い大学じゃない。友達と旨く行っていないの?」

 「やりたいことが見付かったのよ。私、音大受けなおす。バイトはそのための資金稼ぎ」

 「そんな、音大だなんて、突拍子も無い」

 「でも、私、決めたから」

 「明日、お父さんに聞いてもらうよ、琴。琴は、子供の頃から、自分をしっかり持った子だった。だから、お父さんに、聞いてもらう」

 「判ったよ、お母さん」

 翌日の朝、父の出勤前に琴は起きて行って、朝食を共にした。

 母が斯々然々だと述べると、父は言った。

 「よく言ってくれた、琴。まだ、人生やり返しが効く年齢だ。自分のやりたいようになさい。……幸せは自分の手で勝ち取らなきゃ、誰も進んで呉れたりしないのだよ。頑張れ、琴。琴という命名した時、将来、音楽を志すかとも思っていたのだよ。……ただ、お金の心配は、あまりするな。私らが一生懸命稼ぐから。お前は、まだ大学生だ。親の脛を齧って当たり前なんだ。自活したいかとも思うが、ここは辛抱して、学業に専念なさい」

 琴は、父の理解の良さに、正直驚いた。父は、本当に私の為を思って、言ってくれているのだと感じた。

 調べてみると、文系のテストを更に受けて実技をこなせば、音大にも転入出来るようだ。いろいろな音大を調べたが、近場ではT音大が入りやすそうだった。しかし、実技の試験があり、琴はどういう対策をすればよいか判らなかった。

 父が言うには、

 「中学まで習っていた鮫島先生に聞いてみたら良いよ。あの先生は音大出身だから」

 父の言葉に従い、鮫島先生のところに、どうしたらいいか聞きに行った。

 鮫島は、昔の生徒を懐かしみ、喜んで助力してくれると言い放った。ただ、受験対策には、それ相応の授業料も必要だと、付け加えた。

 とりあえず、今の農業大学は中退手続きを取ることにして、音大の受験に向けての勉強が始まった。

 琴とて、一発で受かる自信は無かったし、受かったとしても、新入生から見れば三歳も年上なのは、かなりやりにくいとも思った。

 しかし、父が言うように、自分の幸せは自分で掴まなくてはいけない。このまま、なんとなく農大を卒業して、自分のやりたいこともせずに、適当に結婚して終る人生は、琴には、不誠実に思えた。やるだけやって駄目だったならいい、それなのに、一度も試さずに妥協して諦める人生なんて、まっぴらごめんだ。

 国語と英語をもう一度勉強しなおさねばならなかった。だから、予備校にも通わねば成らなかった。

 このときほど、親のありがたみを感じたことは、琴は無かった。大学二年間の授業料を払った後に、また予備校からの費用を、支払ってくれるのである。

 父曰く、

 「地方の親はもっと出すからね。仕送りだけでも毎年二百万くらい出すんじゃないだろうか……」

 かくて、琴の音楽人生が始まった。

 予備校で文系科目の傾向と対策を学び、実技のレッスンを鮫島先生にやってもらい、空いた時間には、山際巧に送るべく曲を作っていた。

 曲作りは、以前のように、メロディーの神様が降臨するだけでは、詰めが甘いのだと思った。メロディーの骨子が出来たら、いろいろ修飾して肉付けをしていかねばならない。曲も芸術である以上、積み重ねる手間が大切だと思った。

 何度も聴き直して、あれこれ弄くり、それでも夏の盛りの頃には、一曲出来上がった。

 歌詞も考え抜いた。「虹の雨露」という。

 ――彼氏に振られた冬の日

   ひとりぼっちの帰り道

   灰色の歩道に銀色の空っ風

   こころのぽっかり空洞に吹き抜けて痛い

   その夕暮れにきらびやかな虹ひとつ

   その向こうから聞こえる美しい歌声

   あなたはどこにいるの?

   どこから私を誘うの?

   その声はあの虹の彼方から私を導く

   その声は風に乗って私を青く染める

   消えないで、私の天使

   いつか必ず、あなたに出逢うから

   いつか必ず、あなたと巡り会うから

   待っていて、あともう少し

   待っていて、あの虹の向こうで

   愛しい私の天使よ

   虹の雨露で私を濡らして

 以前と同じ方法で、コンピューターでファイルを作って、声と合成した。

 出来たCDを山際巧のファンクラブに郵送する。

山際さんなら、今度もきっと聴いてくれる。

 琴は、希望に胸を膨らませた。

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