第2話

 午前中が休講の火曜日、琴は、駅前に出た。

 駅は、琴の家から大学方面へ、大学を通り越して更に五キロ程度のところにある。

 新町商店街とは異なり、百貨店もあれば、さまざまな飲食店もある、栄えた繁華街だった。

 駅前の百貨店ビルの七階に、有名レコード店が入っている。本店が渋谷の巨大なチェーン店なので、頼めば何でも取り寄せれる。

 とりあえず、中に入って、レコードを探してみた。

 ジャンルは何になるんだろう……、クラッシックかな?

 クラッシックの棚を探すと、五十音順に並んだ最後のほうに、山際巧の札が挟まっていた。

 夢中で、アルバムを物色する。

 「プロコフィエフ作品集」「ドビュッシー作品集」「オリジナルアルバム『岩風』」

 そこにあるのは、その三枚だけだった。

 貧乏学生ゆえ、そんなに金持ちではないが、三枚買っても一万足らず。棚から全部抜き取って、レジに向かう。

 レジの大学生っぽい同年代のバイト男は、私の持ってきた三枚を見て、にっこり微笑んで、バーコードリーダーに商品を通した。

 「六九四〇円です」

 無言で万冊を出す琴に、お釣りを手を添えて渡すと、にっこり微笑んだまま、

 「有難う御座いました」

 琴は、なんだか、恥ずかしかった。

 バスに乗って家に向かいながら、早くCDが聴きたくてうずうずだった。

 信号待ちやバス停が苛立たしく、家までの十分が一時間に思えた。

 ようやくバス停を降りると、臆面も無く走った。家まで走った。

 玄関の扉を開けて、階段を駆け上がると、早速CDをコンポで掛けてみた。

 ベッドに腰掛けて、聞耳を立てて聴いてみる。

 まずは、プロコフィエフから。ピアノソナタ第六番から第八番、つまり戦争ソナタが入っている。クリアーでドラマティック、心の琴線を爪弾く旋律。一聞に、無秩序に思えるアンフォルメルな殴り書きのようなメロディーも、山際の繊細で雄雄しい指使いに創出されて、琴の体の肝を抉り出すような快さ。最高であった。

 夢中で聴いて、一時間。そのあと、ドビュッシー。ベルガマスク組曲、映像第一集、その他併せて一時間弱。クリアーだがプロコフィエフのようなドラマティックさは薄く、寧ろ煌びやかで、ドビュッシー音階から来る独自の幽玄さが、表現力豊かに演奏されている。

 どちらかといえば、プロコフィエフの方が、好きだなあ……。

 ぼうっと余韻に浸っていたが、はっとした。一時から講義だ。

 慌てて用意をしながら、台所に降りていく。

 「母さん、なにか食べるものある? もう時間無い」

 「カップラーメンでも食べたら?」

 ささっとカップラーメンを食べて、家を出た。昼からの講義は、分子生物学で落とせない講義だった。ちゃんと、勉強しなければ。


 金沢康子が講義室で話しかけてきた。

 「ねえ、琴。今度の土曜日に合コンあるんだけど、行かない?」

 康子とは、出席番号が隣である都合上、一緒に実験したり、席が近かったりで、付き合いが多く、学内の中では、親しくしている友達だった。

 琴は、特別、彼氏が欲しいわけではなかったが、居なくて寂しいのもまた確かだった。

 「そうね、折角だから、参加しようかな……。メンバーは、どこの人が来るの?」

 「沙織が、同じサークルの男友達に紹介してもらって、知り合いの男、掻き集めてくるらしいよ。多分、同じ大学の同級生じゃないかな」

 琴は、入学式のときに見渡した感触から、ろくな男子が居なかったのを失望していたから、あまり明るく期待を持てなかった。

 「沙織、可愛いから、いい男が集まってくるかもね……」

 そんな皮肉を言いながら、講義の内容をノートする。

 講義は、後期の頭に始まって、早六回目。後一四回受けたら、テストだ。

 分子生物学は面白かったし、内容的にも将来に役立つし、進級のためにも落とせない専修科目だった。

 康子の持ってきた遊び話は、あまり期待もしなかった琴を、それでも少し浮つかせたが、授業に集中して、知識を頭に入れなければ成らなかった。

 ……大腸菌の、DNA複製には、DNAポリメラーゼIが、DNA修復にはDNAポリメラーゼⅢが、触媒している。DNA二重螺旋が、複製するときに巻き戻されて緩んで、その一本になったDNAの鎖に、酵素が結合して、ヌクレオチドを原料にして、DNAの鎖が複製されていく……。

 面白い授業だった。

 窓から差し込む秋日の光が、紅くなり始めた枝葉を透かして、薄い陰影を揺らしていた。


 その日は、朝から曇り空だった。いつ雨が降り出すか判らない、暗い厚雲の天蓋の下、琴は大学で講義を受けた。帰りに、金沢康子や田島沙織とそのまま駅前に出て、待ち合わせ場所のデパート前の銅像で、他のメンバーが来るのを待った。

 三人のほかに、女性が一人、男性が五人来た。

 六時スタートというので、少し間があったが、そのまま居酒屋の前に行き、幹事の沙織が交渉した。

 料理は出来ていないというのだが、席が空いているので、入れてくれた。「唐変木」という居酒屋だった。

 中は、靴を脱いで上がるタイプで、板間の廊下から、ボックスの掘り込みのテーブル席に案内された。

 十人掛けのテーブルに九人座る。男と女、自然に別れて対峙する。

 琴の左隣には康子、右隣の通路側には沙織が座り、向いには、色の黒い短髪の男が陣取った。

 沙織が、ホールスタッフに生を九つ頼むと、やがてお通しが出てきた。蛸キムチだった。

 ビールが来るまで、琴は康子に話しかけていた。

 すると、横から向いの男が割り込んできた。

 「名前、なんていうの?」

 にっこり笑顔は、少し卑屈な作り顔だ。

 「琴といいます」

 「俺、前田っていうんだ。学科はどこ?」

 「農芸化学」

 「あったまいいねー。俺は、もっとお莫迦な林産」

 そんな具合で、話は進んだ。

 ビールが運ばれてくると、ますます前田の口は冴え、趣味は何だとか、出身はどこだの、サークルはどうだの、とにかく賑やかしい男だった。

 琴にも、退屈させないその気遣いは判ったが、その上っ面の気遣いが、いかにも浅薄に思え、前田の黒い丸顔に、ミックスお好み焼きを重ね合わせた。

 康子が前田に訊く。

 「すると、前田君は、山形の温泉地出身なんだね。温泉地ってどんな気分?」

 「温泉卵気分かな? 中は半熟」

 「どういう意味?」

 「俺は、まだまだ、修行中って意味」

 なんか、康子はこの安っぽい会話が、ことのほか、楽しいらしかった。

 私は、なんだか白けていて、他の男女を見回した。

 五人対四人なのに、私に話しかけているのは、ミックスお好み焼きの前田だけ。それも、康子と三人で。他の男たちは、二人が容姿端麗な沙織と夢中で取り合うように話しており、もう二人は、それほど見た目がよくない、眼鏡面の女の子と、付き合い面で、静かに話していた。

 途中、眼鏡面と話していた安川という男が、琴に話しかけてきたが、あまり長続きもせず終って、安川はまた、眼鏡面に戻った。

 前田はすっかり康子と意気投合して、二人で盛り上がって電話番号を交換していた。

 琴は、独りで黙り込んで、つまみを突きながら、ちびちびビールを啜った。

 それでも、酔いが回って気持ち悪くなった琴は、席を立った。

 トイレに行って、便器の前に屈み込む。

 気持ち悪いのに吐けないので、しばらく粘ったが、出なかった。

 少し、休んでいると、ノックされたので、よろよろトイレを出た。

 ホールスタッフに言って、ウーロン茶を頼み、席に戻ると、康子と沙織が詰めていて、琴は端っこになった。端っこで、大人しく、ウーロン茶を飲んでいた。

 「大丈夫、琴ちゃん」

 前田が斜めから話しかけてきた。

 「大丈夫、ちょっと飲みすぎただけ」

 康子が言うには、

 「しばらく、よっかかって休んでなって。……全く、無理して飲むから」

 沙織も、心配顔で、琴を見詰めていた。

 八時くらいに一時会が終わり、眼鏡面の女の子と、男一人が帰るといったので、琴も帰ることにした。あまり楽しくも無かったし、酒が気持ち悪い。

 どんよりとした夜空から、小雨が降りだしていた。

 傘を持っていなかった琴は、ジャケットに付いているフードを被って、駅前まで急いだ。

 駅の建物の軒の下まで来ると、占い師と目が合ってしまった。

 人生鑑定と書かれた白い机の向こうで、男が笑顔で琴を見詰めている。

 「占い、いかがですか?」

 琴は、生まれてこの方、占いという物が好きだった。雑誌の星座占いは必ず見ているし、タロット占いを勉強して、自分でやったこともあった。

 しかし、辻切りの占い師に見てもらったことは無かった。

 「おいくらですか?」

 「学生さん? 二千円に負けとくよ」七十は行っているだろう皺だらけの顔で、占い師はそういった。

 「よろしくお願いします」

 白い机の前にあるパイプ椅子に座って、手を差し出す。

 机に備え付けられたフレキシブルアームの電球の角度を変えて、琴の左手を照らしながら、虫眼鏡を覗く占い師。軒先から斜めに、琴のフードの頭に時折刺しかかってくる疎らな雨粒が、琴を苛苛させて落ち着かせない。そんな苛苛を落ち着かせようとでもするかのように、わざとのように、ゆっくり丁寧に、手相を鑑定する占い師。

 「お嬢さん、結構、育ちがいいようですね。普通にこのまま行けば、高学歴の年上の男性と、四、五年後に結婚できるのですが……」

 「……」

 そういうと、また手相をじっくり鑑定した。しばらくすると、

 「右手も見せていただけますか」

 琴が右手を差し出すと、左手ほど時間は掛けなかったが、占い師は、しばらく鑑定した。

 「お名前は、何ておっしゃりますか?」

 「涸沢琴です」

 差し出されたメモ紙に、琴は、ボールペンで丁寧に書いた。その紙を受け取ると、占い師は、漢字の横に画数を書いて、なにやら、計算機で算出しだした。

 「姓名は結構いい画数ですね。幸福に成れ勝ちな画数です。手相と併せてみると、涸沢さんは、頭も良くて親も普通に裕福、教養もあるほうです。性格が、結構、個性的なところがあり、あまり集団行動を好まないタイプのようですね。……その分、自分の個性を発揮して、何かしら物を創り出す仕事に向いているようです……。ただ、……ちょっと、変った相が、出ていますね……」

 そういうと、机の下から、懐中電灯を取り出して、琴の顔を照らし出した。

 「失礼します、人相見させて戴きます」

 占い師は、顕微鏡で覗いているかのような精密な目付きで、懐中電灯の角度を変えては、あらゆる角度から、琴の顔を詳細に見た。琴は、なんだか恥ずかしかった。

 「生年月日は?」

 再び、手相見に戻ると、占い師は訊いた。

 「平成二年七月四日です」

 「一白水星庚午の蟹座。血液型は?」

 「Bです」

 「たぶん、ですが、特異な職に就かれますね。普通の仕事には就かれないでしょう。うまくいけば、大きな仕事を達成できます。そのため、ちょっと婚期が遅れます。しかも、相手が、余程の実力派の大人物になるか、あるいは、本当のろくでなしのような情け無い男になるか、のどちらかです。芸術家肌なんですね」

 琴のこころは、少しざわめいた。

 「そんな特異な人相なんですか?」

 「手相にも出ていますよ。ちょっと、仕事運も男女関係も数奇な運命にありますね。……でもね、お嬢さん、占い師が何を言おうと、人生は、自分で創り出していくものです。どんな幸運な人でも、努力しなければ堕落して憂き末路ですし、どんな苦境に陥っても、僻まず妬まず、一生懸命努力すれば、人生って、ある意味、報われるように出来ているんですよ」

 「はい……」

 「私は、占いを通じていろんな人を見てきた。確かに、運命ってあります。人智や力では叶わない何物かが、この世の中には存在します。……でも、それに負けちゃいけない。……しかも、貴女の手相には、旨く行けば、偉業を為して大人物と結婚できるかもしれない、と出ているんです。才能もおありになるのだから、自分次第でどうにでもなる人生ですよ」

 「はい」

 「頑張りなさい。まだまだ、これからの人生」

 「ありがとうございました」

 琴は、なんだかんだ言って、占いという物は、人を煽てるものだと実感するとともに、大人物と結婚できると、心中では、信じてしまった軽薄さを恥ずかしく思った。

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