虹の雨露

大坪命樹

第1話

 秋の晴れた路地を、琴は帰宅していた。

 枯れ葉が、鳥が鳴くが如く綺麗な音を立てて、道をころころ転がり横切っていく。

 その楽しげな転がりようを見て、琴は、雲ひとつない青空の輝きを見上げた。

 「ああ、どうして、こうなんだろう……」

 大学に入ったはいいが、琴は、人生に幻滅していた。

 もともと、確たる夢を現実化するために選択した大学ではなく、さしたる目標も無くエレベーターに乗るように進学した、都内の郊外の大学だったが、入ってみてすぐに、ろくな同級生が居ないのに失意を感じ、大学自体にも自信を持てず、琴自身の人生に投げやりに成った。

 サークルも、誘われるままに、ポップス音楽のバンドに加入したが、一年で辞めた。琴は、幼少からピアノを学んでいたので、その経験を生かしての、サークル加入だったが、サークルのメンバーの中に、気骨のある者が、男女問わず皆無だったので、嫌に成ったのだ。

 みな、注目されたい、持てたい、異性が欲しい、などの不純な動機の者ばかりで、音楽を純粋に追求しようという者は、ひとりも居ないように、琴には思われたのである。

 琴とて、そんなに、純粋に、音楽を追求して、音楽で身を立てたい、と不遜な願望を抱いていたわけではなかった。それなら、ちゃんとした音楽大学に入るべきだし、勉強も一生懸命やらなくては成らない。

 琴の入った大学は、生物系の農学部で、音楽とは無縁だったし、音楽なんて志したこともなかった。

 ――そんなことを言っているんじゃない、やるならどうしてもっと真剣になれないの? 僕は、素人だから、音楽の技術はほどほどでいい、とか、私は、音楽を通じて、人とコミュニケーションするんだ、とか、みんな言うよね。でも、結局は、自分の少しばかりの特技を、恥気も無く見せ付けて自慢して、注目されて人気者になって、持てたいだけじゃないの。

 琴は、人生の生き甲斐を失っていた、何のために生きていくのかが、判らなくなっていた。

 うららかな街路を進んでいくと、やがて新町商店街に入る。商店街と言っても、駅から離れた小さな店の集まりだが、近所の人々は、そこで生活の用を足していた。

 弁当屋の前を通り過ぎ、本屋の隣の電器屋に差し掛かると、道に向けて音楽が流れていた。

 琴は、周囲の雑音に汚されつつも、エキスだけ聞えて来るその澄榮なメロディーに、少し興味を惹かれた。

 ――これは、プロコフィエフの戦争ソナタね。……街中の電器屋で掛かるのは珍しいな。こんなところで、プロコフィエフに出逢えるなんて……。

 そのピアノのクリアーな旋律の演奏されている電器のほうを見ると、大型液晶テレビに、ピアニストの演奏が映っていた。

 琴は、陳列台から、しばらく、その演奏する男性ピアニストの熱演を見詰め、その流れるような透明音に耳を澄ませた。

 演奏が終ると、アップになっていたピアニストがズームアウトし、会場全体が映って拍手の渦になった。演奏家は、ピアノから立ち上がり、お辞儀をした。そのときに、男性ピアニストは大写しになり、字幕スーパーとアナウンサーの声で、名前を知らされた。

 ――山際巧。聴いたことがない名前だわ。新進のアーティストにしては、見たところ歳も三十後半だし、どんな人なんだろう……?

 琴は、その山際というアーティストに、非常に興味を持った。

 まだ、山際の演奏が聞きたかったが、番組が終ってしまった。

 名前を、心に刻んで、電器屋の陳列台を後にした。

 街路樹が、色づき始めた葉々を、秋の青空に映え照らしていた。

 

琴の自宅は、新町商店街を抜けた住宅地の一角にあった。

 敷地三十坪程度の狭い敷地に建てられた、車の大きさぎりぎりのインナーガレージに、LDK、客間の他は、風呂便所納戸しかない一階と、子供部屋と寝室しかない二階で構成された、粗末な住宅だった。

 両親は二人とも地方出身で、大学時代に知り合って結婚した、二つ違いの夫婦だった。父親は次男で就職も東京でしたので、ローンでこの地に家を建てた。

 私が、生まれたての頃に、家が完成したので、だいたい築二十年になる。

 玄関を開けると、母親がリビングでアイロン掛けをしていた。

 「おかえり、琴」

 「ただいま」

 ぶっきらぼうに、琴は答えた。

 大学入学当初は明るく答えられたが、大学の現状と人生の未来に、明るいものを感じられなくなった最近、琴の声は、甘えたように反抗的だった。

階段を上がって、自分の部屋にいく。

 子供の頃から使っている子供部屋は、琴の生育に伴う傷や汚れなどが刻まれ、琴はその重積に嫌悪感を覚えていた。出来れば、もっと綺麗で近代的な新品の家に住みたい。だから、せめて、綺麗なアパートに一人暮らしをしたい。しかし、琴が結婚するまでは、琴が思うところの過保護の管理主義なので、親の言うところの経済的余裕が無いという理由で、家を出られなかった。

 部屋の壁際にピアノが置いてある。もちろん、それほど裕福な家庭でない涸沢家は、たとえどんなに両親が琴に将来の希望を託したにしても、安物のアップライトピアノがやっとだった。幼稚園から中学まで、琴はピアノを習っていた。

荷物を机の上に置くと、琴はベッドに寝転がった。

 ――つまらない人生、無目的な人生。

 耳の中に、先ほど聴いた山際巧のピアノ音が流れていた。それは、意思とは勝手に自動的に琴の頭の中にずっと流れ続けていた。先ほどのテレビを観ていたときの感動の余韻が、残響のようにこころを打ち鳴らし続けていた。

 ――あんな、感動的なピアノが弾けたらなあ……。

 琴は、山際の演奏している姿に、格好良さと男らしさを感じ、もう少しよく知りたいと思った。そして、勢いをつけてベッドから起き上がると、机の上のノートパソコンのスイッチを付けて、「山際巧」と検索バーに打ち込んでみた。

 ――山際巧。ピアニスト。東京都出身。昭和四十九年五月二十六日生まれ、三十六歳。幼少の頃からピアノを学び、中学生にして、各ピアノコンクールの金賞を総舐めし、籐院高校、関東音楽大学と進学の後、大学二年生にして全国ラフマニノフコンクール優勝、プロデビューを果たす。

 既存のクラッシック音楽に飽き足らず、ジャズから現代音楽まで、果敢に挑戦するピアノは、前衛的な技巧と独自的な解釈を持ち、海外でも高く評価されている。

やっぱり、才能ある人なんだなあ……。天才って居るんだよね、世の中に。凄いなあ……。

 琴は、自分の才能の無さから見た天才の質の高さを思って、無力感を感じた。

 わたしも、幼少からピアノを習っていたけど、せいぜい合唱コンクールのピアノが精一杯だったからなあ。どこが違うんだろう……。

 机から、立ち上がって、ピアノの鍵盤の蓋を開けた。

 人差し指で、真ん中の白い鍵盤を、弾いてみる。

 ――トーン。

 安物ピアノの、濁ったコーヒー牛乳のような音。山際巧の指は、こんなピアノをも、名器に変えて、綺麗な音楽を奏でられるのだろうか……。

 椅子に座って、ドレミと弾く。久しぶりに、音が出したくなって、中学まで習っていた練習の中で、繰り返し練習していたシューベルトの第一四番の初めを弾いてみる。

 四年間のブランクは、指先を鍵盤に引っ掛けさせ、滑らかな旋律が奏でられない。

 しかし、とにかく音を奏でたくて、途中途中とちりながらも、全曲弾いてみた。

 この曲は、琴の好きな曲だったので、先生に無理を言って、無理矢理練習した曲だった。琴は、ピアノソナタは、これしか弾けない。

 何度か、気持ちが晴れるかと思って、繰り返して弾きなおしてみた。

 しかし、山際の魔術的指使いのようには、上手に奏でられず、たたでさえとちりつつの鍵盤押さえが、非完璧なことへの悔しさのためにあまつさえたどたどしくなり、憤懣が益々溜まっていった。

 琴は、胸がむかつきすぎて、両腕で、鍵盤をガーンと殴った。

 「ギャー!」

 心の限り、大声を挙げたら、少しはすっとした。

 下から母の声がした。

 「ことー? どうかしたのー?」

 「ちょっと、いらいらしてたのー。」

琴は、ピアノの前を離れ、ベッドに寝転がる。

 腕を頭に組み、思いついた。

 ――そうだ。私みたいな、未熟な鍵盤使いは、声を出せば良いんだ。そうすれば、すっきりする。

 琴は、弾き語り出来る歌がないか、自分の頭の中を、とつおいつ、調べてみた。

 中学のとき、好きなアーティストの音楽を、楽譜を買ってきて練習していたのを思い出した。

 何曲か、ピアノ用のサザンオールスターズなどの楽譜で練習した曲があり、一番よく弾いた桑田佳祐の「白い恋人たち」を歌ってみたくなった。

 ベッドから起き上がると、再びピアノの前に座り、記憶のままに、前奏を弾いてみた。 指が鍵盤使いを覚えていて、久しぶりにしては、すらすら弾けた。

 そこで、もう一度、初めから、こころを込めて、弾いてみた。

 声を出す。

 「……夜に向かって雪が降り積もると……ため息がそっと胸にこみ上げる……涙で心の灯を消して……通り過ぎていく季節を見ていた……」

 恋に恋していたしていた中学時代、かなり憧れた歌詞の世界だった。

 サビの「こころ折れないように負けないようにロンリネス」が、とても感動的で、自分にも、白い恋人が待っているのだと、強く信じて、歌っていた。

 しかし、未だに、白い恋人は、現れていなかった。

 ひととおり、歌い終わった。やっぱり、いい曲だ。

 「白い恋人か……。私には、居るのかな……」

 琴は、自分の短い過去を思い浮かべ、帰り際、電器屋のテレビに写っていた山際巧の雄姿を思い浮かべた。

 ――あんな人が、待っていて呉れたらなあ……。

 夕方の陽光が、軟らかくベッドに刺し込んでいた。

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