10 【心透かし】

 

 ──声は遠く、在りし日の夢を見る。



 少年は草原に腰を落ち着け、何を待つでもなくただずっと放心していた。残ったのは体と名前くらいの物で、眠りから目覚めた時には故郷も両親も記憶も、全てが知りようのない過去へと変貌を遂げていたからだ。



 少年は涙を流さない。悲しいという感覚さえ忘れたのなら、どうして喪失という感情を得ようか。



 少年は依然として草原に腰を落ち着けていた。



 ──元より、夢には整合性などないものだ。



 いつまでそうして座っていようかと思った矢先、一切の前触れなく藤色の髪の少女が現れた。まだ眼鏡はかけていない少女は、少年には聞こえない声で柔らかに語りかけ、小さく短い手を差し出して少年を立ち上がらせる。



 向かい合った先、まだ目線の高さが合う背丈の少女の顔を見た瞬間に、少年はあらゆる種類の感情を思い出し、実感し、知らず頬を伝う涙は草原の土に吸い込まれていく。



 少女の名前を呼びたくて、でも声の出し方を忘れてしまった少年にはそれは叶わない。ニコニコと、優しく注ぐ陽射しのごとく暖かな視線に見守られる中、何とか空気を絞り出した途端に、世界は色を失って少年は闇へと再び沈んでいった。



 ──夢中での落下は、現実に浮上する事に相違ない。だからこれは目覚める前兆で、決して恐れる事ではないのだ。



 それでも少年は過去を想い、過去に焦がれ、過去へと縋る。もし起きてしまえば二度と戻らない景色と知っている様に、懐かしき始まりの記憶に届かない手を伸ばし続けて────


「起きなよスラエータオナ、今日は川の近くだから水浴びできるってさ」


 と。

 聞き慣れた軽薄な声に、現実へと引き戻されたのだった。



 ふと見上げれば満天の星……という訳にも行かず、ゆっくりと目蓋を押し上げたスラエータオナの瞳には幌の布屋根ばかりが映る。視線をずらせば、藍髪銀瞳の美少年が軽薄な笑みを浮かべて顔を覗き込んでいるのだった。


「よくもまぁ、あんなに揺れる中ぐっすり眠れるよね。風景が変わらなくて退屈なのは分かるけど、起きてお喋りくらいすればいいのに」


「そこまで眠かった覚えはないんだけどな、夢を見てた気もするけど忘れちゃったし」


 どこかでした様なやり取りを繰り返して、スラエータオナは体を起こし寝惚けたままの各所へと血を巡らせる。幌の隙間から見える風景は既に夜闇へ沈んだ後で、焚火の赤みがかった点滅と空の青白い燐光が競う様に世界を照らしていた。


「おーい、スラエータオナってば。まだ眠いならボクは先に行くけど、暗いからって蹴躓いてケガしたらダメだよ?」


「いや、俺も行くけど……」


 状況と言葉から察するに、今日はもう移動せず食事をとって川で汗を流して終わりなのだろう。これだけの人数だと毎晩宿を探す訳にも行かず、補給地点となる町以外ではこうして野宿する事も少なくはなかった。



 実際の所、アシャ・ワヒシュタという超人の存在により、人目さえ憚らなければいつでもどこでも洗濯も湯浴みもできるし、火起こしも水汲みも持って来いなのである。しかし、騎士団と共に移動する以上は聖霊をおいそれと見せる訳にも行かないため、実際に少年たちが恩恵を得る事は少ない。ウォフだけは女同士という事で隠れて毎日お世話になっているらしいが、それに目くじらを立てる程さもしくはないスラエータオナだった。


「よし、ちょっとスッキリした。じゃあ行こうか──おっと」


 立ち上がろうと床に手を伸ばすと、勢い良く手に当たった長物が板張りの上を滑っていく。質素というより不愛想という表現が近い、飾り気のない柄と鞘。どこからどう見ても長剣でありながら、鉄塊にはあり得ない挙動で飛んで行ったそれは、紛れもないスラエータオナの所有物だった。


「別に盗られたりしないだろうけど、一応持っていったら?」


「……うん、そうだな」


 目に入ったから話題に出した程度の問いかけに、それ以下の熱量で生返事をする。急に立ち上がった事で立ち眩みでも起こしたのだろうか、心臓を甘く引っ掻かれる様な違和感と共に、スラエータオナはその武器を手に入れた日の事を夢の続きのように思い出していたのだった。



 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



「うちの親方がちゃらんぽらんで、ほんっとに申し訳ねえっす!!」


 黒髪の少年を見つけた瞬間に、凄まじい勢いで駆け寄って来たその女は、開口一番元気良く頭を膝の高さまで下げた。余りにも豪快な謝罪に「何が」とすら聞けず呆然とするスラエータオナに、その女は重ねて大声を張る。


「先月、親方──あっと、親方ってのはモロキ・タゴサクの事っすね。まぁアレが先月、あなたに刀を鍛ってやるって約束したのは覚えてます? 結局どうなったか気になって聞いたら、作ったけど届けるのが面倒臭くなったとかぬかすんでウチが持ってきたんす」


 そう言って、女は片手に握りしめていた細身の長剣に見える物をはいと手渡す。唐突に寄越されたそれをスラエータオナは大事そうに抱えようと構えたが、両手に伝わったのは見た目と全く釣り合わない軽さだった。


「これって剣……ですよね?」


 その感触が少年の知っていた武具とまるで異なっていたため、確認をとる黒い瞳には猜疑の色が見え隠れする。持って来た女はその反応を予期していたという様子で小さく喉で唸って、


「っすね、うちの親方の悪い癖というか何というか、無個性な量産品が嫌いでして変わった物ばかり鍛えるんすが、その剣にはんすよ」


 そう言うと、咳払いをして出来る限りの低い声とぶっきらぼうな言葉使いで補足をしてくれた。


「アンタの言いやがった人を傷つけない剣、そんなもんがあるってんならテメェで体現しやがれ。その刀には柄と鞘しかねェ、はなッから斬れねェ欠陥品だがアンタの注文には合ってるだろう? 名付けて奇刀『心透こころすかし』……意匠がショボいのは愛嬌だ、俺ァ鍛冶かぬちであって刀装具は門外漢だバカ野郎──だそうっす」


 その奇妙な話し方はタゴサクのモノマネだったらしい。自らやっておいて気恥ずかしそうな女に、わざわざ持ってきてくれたお礼を言おうとして、スラエータオナは女の名前が出て来ない事に冷や汗をかいた。



 確か、タゴサクが一度名前を呼んでいたはずだ。そこまでの記憶ばかりが脳をグルグルと渦巻いて、肝心の固有名詞は未だ喉を通らずスラエータオナの思考回路は焼け付いたように熱を持つ。と、


「今日も可愛いねミスミちゃん、こんな所で会うなんて珍しいけど騎士団に何か用事?」


 初めから陰に潜んでいたと言わんばかりに不意を突いて、浮薄で好色な響きが少年の背後から飛んだ。振り返らなくても誰と判別できる見知った声に、目の前のミスミと呼ばれた女は照れた様子で手を忙しなく動かして、足早にその場を立ち去ろうとする。


「じゃ、じゃあウチは用事終わったんで帰りますね! お二人ともケガ無く健康でご自愛お祈り申し上げるっす!」


「ミスミさん、ありがとうございましたー!」


 脱兎のごとく駆けだしたミスミに、伝わっているか不明な謝辞を叫んだ。その背中が爪の先ほどの大きさになったのを確認してから、スラエータオナは振り向いて声の主を視界に収めた。


「助かったよドゥルジ、俺が困ってる内容まで当てられるとは思ってなかったけど」


「いや別に? ボクはただ、可愛い知り合いがいたから私利私欲で声を掛けただけなんだけど?」


 厭らしい笑みを貼り付けた顔からは本心を読み取る事が出来ないが、スラエータオナは長年の付き合いからドゥルジは気を回した時ほど誤魔化す癖を知っている。いつからやり取りを見ていたかは知らないが、唐突なナンパは助け船の裏返しだという事くらいは察せた。



 次いでなので、スラエータオナは長年疑問に思っていた事を試しに尋ねてみた。


「そういやさ、手当たり次第に声を掛けてる様に見えて、ドゥルジって明らかに脈があったり声掛けて好感触だった女子には二度と話しかけないよな。あれって何で? ただ色ボケてるだけなら靡いてる人にコナ掛けた方が良いんじゃないの」


「いや、別に意図はないつもりだよ? ……ただそうだね、ボクの事を好きでいてくれる子にそういう事して、本気になられたら困るじゃん」


 ドゥルジは自他共に認める好色家で、寧ろその称号を頂くために敢えて軽薄な振る舞いをしている節すらある。しかし、それとは裏腹に、ドゥルジが実際に手を出したとか誰かと付き合っているという様な甘い噂話はスラエータオナの耳に届いたことは無い。ヘミは閉鎖された集落だ、聞こえないという事は実際に何もなかったのだろう。スラエータオナはそれが不可思議で仕方なかった。


「? 本気にさせちゃダメなのか? 俺はてっきり、自分に厳しい人の方が好きなだけなんだと思ってたけど」


「いやいや、他人の性癖を勝手に決めないでよ! 確かに嫌いではないけど、ボクが本気になられると困るのは関係が戻らない所まで進む危険性があるからだね。人生にやり直しなんて絶対に利かないんだから、いつでも後戻りできる関係くらいが丁度良いんだよスラエータオナ」


 意外な指摘だったのか珍しく焦って否定するドゥルジは、その後に独特な哲学を語る。余裕綽々の少年が胸中を勿体ぶらずこんな風に話すのは稀で、しかもその内容が余りにも聞き覚えのある物で思わずスラエータオナは破顔してしまう。



 ──ドゥルジくんは怖がりな所があるからね。色んな人と遊んでる印象があるけど、移り気なんじゃなくて仲を深めるのが怖いからそうしてるんじゃないかな



 最期の夜、そう言ったのは誰だったか。辛い過去から目を背けるために封じていた記憶の蓋が僅かに開き、少年は胸を掻きたくなる様な疼痛に襲われた。


「どうしたのスラエータオナ」


「いや別に、大したことじゃないよ」


 穏やかな笑みで痛みを誤魔化す。失くしたのではなく、それを取り戻すための戦いなのだと再び心に火を灯して、鞘を一層強く握った。



 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



寝ている間に見た、記憶には残らない夢の内容が悪かったのか、スラエータオナは二つの過去を同時に思い出し、つい郷愁に駆られてしまった。


「ニヤついちゃってどうしたのさ、キミらしくもない」


 自然の明かりだけが道をぼんやりと浮かび上がらせる中、隣のドゥルジはスラエータオナに視線を向けて笑みを浮かべる。月下のドゥルジは生来の美男子ぶりが強調され、あたかも逢瀬を過ごしている背徳感が過るが、それにドキッとするには余りにも長い付き合いが過ぎた。


「いや、ちょっとライラックとお前の事を思い出して。実はライラックはドゥルジの心をめちゃくちゃ見透かしてた、って言ったら信じるか?」


「いや、まっさかぁ。確かにライラックちゃんは一足飛ばしで相手の本質に辿り着く凄い子だったけど、ボクはそれを分かって敢えて深く付き合わないよう避けてたんだから」


 寝起きで思考が普段は使わない回路を通っているのか、スラエータオナは誤魔化すことはせず、むしろ上塗る様に少し意地悪な質問をぶつけてみた。ドゥルジは軽口だと思って受け流したようであるが、その実ドゥルジのそんな癖まで見抜かれていたと知ったら、この捉えどころのない少年はどんな反応を示すのだろうか。



 そんな、少し先の未来を幻視する。それを叶えるにはライラックを含めたヘミの被害者を救う手立てが必要で、今の彼らはそのために鉱山都市の「アムシャ・スプンタ」を探しに南へと旅を続けている。



 月は丸く、星は無数に輝く。それはヘミでは手に入らなかった景色で、それを三人で並んで見る日を待ち望んで、今日をまた終わらせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る