02 【心技体】


「ほんじゃ、適当に寛いどき」


 そう言って通されたのは簡素な小型の訓練場で、やや古びて見える設備の印象そのままに、スラエータオナとイオアニス以外の人物が最近立ち入った形跡はない。短く伝えただけでその場を去ろうとした恰幅の良い男、しかしスラエータオナの声がその広い背中を呼び止める。


「寛ぐって、訓練とかしないんですか!?」


「なんや、そういうのを期待しとったんか? お前はそういうんじゃないと思ったから敢えてせんかってんけど」


 気だるげに振り向く髭面には、いまいち覇気が感じられない。その表情を一目見ただけで真面に取り合う気が無いと察したスラエータオナは、一歩踏み出して正直な胸中を振りまく。


「俺は前回の旅で、戦闘に関してはウォフとアシャさんに頼りっきりでした。でもこれから先には絶対に自分で何とかしないといけない時が来る、だから俺はちゃんと自分の足で歩けるようになりたいんです」


「……綺麗事っぽいのは、多分お前の性格やから何も言わんとくわ。んで、要するに、自分で戦えるようになりたいって事でええんか?」


 男による確認に、黒髪の少年は涼やかな目に決意を灯して首肯した。イオアニスは髪と同じ褐色の瞳でしばし少年を値踏みするように見下ろした後、分かったという様に自らの腹を叩いておもむろに腰に差していた剣を抜いた。埃一つ付いていない鈍色がスラエータオナの眼前で煌めき、少年は本能から反射的に後ずさる。


「じゃ、これ貸したるから今から本気で斬りかかって来い。手加減とかしたらばれるで」


 巨漢の男はそう言ってスラエータオナの強張る手に柄を握らせた後、少し離れてファイティングポーズをとった。


「い、いきなり、ひ、人を斬れって言うんですか? 第一イオアニスさんは素手で──」


「ん、どないした? ビビッて体が付いて来んのか。……スラエータオナ、さっきの自分の言葉忘れてへんやろな」


 全身から血が抜けたような感覚と噴き出る汗の不快感を感じながらも、少年はもつれる舌で精一杯の弁解をするが、その反応を見越していたようにイオアニスの声は低く重い。男のどこか朗らかで親しみやすい雰囲気は雲散霧消し、針金の様な髪や肥満気味の体格が威圧感を持って押し潰そうと迫る幻視を、スラエータオナはしてしまった。


「聞いたで、友達を助けるためにややこしいのに巻き込まれるのを良しとしたらしいやん。だから他人に戦ってもらうのが申し訳なくて自分も力を付けたいと思ってるんやろ?」


「そうです、そうなんですよ! 俺はライラックを助けたいからやってるだけで、ウォフやアシャさんは自分に全く関係ないのに快く協力してくれてるだけなんです。だからこれは俺がやらなきゃ駄目なんです、ちゃんと俺だって背負いたい」


「スラエータオナ、お前ホンマにええ奴やな。……でもお前は間違っとる。能力と手段と目的、何一つ一致してないやんか」


 イオアニスは、言葉を繋ぐたびにスラエータオナの人格を値踏みする様なセリフを吐く。いかにもガサツで無神経な見た目とは反して、その内容が鋭く胸に斬り込んでくる物であるので、黒髪の少年は次第に圧され返答速度が鈍っていく。


「お前の目的は、そのライラックちゃんいう子を救う事なんやろ? でも今はその手段に、ここで戦える力を付けるって事を選んどる。それだけでもズレてんのに、お前はド素人やから人に刃物すら向けられへん。やりたい事とやれる事がこんなに食い違ってんのに、それを見過ごして時間を使ってやるほどワシも暇とちゃうねん」


 訛った言葉でなじられて、スラエータオナはどんどん自分が小さくなっていくような感覚を得る。それは単に責められているからだけではなく、その内容が割合芯を食っている事が理解できるからだ。



 イオアニスはまだ知りようのない事であるが、昨夜のアシャからの情報提供によって、ライラックたちを救うのに必要なのはヴェンディダードと戦う準備を整える事で、そのための最優先事項は自身が強くなるよりもアムシャ・スプンタを呼び起こす事だと判明していた。



 尋常ならざる異能、『奇蹟』と呼ばれる能力を操る者同士の戦いにおいて、ただの少年が付け焼刃で覚えた体術がどれほど意味を成すだろうか。それを分かっていながらもスラエータオナが震える手で自衛能力を手に入れようとするのは、自罰的で責任感の強い少年にとって、他人にただ救いを求める行為が許しがたいからに過ぎない。



 結局のところ、行為がどれほど利他的で公明正大に見えても、深い部分でスラエータオナはエゴイストなのだ。


「だからですよ! だからこそ、俺はやるべき事をやれる様になりたいんです! お願いします、俺を鍛えて下さい!」


 図星だったからこそ、黒瞳の少年はより強い語気で、より切羽詰まった表情で訴えかける。手を汚すことをウォフとアシャに押し付けるのを是としない、それは紛れもない本心ではあるのだが、それを説明しようと紡いだ言葉は、またもやイオアニスの気に障ったようだった。


「さっき言うた事ちょっと訂正するわ。お前はやりたい事とやれる事どころか、やるべき事とやりたい事の区別すら付いてへん。友達を救うのんはお前にとって『やりたい事』や、それを『やるべき事』やと錯覚しているうちは戦う手段なんか絶対に教えたらへん」


 先ほどより一段と固くなった態度で、巨漢は不機嫌そうに少年の懇願を突っぱねる。そうは言っても、強い言葉の中に混ぜた独特の言い回しでスラエータオナを諭そうとしている事は伝わるのだが、表情を焦燥に変える黒髪の少年にはその要点が掴めなかった。



 そしてそういった時、恥や外聞もなく意図を聞き直せるのがスラエータオナという少年の特徴でもあった。


「……すみません、俺には『やるべき事』と『やりたい事』の違いが分かりません。否定したいなら、もっとハッキリ言って下さい」


 意識的に強い言葉を使って心を折ったつもりだったのだろう、尚も勢いよく返ってくる質問に対してやや面食らったように髭を撫で、男は諦めたように声の調子を少し和らげた。


「……あのな。人間っていうのは、今持ってる能力の中からしか手段を選ぶことができへんねやんか。目的に対して、すでに手立てを持ってる奴だけがそれを『やるべき事』にしてええねん。力もないのにやろうとすんのは『目的のためにやるべき事』を飛ばしてるから『やりたい事』にしかならへんねん。分かったか?」


 幾分か言葉数が増えて明確になったイオアニスの説教には、心持ちの話だけでなく理屈の部分も含まれていた。それは確かに筋の通った話で、無理なタスクを目標に設定するよりも今出来る事だけを見ろと言うのは、年長者が行う非力な少年への助言としては決して非道なものではなかったはずだ。



 でも、


「……なら、それが『やりたい事』から『やるべき事』に変わるようになるまで、俺を鍛えて下さい。地力があれば、ライラックを救う事も自分で戦えるようになる事も、やるべき事にしていいんですよね?」


 スラエータオナはそれを拒否する。イオアニスの含蓄のある言葉、それを正しく消化した上で少年は尚も夢を見る事を選んだ。その初志は無味乾燥なスラエータオナの人生において数少ない曲げられない部分であり、その選択を聞いて男は面食らったように目を瞬かせた後、含み笑いをするように顎を引いた。


「──へぇ、いや自分ちょっとおもろいやん。初めてお前ら三人を見た時は正直、一番おもんなさそうな奴の面倒見る事になったなって思ったんやけど、もしかして一番めんどくさい奴なんちゃうか?」


 ここに来て初めて、イオアニスの態度がこれまでとは違う質に変化する。それにスラエータオナが目敏く気付く前に、髭面の男は部屋の隅から木で作った模造品の剣を持ち出して黒髪の少年へと乱暴に渡した。


 突然の事に混乱するスラエータオナをよそに、イオアニスは巨体に似合わぬ柔軟な動きで準備運動をしたと思うと、先ほどのような徒手空拳ではなくスラエータオナへと渡したものと同じ木剣を構えて、剣の握り方もあやふやな少年へと正対する。


「あの、俺はどうすれば──」


「構えろスラエータオナ。一合だけ、一合だけ打ち合って見極めたるわ。お前が口だけのアホなんか、正真正銘のアホなんかをなぁ!!」


 咆哮と共に放たれたイオアニスの踏み込みは、目視する事が叶わなかった。



 今回でスラエータオナが学んだことは二つ。一つ目は、人間は強い衝撃を受けると本当に浮いて吹っ飛ぶという事。もう一つは、受け身を取るという行為すら鍛錬の上に成り立っているという事だった。


 構えた木剣の上から加えられた打撃によって、細身の少年は何が起きたかも分からずもんどりうって倒れ込み、年月と共に積み上げられた埃が舞って衝撃の余波を演出している。



 埃が付いて白黒の斑になった髪の、すっかり目を回してしまった少年の元へ、特に悪びれる様子のない巨漢が駆け寄ってきた。


「まぁ、ワシとしてはここでお前が秘めた力を解放してワシをボコボコにする展開でも良かったんやけど、普通にこうなるわな。意気込みに対して実力0点……って言いたい所やけど、正中線上に剣を構えてたから一点あげるわ」


 そう言って分厚い掌を差し出し、衝撃でグロッキーになったスラエータオナを引っ張り立たせ、床を滑ることで付いた汚れをはたいてくれる。行動とは正反対の心遣いに、突然に試されたのだと少年は遅まきながらに気付いたが、相対する覚悟が決まっていたとして埋まるような差でないのは火を見るより明らかだった。



 これが王都騎士団の大隊長。恐らく素人相手には実力の半分も発揮していないだろうが、それでも少年に畏怖と、先ほどまで自分が宣った台詞の重さを知らしめるには十分すぎるほどだった。


「今十六やっけ? ワシが今から本気で鍛えたら、二年後には士官学校の卒業生くらいには持ってけるわ。要するに、後二年してやっと同年代に追いつけるくらいやな。まぁ地力でどうこうはやっぱり諦めた方がええと思うわ」


 言葉でいなすのではなく実力を見せた上で、男はあっけらかんと先ほどと同じような否定をした。先刻までは威勢の良かった黒瞳の少年も、骨身に染みるほど差を痛感した今では、その闇を溶かした瞳に仄かな諦念を浮かべている。が、男の言葉は「でも」と続き


「心技体って知ってるかスラエータオナ。まぁワシは心体技の順番やと思うんやけどな──ってそんな事はどうでも良くて、今言いたいのはどっちにしろ心が先に来るって事や。ワシは何するにしても先立つ心が必要やと思ってるんやけど、お前はその辺ちょっとおもろそうやから」


 そう言って、何とか倒れずに自分の足で立っているスラエータオナの肩を掴み、人の頭部を飲み込めそうな大きな口でにんまりと笑う。


「この後住所教えたるから、明日にでもそこに会いに行ってみ。ソイツに認められたら、お前のことちゃんと鍛えて、ライラックちゃん救える男にしたるわ」



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