21 【戦う理由は】
スラエータオナに、それからしばらくの記憶は無かった。後から聞くには、泣くでもなく叫ぶでもなく只々絶句して動かないスラエータオナをアシャと「聖霊」が無理矢理運ぼうとしたところを、現場に訪れた病院の職員によって別室に連れて来られたらしい。
「落ち着いたかね、スラエータオナ」
そう言って温まった飲み物を差し出したのは、スラエータオナたちがお世話になっていたヘミの「院長先生」であった。黒髪の少年は大事そうに両手でそれを受け取り口に運ぼうとするが、体が受け付けずにむせ返ってしまった。
「他でもないお前さんだ、そう反応するのも無理はないだろうな。かくいう儂も、初めて知った時はひどく狼狽したものだよ」
ヘミが燃えた日以来にも関わらず、二人の間に再会を喜ぶ空気は流れない。どこかぎこちない様子を邪魔しないようにして、アシャはちょこんと椅子に腰かけている。
「どうして……」
「黒服の男らに攫わ……連れられてな。儂の腕を見込まれて、今はこの病院に世話になっとる」
憔悴するままに言葉少ななスラエータオナの意図を巧みに汲んで、恰幅の良い男は答える。その答えを聞いた少年は黒い切れ長の瞳を悲しそうに伏せて、カップの中の自分と目を合わせる。
「お前さんが何をしていたか、敢えて何も聞くまいよ。ただお互い、色々あったようではあるがな」
男はそう言って、部屋の隅にいるアシャを一瞥してにこりと笑いかけた。院長としては幼子に愛想を振りまいたつもりなのだろうが、その悪役じみた見た目では却って変質者に見えてしまう。
「……」
「……」
和やかな空気を作るのにも失敗して、重く気まずい沈黙が流れる。アシャがこういった時に気を利かせられないのは当然として、スラエータオナもこういった時にはドゥルジに頼りきりで生きてきたために、上手い切り出し方が分からない。
「…………ライラックは、死んだんでしょうか」
そのために、スラエータオナが選択した言葉は想像以上の重みを持って冬の空気に染みわたる。沈黙を肯定と取られると思ったのか、男は胴間声で一頻りうなった後でようやく言葉を繋いだ。
「息もせぬし脈も止まっておる。当然、事実だけを列挙すればそういう結論に至るのも無理はない。しかし儂が聞いた診断は、アシャに限らずここに運び込まれた全員が存命であるというものじゃ」
その返答に、少年は弾かれたように顔を上げる。見上げる形になった院長は、横にも縦にも大きく見えた。
「……笑うのじゃよ。体の機能が止まってとっくに冷たくなっておるのに表情があり、腐敗も始まらん。しかもあの娘だけではない、確認されている限りすべての子供らが同様の症状を見せとる」
院長はそう言って太い腕を胸の前で組み、大きく鼻を鳴らしてから少年の耳へと口を近づけて耳打ちする。
「どうやら、儂らはとんでもない物に巻き込まれてしまったのかもしれんな」
その言葉にスラエータオナは首肯し、落ち着いたのか手の内にある飲み物へと再び口を付けた。掌でぬるくなったそれは、スラエータオナの渇きを癒しながら五臓六腑へと温もりを染み渡らせる。
「積もる話もあるが、今のお前さんにこちらの事情を押し付けても却って疲れさせるだけじゃろう。今日は早く帰って眠りなさい、ただ夜道は暗いから気を付けなさいよ」
「……ありがとうございます、また落ち着いたら事情を説明しに来ます」
「ああ、儂は多分ここの病院にいるだろうから気軽に来てくれ。そうそう、それとお前さんらだけが無事な理由が知りたいから、ドゥルジも連れて一度検査に来ないか?」
「……いえ、多分調べても分からないと思います」
喉を鳴らして嚥下し終ったスラエータオナは、一度自らの頬を叩いて立ち上がる。その足取りに危うさがないかを確認してから、院長は送別の言葉をくれた。相も変わらず口癖のように検査の話をするが、数えきれないほど繰り返した掛け合いにスラエータオナの対応はつれない。
あえて突き放すような口調で断ったのは、できるだけスラエータオナたちが背負った事情に関わって欲しくないという複雑な子供心からだ。
院長もこの異常な症状を目の当たりにしている以上、もう部外者ではいられないのだろうが、それでも少しで良いから以前のままでいて欲しい。帰る家の無くなったスラエータオナにとって、旧知の仲だった人たちまで変わってしまえば、寄る辺を見失ってしまう気がしたのだ。
「それからそこのお嬢ちゃん。詮索はせんが、あまり子供が夜遊びせぬようにな。早く寝るのが成長の一番の近道じゃぞ」
「ご配慮ありがとうございます、ですが私はスラエータオナさんの付き添いで来ておりますのでお気遣いなく」
「お、おお。えらく畏まった物言いの娘じゃな」
アシャの素性を知らない男は、蒼銀髪の少女に対して見た目相応の態度を取り、帰ってきた無機質で慇懃な言葉に対して面食らったように薄くなった頭髪を撫でた。
「最後になってしまったが、スラエータオナが無事で本当に良かったよ。検査など良い、またドゥルジにも顔を見せるよう伝えてくれ」
背を向けたスラエータオナに対して掛けられた言葉には、血縁でなくとも確かに存在する息子への慈愛が籠っていた。
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薄暗い路地、スラエータオナとアシャは言葉も少なに帰途を辿る。形の上で騎士団に配属となったがその待遇は特殊で、アシャの保護と監視を同時に担っている彼らは騎士団宿舎に程近い一軒家で一つ屋根の下暮らす事になっているらしい。
「スラエータオナさん、少しお話宜しいでしょうか」
「え? はい、何でしょうか」
出し抜けに奏でられた鈴音の声に、スラエータオナの返答はぎこちなくなる。少女がそういった性格とは言え、事前に了承を求められた会話の内容に一抹の不安を感じながらも、少年は歩みを止めぬまま視線を少し下に向けた。
「ヴェンディダードが人ならざる力を持つ、とザラスシュトラ王が仰っていたことを覚えていますでしょうか。……それについて、私がお伝えできる情報がいくつかございます」
抑揚のない声で淀みなく話すアシャに、スラエータオナは彼女の頭頂部と正面の道を交互に見る事しかできない。またぞろ自分の知らない情報が飛び出る流れなのだろうと、自らの無知を受け入れている少年は高を括る。
「私の生まれた時代、人間にとって異能が発現することは稀ではありませんでした。何かを一心に願った者のみに訪れるそれは神からの授け物と考えられ、人々に『奇蹟』と呼ばれていました」
「願う者に訪れる『奇蹟』……」
蒼銀の髪に町明かりを反射させる少女が、過去への感傷すら感じさせず淡々と語った昔語りに、少年は手触りを確かめる様にしてその単語を復唱する。アシャは黒髪の少年が十分に言葉の意味を咀嚼しているかを確認してから、再び語りだした。
「当然、悪しき願いを持つ人間にも『奇蹟』は平等に訪れます。そいつが嫌い、あいつを蹴落としたい──純粋な悪意は、一途な願いに似た側面を持ちます。そして、その様にして世界を滅ぼしうる異能を授かった七人の大罪人、それがヴェンディダードの魔王。……そして、スラエータオナさんのご友人たちに降りかかった病も恐らくそれによるものです。ライラックさんが冒された奇妙な症状は、ヴェンディダードの一人が操った『病の奇蹟』に酷似しています」
少女の詳解に相槌を入れ頷きつつ、スラエータオナはアシャの言葉を飲みこむ際に引っかかった小骨の在り処を探る。常識の埒外から訪れる情報の洪水にはアンとの出会いで既に経験済みで、新たな概念に驚きつつも思考力を保っているスラエータオナの脳は、既に常軌を逸したこの世界へと順応し始めていると言えた。
「って事は、もう既にヴェンディダードの魔王は目覚めてるって事ですか!?」
情報の隙間に手を伸ばすようにして引き摺り出したその違和感は、スラエータオナに最悪の事態を想起させる。息を呑む間すらなく、焦りのままに跳ねるような声で問いただした少年へ、アシャは淡々とそれ以上の衝撃を持って真黒の少年の興奮を上から押さえつけた。
「『アシャ・ワヒシュタ』が目覚めている以上、他でもない私にその可能性を否定する術を持ち合わせていませんが、今回に関しては明確に否定できます。聖霊による感知では、ホープレスの『奇蹟』による病は
絶句する少年、その隣を小さい歩幅で歩く幼い賢人は少年へフォローの言葉を掛けるべきか逡巡しているようにも映ったが、次に口を開いたのは意外にもスラエータオナの方だった。
「その奇蹟による病っていうのを根絶して、ライラックを目覚めさせる方法はあるんでしょうか」
「……そうですね、いかなる異常でも元は一人の人間の願いによるものです。これ程他人へ干渉できる奇蹟は非常に稀なため確約はできませんが、引き起こした本人がそう願えば無効化されるのが筋かと。詰まるところ本人に奇蹟の解除をさせる、それが最も現実的な解決方法と考えられます」
ふつふつと、何かが沸き立つのを抑える様にして一語一句を丁寧に紡ぐスラエータオナ。アシャはその熱に惑わされる事無くあくまでも冷静で俯瞰的な意見を述べるが、それでも少年の薪となるには十分すぎる言葉だった。
自らを落ち着ける様に体を使って大きく息をするスラエータオナを、アシャは心配でも困惑でもなく、単に理解が及ばないといった様子で碧玉を上向ける。
「……俺、アシャさんが担ってる物の重さとか過去の因縁とか、そんなの全然ピンと来てなくて。俺たちは新しく始まった災厄にとって最初の犠牲者なんだと、そう考えてた節があったんです」
そう言ってスラエータオナは息を吐き表情を緩めてから、毅然とした表情で路地の先をしっかりと見やった。
「でも、元から世界はこんな風で、俺たちに関係なく歪んでいたそれを『正せる』手伝いができるのなら。俺は必ず戦いを終わらせて、またあの日みたいに平和に暮らしたい。それが俺の戦う理由です──なんて、カッコ付け過ぎですよね」
黒い瞳に町の明かりを反射させて、見得を切る様にそう宣誓したスラエータオナの横顔を眺めながら隣を往くアシャの頬が、心なしか緩んだように見えた。それは彼女がこれまで保ってきた鉄面皮が初めて剥がれたかもしれない瞬間で、それを目敏く目の端に捉えた少年は間を開けずに尋ねる。
「今笑いました?」
「いえ、単に昔の記憶を思い出しただけです。……あの方に少し、似ていらっしゃるなと」
そう誤魔化すアシャにスラエータオナは誰の事か迫るが、少女の冷徹な応答にはぐらかされて得たい答えは返ってこない。お互い言葉使いは硬いままなものの、出会った頃に存在した『人間』と『神』を隔てていた固さは本人たちが意識しない内に次第に薄れてきており、その姿は見る者によっては年の離れた友人か兄妹のように映るほどだった。
────ようやく幕を上げた舞台の上、三千年の時を超えた糸に
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