18 【聖霊、そして】


「不思議な感覚です、三千年後のはずなのに言語はおろか国も変わっていないとは」


 珍しく自分から話を切り出したアシャは、差し出された水筒に口を付けずスラエータオナの手元へと返した。



 少女がその権能でウォフの傷を癒し砂鰐を撃退してから一時間ほど経って、一行は砂鰐と遭遇したオアシスへと戻ってきていた。逃げる際に荷物を捨てたことからもう一度訪れる他なく、先ほどの恐怖が残っているスラエータオナは渋ったのだが、アシャという過剰戦力がいる事から最後には了承した。


「まぁ正確にはアシャちゃんの封印されたタイミングで帝国から王国に変わってる訳だけど、確かに凄い安定してるよね。世の中には数年で領土も君主もコロコロ入れ替わる国もあるからね〜」


 アシャの目覚めと共に砂嵐の立ち消えた砂漠では、つい先刻までが嘘の様な凪が広がっており、煩わしい巻き布を必要としなくなったドゥルジは、解放されたように湧き水で何度も顔を洗って砂を払い落としている。澄んだ水を湛える池にはもう砂鰐の幼体の姿は見当たらず、ウォフが言うには夫婦だった砂鰐のうち、彼女を追いかけたのとは別個体が子供を連れて逃げたのだろう。



 ──そして、もう帰らない片親を巣穴かどこかで待ち続けるのだろう。



 赤と黒、二種類の血と剥ぎ取られた鱗に彩られた剣呑な風景の中であって、スラエータオナは砂鰐にすら感傷的な想いを抱く。それはひとえに、今の少年が家族と言って差し支えのない存在ライラックと引き裂かれているからだ。そんな心持ちを知ってか知らずか、ウォフは柏手を打って話を本筋に戻す。


「それでさっきの話の続きなんだが。あんたがさっき見せた力、あれは自分の力じゃなくて『聖霊』がやった物だって言うんだな?」


「『言う』と申しますか、それが事実ですので。私はただ聖霊にお願いしたに過ぎません」


 紅い女の物言いに、貫頭衣の少女は慇懃な姿勢を崩さないまま頑なな口調で押し返す。力を見せてからここに辿りつくまで、もう既に何度もこの堂々巡りの問答を見ているので、スラエータオナにもいい加減に事情が呑み込めてきた。


「先ほども言ったようにこの世界──アシャさんに合わせると三千年後の世界だと、聖霊は神話の存在なんですよ。なので、聖霊がそこら中にいると言われても現実味がないんですけど……」


 スラエータオナは頬を掻いて、適当に目の前の空気を掴む仕草をする。その返答にアシャは気落ちしたように目を伏すので、黒髪の少年は早計な事をしたと焦った。



 バリガーと同様、スラエータオナは神話の知識としてなら聖霊の事を知っている。



 曰く、聖霊はかつて人間に寄り添って暮らしていた不定形かつ不可視の存在で、あるいはバリガーと対になって善悪を司る超存在であるといった考えもあったらしい。なれば、バリガーの実在も確認できた以上聖霊が居てもおかしくないと受け入れられたのだが、アシャの言い分を聞いたウォフの見開かれた紅玉を見る限り、バリガーと違っての常識と照らしても聖霊が現世に存在する事は常識的ではないらしい。


「聖霊は火、水、風、土の四属性を司り、私たちの生活に欠かせない存在です。話すと長くなるのでまたの機会にしますが、とにかく私自身が病を治す力を持っている訳ではないのです。ご期待に沿えず申し訳ありません……」


 少女の声は抑揚がなくどれ程の反省を孕んでいるのか判断しづらいが、消え入りそうな語尾はスラエータオナを焦らせるに十分だった。ドゥルジと違って口の回る方ではない少年は、涼しげな目を泳がせて次の言の葉を探る。


「まぁでもほら! ケガを治す力があるなら、昏睡を解く方法だってあるかもしれないじゃないですか! それに、アシャさんが居ないと俺たちは本当に手詰まりだったんです、協力して頂けるだけで本当に嬉しいんですよ」


 勢いに任せて見切り発車で舌を動かすと、言語化できずにいた感謝が喉から自然とこぼれ出た。しかし、本心から出たスラエータオナのささやかな笑顔を見ても、アシャは表情を変えることがない。


「まぁ何にせよ、帰るなら早い方が良いんじゃない? ボクもこんな砂だらけの所にずっといるのは嫌だしさ」


「もっと休みたいっつったのはあんただけどな」


 全身の砂を払い終えたのか、自分で出した提案を否定するように軽口を叩いたドゥルジ。確かに彼の少しウェーブがかった藍髪は砂を良く絡め取りそうで、彼が砂漠に来てからずっと煩わしそうにしていたのも納得はできる。一方で、裸足に貫頭衣と言った極端な軽装の少女は砂に不快感を示すことなく、それどころか喉の渇きや日差しすら気にならないようだった。



 銀瞳の少年にウォフが短くツッコミを入れた所で小休止も終了し、一行は再び駱駝に乗ってアラーク村への帰途を辿る。砂塵が無くなるだけで幾分か快適な乗り心地は何か雑談でも出来るほどだったが、ライラックの元へ戻りたいという逸る気持ちと共に胸に飛来した、何か見えている以上の大きなことに巻き込まれている得体の知れない恐怖感が、それを妨げた。


 ──

 ────

 ──────


 村に着いた頃、まばらに立ち並ぶ屋根は斜陽に照らされて橙色に染まっていた。近衛兵が交渉によって村長より借り受けた寝床は使われていない納屋で、スラエータオナはそこの埃っぽさが好みではなかったが、警戒されているらしい都会から来た奇怪な姿の人間に建物を提供してくれただけでもありがたい。



 そして奇怪と言えば砂漠から帰ってきたのにみすぼらしい格好をした少女が増えている一行も同じようなもので、できるだけ少女が住民の目に触れないように急いで匿う。アシャは幸いにも環境への不平不満を漏らさない性格なようで、小屋で寝ると言われても特に不満げな様子を示さなかった。


「それで、言った通り明日には王都に帰って国王と謁見してもらう訳だが……分かってると思うが、向こうはあんたの情報を握ってたって時点で素人じゃねぇ。別に何をとは断言できないが、警戒だけはしとけよ」


「怪しいって言っても、勝手にアシャちゃんを起こして拉致したボクらには勝てないけどね」


「ドゥルジはちょっと黙って」


 寝る前に明日についてワイワイと話す一行を、鳥の覆面をした二人組は口を挟まずに見守っている。何ともシュールな光景ではあるが、胆力と言うべきか無関心と言うべきか、説明を挟んでいないのにアシャは彼らの存在を一切気にかけていない。彼女の衣服も現代の価値観からすれば特異であることを鑑みると、あるいは三千年前では近衛兵のそれは一般的な服装の範囲内であった、という可能性も決して無い訳では無い。


「お気遣いありがとうございます。ですが僭越ながら、パルシスタンの王家に連なる方であれば信用に足るかと。かつて、私も王の一人に大変良くしていただきました」


 少女は周りの顔色を窺いつつ控えめにそう答えて、懐かしむように宙を見つめる。相も変わらずアシャの整った顔は破顔する気配すらないが、その姿は彼女が初めて見せた表情の様な物だったのかもしれない。



 共有しようのない昔話に感傷的な気まずさが漂う中で、誰が言い出したでもなく寝支度が始まった。数日間続いている早朝からの行軍は彼らの生活を朝型に変えていて、砂鰐と遭遇して生き延びたことによる精神的疲労が出たのか、まだ陽が沈んだばかりだというのに程なく三人は寝息を立て始めた。



 そしてその傍ら、寝る振りをしたものの一切微睡む気配のない少女はおもむろに上体を起こした。夜風に当たろうとしたのか、彼らの寝顔を確認してアシャは扉を開け冷たい空気の中に飛び込む。近衛兵は起きていたので彼女が外出するのをはっきりと見ていたが、咎めるどころか身じろぎすら起こさなかった。



 見た目に合わぬ軽やかな動作で納屋の屋根へと登り、腰かけて星月夜を眺めるアシャ。少女の蒼銀の髪は月光を受けて一層神秘的に輝き、エメラルドの瞳には欠け始めた月と満天の星空が反射してもう一つの夜空を形作っていた。


「どうも、突然申し訳ありません」


 一枚の絵画の様な風景へ、夜風に乗せて届けられた聡明な声に、無表情な少女も不意を突かれたのか肩をすぼめる。見下ろした先に居たのは、全身を白く染め上げた美少年と、その傍らに憮然として立つ薄着の少年。


「君がアシャ・ワヒシュタさんですね? 少し、お話でもいかがですか」



 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 あらゆる封印には錠と鍵があり、あらゆる呪いには穴がある。であれば、アシャ・ワヒシュタの封印にも当然対となる存在がある。



 双子砂漠のもう一つ、アンがセピーデダムの横槍によって語り損ねたその場所にある流砂の奥で、突如七色の閃光が煌めいた。その奔流は流れる砂を物ともせずに一頻り眩いた後、糸が解ける様に色を失う。誰の目も届かないまま虹の消えたそのただ中で、呆然と佇む人影が一つ。



 体のシルエットは軍服のような厚手のロングコートに阻まれて見えず、細い喉もいまだ震えてはいない。それでも、その場面を見ていた人間が居たなら魅入られるあまりに呼吸を忘れて絶命していただろう。



 紫紺の髪、枯草色の瞳。少女のあどけなさを微かに残した顔立ちは、それでいて見た者の時を止めてしまいそうなほどに妖艶で、もはや魔貌と表現する外にないだろう。



 自分の状況が呑み込めていなかったのか暫し惚けていた女は、ようやく自分のやるべき事を思い出したのか、薄いながらも瑞々しい唇に指を添えて薄く笑った。


「待っててね、わたくしの可愛い可愛いアーシャ」


 三千年の眠りから目覚めたばかりの、未だ形にならざる運命の蠢動する、始まりの鈴音がした。



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