17 【第一の神】
「あれ、砂嵐は?」
絶えず吹き付ける暴風の核に突っ込んで無事どころか、先ほどまでの地鳴りのような風切り音が嘘のように鳴り止んだ状況に、スラエータオナの口から稚拙な感想が漏れた。目の前にある石造りの小さな建物、それを囲う様にして吹きすさぶ砂塵は、中央部分をぽっかりと空洞にしている様であった。
「厳密には違うけど、この砂嵐の壁は一種の蜃気楼みたいなものだったんだろうね。実体は無いのに目に入るだけで向かう事を忌避させる仕掛けって訳」
ドゥルジが顔に巻いた布を解きながら、したり顔で砂塵への考察を垂れる。原理自体にはさして興味のないスラエータオナは生返事すら曖昧に聞き流し、服にほつれがないことを確認してから正面へと向き直る。装飾もなければ工夫もない掘っ立て小屋のような扉のない石造りの建物を今一度眺めて、乾いた口を湿らすように口内へ力を入れた。
死と交差するような思いまでして辿り着いた先、ここまで思わせぶりな演出をもって現れた小さな祠は、アンの語った物語の通りに
意味深に彫られた壁のレリーフも、砂漠において床に砂の一粒も見当たらない不可思議さも、今の彼に見える景色にとっては取るに足りない雑音だった。
柱。ただただ圧倒的な存在感を放つ水晶の柱だけが、彼の意識を総なめした。原理も不可解なままに発光する七色の水晶が、見ている間にも玉虫の羽のように表情を変えていき、魔性の美しさをもって瑣末な雑念を忘れさせるほどの輝きを放つ。
黒髪の少年は茫然自失なままに水晶に手を伸ばしかけるが、ふと上方に見えた違和感が彼を現世に縫い止めた。
「なぁドゥルジ。あれ、人、だよな……?」
「そうだね、ボクにもそう見えるよ」
スラエータオナの問いかけに冷静な返答をするドゥルジも、しかし銀の瞳には危うい熱を持った光を浮かべている。恍惚としてしまいそうな心を掃って違和感の正体を凝視すると、天井まで続く水晶の柱の中ほどに人型の何かがある。不可解に乱反射する表面のせいで事細かには確認できないが、映し出される影から水晶の中に人が入っていることだけは明白であった。
「ってことは、この水晶が封印で、あの人影がアシャさん……?」
「状況証拠的には、それで間違いないだろうね。ボクとしては、こういう封印は何かしらのギミックで解除できると思うんだけど、どうかな?」
「意味がよく分からないけど言いたい事はなんとなく伝わったよ……ここから取り出す方法を探さないとここまで来た意味がないもんな」
ドゥルジの提案に、スラエータオナは困惑したように辺りを見渡す。壁一面に渡って意味深に彫り刻まれた模様は、一定の法則を持った物ではあるように思えるものの、専門知識のない若輩に解読できるほど簡単な物とは到底思えない。最後の一手であるはずなのに打破の手掛かりすらない状況に、涼しげな瞳に焦燥感を滲ませて頭を掻く少年は、この水晶を削れないかなどと浅慮で乱暴な考えから、材質を探るために何気なく手を触れた。
「──ッ!?」
石造りの祠にけたたましく鳴る反響音に、スラエータオナは反射的に手を引き目を瞑った。
「なになに!? なにやったの?」
水晶を擦り合わせて砕いたかの様な耳障りな音が尚もこだまする中、耳にはドゥルジが狼狽する声が聞こえる。驚愕はしているものの、いまいち締まりの無いその声から原始的な恐怖や心底からの焦りは感じないことから、即座に身体的な危険性がないことを確認し恐る恐るその黒瞳を開くと、目を擦りたくなる幻想的な光景が広がっていた。
音も立てずに七色の粉雪を舞い散らして解け落ちる眩い水晶と、光の奔流の中でゆっくりと落下する人影。スラエータオナは言わずもがな、あのドゥルジさえ思わず呼吸すら忘れて一連の光景に見入る。その眼前で、浮遊してきたアシャ・ワヒシュタと思われる人は地に降り立った。
それは簡素な白い布を一枚被っただけの少女で、蒼銀の糸のごとき細い髪を肩に付かないほどの長さに切り揃えており、碧玉の様な澄み渡る瞳は表情を殺したまま二人を見つめている。十を数えるかも怪しい程の幼い女は、整った顔立ちに一切の感情を浮かべないまま身じろぎ一つせず立ち尽くしており、透き通る白肌と服装から幽霊や人形の様な印象すら与える。
「初めまして、そしてお久しぶりです」
突如、予備動作もなく腰を曲げて少女は挨拶する。その一連の動作に人間味が全く感じられず、スラエータオナは人間と相対しているのか疑わしくなる錯覚を覚えた。
「あの……名前を伺っても?」
その姿に対してスラエータオナが辛うじて絞り出した言葉は、自身でも驚くほどチープなものだった。ここまで探し求めていた「アシャ・ワヒシュタ」と目の前の少女、その二つが咄嗟に結びつかず頓珍漢な質問をしてしまう。
「申し訳ありません、自己紹介が遅れました、私はアシャ・ワヒシュタと申します。アムシャ・スプンタの末席として、三千年の眠りを享受していた者でございます」
不躾な質問を気にすることなくそう呟いて、彼女はもう一度深く頭を下げる。未成熟な少女の完璧な礼儀作法を目の当たりにしながら、それよりも少年の気を引いたのはその言葉の方であって、一度だけドゥルジと視線を交わす。
「アシャさん──あなたは本当にアシャ・ワヒシュタさんなんですね!?」
「? ええ、私は自身の名をそうであると認識しておりますが……」
興奮を隠しきれず、名乗り返すことも忘れたスラエータオナの確認には熱が帯びる。その圧力にも動じることなく、少女は自身の存在の所在を確認する様におずおずとその言葉を肯定した。その返答を聞き、達成感から来る緊張の糸のほつれによって、スラエータオナはアシャを気に留めず大きく息をついてしまった。
「おいおい、さっきの音は何だ? それに砂嵐も止んじまったんだが」
その行動に次のリアクションが起こる前に背後──つまり祠の入り口からハスキーな女性の声が響く。硬い石材によく反響するその低音に振り向くと、そこに立っていたのは腕から血を流すウォフだった。
「ウォフちゃん、その傷って──」
「あんまりおれを見くびるな、この程度じゃ死なねぇよ。ただまぁ有体に言うと尻尾巻いて逃げて来て、実はまだ外に引っ張ってきた砂鰐が……っておぉ!? もしかしてそいつが噂の『アシャ・ワヒシュタ』か?」
砂で汚れた袖を赤く濡らすウォフに、ドゥルジは心配のこもった口調で話しかけるが、肝心の本人は全く気にする素振りもなく少年らの後ろに佇む少女に関心を向ける。
「悪いな急に騒いで。おれの名前はウォフ・シャムシール、流浪の傭兵にして、あんたを迎えに来た者だ。それで、もうおれ達の目的って聞いてたりするか?」
女は、石畳に滴る自らの瞳と同じ色の液体を気にも留めず、負傷した左手でアシャを指差してキザったらしく質問した。貫頭衣の少女は能面のような顔つきで少し困惑したように顔を俯かせ、ゆるゆると首を振る。
「私はアシャ・ワヒシュタ、アムシャ・スプンタの末席として再び目覚めること以外の目的を持たない人間です。何をお望みなのか存じませんが、もし私があなた様方の役に立つのなら、遠慮なくお申し付けください」
「おいおい申し付けって、おれ達の召使いでもあるまいに……」
いやに低姿勢なアシャに、ウォフは辟易したように眉根をひそめて首を鳴らす。平然と会話を続ける今も変わらず覗いている女の痛々しい生傷に、ドゥルジは思い出したかのように指を立てて提案した。
「ねぇねぇアシャちゃん、もしかして病気とか怪我を治す力って持ってたりする?」
「治癒能力、ですか? はぁ、大したものではありませんが……」
ドゥルジの質問に答える時だけ声がワントーン落ちた気がしたが、さして変わることない無表情のままアシャは頷き、おもむろにウォフへと近づいて彼女の左腕に手を翳した。反射的に身構える女を無視して、蒼銀の髪を持つ少女は何かを呟く。
「
「えっ何なんだ──痛い痛い痛い痛い!! てめぇ何しやがる!」
呪文のような独り言に訝しげな視線を向けていると、突然ウォフが火を浴びたような悲鳴と共に左腕を抑える。状況的には間違いなくアシャが何かをした証、ただ女が痛みによる激情そのままに人形の様な少女へ反撃する前に、その効果は表れた。
ウォフの左腕にあった切創、それが音を立てるほどの勢いで塞がっていく。先ほどまでの傷を気にもしていなかった女が真紅の髪を振り乱して身悶えするほどの激痛が走っているようだが、それでも今目の前で起こっていることは超自然的な『治療』に他ならなかった。
「申し訳ございません、本当なら鎮痛も同時に施すべきなのでしょうが、私にはそこまでの技量がないのです」
少女はウォフを怒らせてしまったことに沈痛な面持ちで詫びるが、その奇蹟を目の当たりにした三人にはそんな事など些事でしかない。歓喜のあまり言葉が紡げないスラエータオナに、いつもの倍ニヤついているドゥルジ。そして治療を受けた当人であるウォフは、流石に少し上擦った声で少女へと更なる要求をする。
「もしかしてだけど、おれが連れてきちまった砂鰐の退治とか、お出来にならっしゃる?」
「砂鰐……バリガーの一種でしょうか。私にお力添えできるかは分かりませんが……」
普段使わないからだろう、おかしな敬語を繰り出すウォフの強欲な願いを聞いてもなお、アシャは青緑色の瞳を自信無げに伏しがちで弱気に答える。一方で、脅威がバリガーだと一瞬で正しく認識しても恐れる様子一つ見せずに、小神殿への入口へと履物のない小さな足で歩み始めた。
物怖じしない少女に続いて三人が祠の外へと向かうと、そこにはスラエータオナたちが想定していなかった風景が広がる。先ほどまではあくまで祠の周りだけ砂嵐が不自然に止んだ状態、すなわち台風の目に飛び込んだようなものであったが、今度は正真正銘全てが凪いでおり、そよ風程度の風に拾われる細かい砂が舞っているだけで、薄い色の青空と天頂に昇った太陽さえ見えていた。
そしてそんな青と茶色のコントラストが映える地平線上、祠の出入り口の先にはウォフの申告通りあちこち鱗の削げた手負いの砂鰐が佇んでいた。何かしらの本能なのか祠へと入ってこようとはしないが、魔物は興奮と警戒の混じった肌が粟立つような唸り声を上げ、いつでも此方へ飛び掛かる準備ができている。
今すぐにでも二回戦が始まりそうな雰囲気、バリガーと対峙する旅人の心中など無視したように、ためらいもなく少女は更に一歩前へ出る。
「
入口の際へ辿り着いた少女は、生傷だらけの獣に手向ける感傷もなく、詠唱じみた一言を呟き体の前で両手を広げる。そして、旅の三人は紛れもない神の御業を目撃することになった。
少女に呼応して前方に集まるのは無形の風、それも生半な量ではない。それこそ先ほどまでこの神殿を覆っていた半球の暴風陣に等しい量の奔流が少女の意思によって集約され、限界まで引き絞られている。砂鰐の本能が危険を察知したのか、かのバリガーは襲い来ることを止めて潜れる砂を探すように尾で地面を叩きながら後退している。が、もう遅い。
一頻り集中した後の吐息、それを合図として収縮した力が解放される。それは確かな指向性を持って風として彼女の前方に吹き荒れ、直撃すれば家屋すら消し飛ばすほどの威力をもって、血風すら残さず砂鰐を消滅させた。
「あの……これで宜しかったでしょうか」
相も変わらず能面の様に白く無表情なまま、少女はおずおずと振り向いた。
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