16 【砂嵐の向こうに】


「……ドゥルジ、ドゥルジ!」


「静かにしてて、ボクだって――うっ、必死なんだから!」


 枯れた大地を駆ける脚が土を跳ね上げ、少なくない振動が少年たちの臓腑を揺らした。スラエータオナは何度か後ろを振り返って躊躇うように苦悶の表情を浮かべるが、歯を食いしばって手綱を握るドゥルジにはすげなく切り捨てられる。


「ウォフちゃんも自分で言ってたでしょ、あれがあのの役割なんだよ! そんなことより別の砂鰐を警戒してて!」


 駱駝は本来他の騎乗生物に比べて卸しやすい生き物なのだが、巨大な砂鰐にすっかり怯えたのか、彼らの騎乗する駱駝は制御も効かずに全力疾走している。いつもは余裕ぶった銀の瞳も珍しく焦燥感を灯して、ドゥルジは藍髪を振り乱しながら必死に手綱を引いていた。


「それでこれからどうするのさ? 逃げるのは良いけど別に安全地帯も何もないでしょ?」


「どうするもこうするも、このままあの砂嵐に向かうんだよ! そもそも最後には行かなきゃ駄目なんだ、場合によってはアシャさんにウォフさんの助太刀も頼めるかも知れない」


「うえ~、ボクはできれば命を粗末にはしたくないんだけど」


 横殴りに吹き荒ぶ砂に煽られないよう、二人は身を低く屈めて体勢を保とうとする。お互いの声すらも掠れ始めるほど強く吹く風は、ひとえに砂の結界へ着々と近付いている証でもある。



 距離が縮まるほど迫力を増していく半球状の暴風は、もう数分もすればその核に触れられそうなほどに迫っている。駱駝はドゥルジの制止も虚しく興奮したまま走り続けており、このままでは遠くない未来で彼らは風の刃に切り刻まれることになるだろう。



 そうはさせまいと、ドゥルジは駱駝の首を折る勢いで手綱を横に引っ張る。流石にそれだけされると止まらざるを得ず、内臓が半身に偏るような不快さと共に視界のスクロールが止まった。



 そして幸運か残酷か、旋回したことによって、先ほどまではスラエータオナの死角だった部分が彼の視界の端に映る。そこにあったのは、まだ牙こそ剥いていないものの明らかに少年たちへと向けられた、縦筋の瞳に映る殺意。



一寸先すら儘ならない視界、顔を覆った布に断続的に打ち付ける砂の音、それらが気付かせるのを遅らせた惨憺たる結末が彼の喉笛へと収束して――。


「させるか!」


「――スラエータオナ!?」


 完全に不意を突かれた一撃を、スラエータオナは伸ばした右腕で無理矢理に相殺した。近衛兵に預けられて背中に備えていた盾、それを本能のままにバリガーの口めがけて投げつけた。



 故郷の風景を奪った悪魔めいた生物が、想定外の出来事に混乱する姿を見て、溜飲を下げたようにスラエータオナの口角は自然と上がる。無力な少年が初めて変えた小さな『運命』、その高揚と焦燥のままにスラエータオナは声を張り上げて必死に呼びかける。


「ドゥルジ、そのまま走れ!」


「どっち選んでも死ぬ運命だったって事ね!?」


 スラエータオナの叫びを受け取り、ドゥルジはもう一度手綱を握って砂嵐の直中へとひた走る。不意打ちを食らった砂鰐は逃した獲物に追い縋るが、全力を出した駱駝に再び攻撃を加えられるほどの速度は出ず、少しずつその距離は遠ざかりつつあった。



 しかし、砂鰐の吐き捨てたひしゃげた木片を思い返すと、一瞬の判断遅れで自らがそうなっていた未来を幻視してしまい吐き気にも似た眩暈を及ぼす。その風景から目を背けるようにスラエータオナが姿勢を戻すと、いつの間にこれだけの距離を走ったのか、破滅を象った砂嵐はいまや彼らの目と鼻の先にあった。


「突っ込むよスラエータオナ、振り落とされないでね!」


「そ、そっちこ――」


 声を掛け合う彼らを妨害するような一瞬の雑音の後、世界が無音に包まれた。反射的に黒瞳を閉じた故に静寂の理由が判然とせず、鼓膜が破れたのではないか疑うがそれにしては体へと吹き付ける砂礫の衝撃がない。



 果たして何秒間の拷問だったろう? 痺れを切らした後部座席の少年は、砂嵐よりも無知への恐怖が勝って遂に目を開けた。その眼前に広がっていた風景は、嘘のように凪いだ暴風の先に鎮座する石の小神殿であった。



 ◆  ◆  ◆  ◆  ◆   



「ちっ、しょっぱいな」


 ひとりごちて剣を握り直し、ウォフは砂のない岩場へと飛び移る。先刻ぶつかり合った両者は、しかし大勢を決するほどの一撃を伴わなかった。それは決して、ウォフの力不足を表すものでは無い。むしろウォフは砂鰐の巨躯を華麗に回避して胴を一薙ぎしたのだ。なのに何故血煙が立っていないかというと――


「まるで岩だな、岩」


 想像以上に硬い鱗鎧へ突き立てた愛剣が綻びていないかを確認し、ウォフは次なる一手を考える様に額に手を当てる。相手は巨大ゆえ、予備動作で攻撃を読むこと自体は容易いが、問題はその攻撃範囲の広さと威力だろう。そればかりは単純な質量の問題で、そこに関しては如何なる研鑽の果てにも補い切れない。


「それにしても、あいつら無事かなぁ」


 口では先を進んだ二人の少年を心配するが、そう呟く間もルビーの瞳は油断なく彼の生物の動きを警戒している。目下バリガーを討伐する意味は皆無で、極論を言えばこのまま逃げ去ってスラエータオナたちを追いかける選択肢ももちろんあるのだが、女はその決断を下さないようであった。


「あんたには悪いが、削り殺させてもらうぜ」


 血が沸くような心を隠すことなく獰猛に笑って、ウォフは先ほどぶち撒けた荷物の内から足元にあった一つを掴んで乱暴に放り投げた。音を立てて砂に落ちるそれに魔物は反応し、巨躯に似合わない速度で飛びついてそれに無慈悲な顎を向ける。


「所詮、獣の知能だなぁ!」


 咆哮と共に体をしならせて飛び出したウォフの剣が、投げ捨てられた寝袋をしがむ砂鰐の表皮を撫で斬った。拠り所を失った黒光りする鱗が削り取られ、禿げた皮膚に滲んだどす黒い血液がバリガーの身悶えによって舞い散る。致命傷には程遠いが確かに命を削る一撃に、砂鰐は木を削るような、悲鳴とも怒号とも取れる唸り声を発した。



 それから何度かウォフは同じ手を使って砂鰐の気を引こうとするが、砂地の主は一度で学習したのか釣りには引っかかる事無く的確にウォフへと襲い掛かってくる。女は真紅の長髪を振り乱しながら素早く体を操り、獣を思わせる俊敏な動きで踊るように攻撃を避け剣を振り、頭、胴、手足と着実に鱗を削っていく。砂鰐にとってジリ貧の展開、しかし歴戦の戦士であるウォフはその生物らしからぬ動きに疑問を感じ、慢心せず思考をし続けていた。



 ──致命傷を受けていないとは言え、並の生物なら逃げ出すほどには手傷を与えたはずだ。なのに逃げない理由は水場に子供が居るからだろうか。だとすれば、こうして戦っている最中に体位が入れ替わり、自身が幼体たちを背にする形になっていっていることに説明が付かない。だとすれば、理由は。


「思い出すまでもないぜ。砂鰐はってなぁ!」


 その結論に辿り着いた途端、ウォフの背筋を言いようのない寒気が這い登る。それは奇しくも、人間が死を察した瞬間に想起されるものと同質だった。しかし、女の胆力はその悪寒を簡単に抑え込み、敢えて湧き水へと一歩下がる。そして、背後の水面下から猛然と飛び掛かったもう一匹の顎へと、振り向きざまに斬りかかった。


「一匹だろうが二匹だろうが、その程度の知恵でおれを出し抜けるなと思うなよ畜生共が!」


 真紅の女剣士によるどの獣より猛々しい雄たけびが、砂交じりの風をつんざいた。

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