03 【無明】
街灯の無い闇夜に、軽薄で甲高い音が谺する。音の主である藍髪の少年は時折吹く木枯らしに柔らかい前髪を煽られるままに、夜は自分の物だと主張したげに口笛を奏で、靴音を響かせて人気の無い夜道を横行闊歩する。暫くの間続いた独奏会は、黒に映えて浮き上がった白い石造りの建造物の前で終わりを告げた。
歴史の伝統を感じる格式高い外見の建物に、さして襟を正す事もなく無造作に入るドゥルジへ叱責が飛んだ。
「こら! 礼服も清めも無しに土足で入って来ないでっていっつも言ってるよね!?」
ドゥルジが敷居を跨ぐのが早いか、頭頂部まで白装束で包んだ女性が早足でドゥルジに詰め寄る。全く堪えていない様子でドゥルジは締まりの無い面をするので、白ずくめの女は息をついて宙を仰いだ。
「あのね、敬虔じゃない癖にほぼ毎日来なくていいのよ? アタシとしては吝かじゃないけど、夜遊びして周りに迷惑をかけるのは止めなさい」
「やだなぁ祭司様、ボクにだって信仰心はあるよ? 第一、キミを目当てに祈祷しに来る人がいるならもっと賑わってても良いはずだよね?」
祭司と呼ばれた妙齢の女性は、大人の余裕を見せる様にふっと息を吐いて諭す口調で囁いたが、ドゥルジはそれすら茶化す様に片眼をつむって話をすかす。
年下に揶揄われて赤面する女を尻目に、ドゥルジは静かに燃え続ける炎の前へ進み出た。煌々と炎輝く祭壇は、それほど広くない寺院の奥にあっても威容を示しており、男の銀の瞳に反射するそれは知識の無いものが見ても神聖な物と分かる。
ドゥルジはさらに一歩進んで聖灰を手に取り、自らの顔に塗る事で絶対神への信仰心を示した。普段の振る舞いからは信仰心の欠片も感じないためか、後ろから「ドゥルジが畏まるなんて明日は槍でも降るんじゃないの?」と祭司らしからぬ不敬な台詞が漏れるが、
「明日降るのが槍なら、まだ幸せなんだけどね」
さらに小さなドゥルジの独り言は聖火の前に掻き消え、彼女の耳には届かなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
スラエータオナが帰途につく頃には太陽は既に姿身を隠しており、しっとりとした夜のしじまが石畳を静謐で満たす。ただでさえ大きくはない町は夜になると更にその身を小さく潜め、時にはまるで自分以外がみな寝静まっているような錯覚すら覚える。
既に戻るべき家が眼前に迫る中、星の見えない空を見ながらそんな益体のない脚注を浮かべる少年に「お帰りなさい、スラエータオナ」と声がかけられた。
名を呼ばれ黒い瞳で音の方を見やると、白衣を纏った初老の男が木の陰から覗いている。
「何やってるんですか、院長先生」
恥じらうような態度、それとは似つかわしくない大柄な男が死角から声を掛けてくるシチュエーションに少し引き気味に返答をすると、「だって……」と濁声に見合わぬ女々しい言い訳が返ってきた。
院長先生と呼ばれた恰幅の良い男は、太い指を神経質そうに組み合わせてスラエータオナの顔色を窺っている。常に心配性な所はあれど今日に限って態々出迎えてくれることに違和感を覚えるが、数俊の後に火を見るより明らかな発端があったことを思い出した。
「すいません、ご心配おかけしましたがこの通り特に影響ありませんので!」
「本当か? 念のために再検査とかしておいた方が良いんじゃないのか?」
余りにも唐突かつ体調に影響がなかったせいで忘れていたが、実家である病院には自分が元気にライラックの家まで食事に行ったことなど伝わらず、学校で永遠の物の様に眠りこけた所までしか情報が渡ってなかったのだろう。
それを察して敢えて声高に正常を訴えたスラエータオナに、年端のいかない子供の強がりを見るような目で返す院長の目には不安が滲んでいた。
突き出た腹と薄くなった頭髪おまけに胴間声と、まるで悪徳領主やがめつい商人の様な風貌をしているが、その実ふくよかな体格に似合わない蚤の心臓を持つ男であり、何かにつけては健康診断や細密検査を勧めてくる繊細な人物である。スラエータオナは十年来の付き合いである男をそう認識していた。
何度目かの問答の末にスラエータオナが疑いようのない健康体であるのは理解したようだが、それでも尚心配そうにするのは変わりない。
スラエータオナもスラエータオナで人一倍自責の強い性格であるので、連絡を入れなかったことへの謝罪と自分が全く健康であることを交互に何度も主張している。そうしている内に風が出てきたので、体を冷やすまいと問答は止めてそそくさと病院に入ったが、まだ院長は
「本当に大丈夫なのか? 減るものでもなし、一度精密検査をしといた方が良いんじゃないか?」
と過保護に心配してくるので、スラエータオナは毅然として念を押す。
「いえ、本当に大丈夫ですので安心してください。もし不安があれば真っ先に相談しますよ、少なくとも俺は」
「うむむ……まぁ他でもないお前さんがそこまで言うなら……。それとドゥルジにも定期健診くらいは受けるよう言っといてくれんか? あの子はどうも猫のように捕まらんくてな……」
日頃の態度の賜物か極度の心配性と呼べる院長先生も流石に矛を下ろす、と同時にスラエータオナが含んだ親友への毒も敏感に察知して軽妙に返した。こればかりはドゥルジという男の面倒臭さと気紛れさに長年連れ合ってきた来た人間にしか分からない領分で、それほどまでに彼は干渉される事をするすると避けて通る。
「ドゥルジの件は分かりました、検診は説得できないと思いますけど顔くらいは見せるよう言っておきます。それでは失礼します、お休みなさい」
「あぁいつもすまんな。お前さん位だよ、その年になっても素直に話を聞いてくれるのは」
会釈を最後に、スラエータオナは自室──とは名ばかりの割り当てられた個室病棟に戻った。まっさらに整えられた寝具は几帳面なスラエータオナには心地良いが、汚れと同時に生活感をも拭い去っている。一般的に想起される病室とは違い、部屋の片隅には勉強机とささやかな大きさの本棚が置いてあるため学生の自室である片鱗は見られるが、それ以外にこの黒髪の少年の個性を匂わせる者はここに存在していなかった。
さして夜更かしする趣味も理由もないスラエータオナは手早く就寝する手はずを整えて寝床に就く。理由の分からない体の異変にライラックへの意識の変化、横になったまま頭を整理しようとしたがそれも少しの間だけで、寝つきの良いスラエータオナの意識は次第に闇に落ちていく。自身の黒瞳の様な闇へと意識はどんどん沈んで虚ろになって、少しおかしな今日に抱えた違和感を優しく隠しながら、冬至前の夜は過ぎ去っていった。
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目覚めると、もう朝日が昇り始めていた。スラエータオナにしては遅い起床は、昨日の疲れが抜けきっていない証拠だ。いつものように味の薄い食事をとり、服を着替えて学校に向かう。
学校に向かうといっても校舎は病院から程近い所にあり、数分歩けば変わらない校門がスラエータオナを迎え入れてくれた。
スラエータオナがなるべく早く登校する事に、さしたる意味はない。何となく病院には居辛いから、何となく誰もいない学校が好きだから、何となくの積み重ねが、いつの間にかスラエータオナの日常になっていた。
昨日ドゥルジに揶揄われたことで少し自覚した事であるが、スラエータオナは何かにつけて疎い。客観的に見れば、齢十六にもなって異性の友人宅に通い詰めるというのは、スラエータオナがこれまで蓄積した知識からすると少し常識的でない。にも関わらずこれまで特に意識することもなく過ごしてこれたのは、自分の中にその引き出しが無かったからである。思えばそもそも、病院で暮らしているというのも一般の尺度からすると十分特異ではあるが、ごく自然に有るこの日常は他に置き換えて考え難い。
肘をつき、今日がその日常の終わりということも知らず漫然とそんな事を考えていると。
――不意に、視界の端で赤が立つ。スラエータオナが現実を捉えるより一歩早く、衝撃音と人々の悲鳴が耳朶を打って。
そして、空は太陽を失った。
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