04 【運命の日、偶然の子】
耳を劈き建物を揺らす爆音に、たちまちにして混乱の渦に飲み込まれる。唐突に世界を襲う無理解が、スラエータオナの胸中に否応の無い不安と判然としない絶望感を引きずり出す。
空は一瞬で夜の帳に閉ざされたかのように暗く黒くなり、天蓋に向けて昇る黒煙がかろうじて事の規模を伝えていた。
眦に焼き付けているはずなのに直視できない、というのがスラエータオナによる第一印象だった。目の前で起こっていることを、理解したくても飲み込めない。不意に頭部を殴られた時のような、まだ脳が痛みを理解できていないそんな期間がどれ程に及んだのかは本人にすら定かではないが、無理にでも思考を整理する中で浮かんだ友人の顔が、スラエータオナの思考に凍てつくような寒さと焦げるような灼熱を同時にもたらした。
窓の外では、赤く爆ぜた何かの余波が森に拡がり始めていて、音を立てるような勢いで燃え出す木々の最後の叫びだけが今のこの世を照らす光だ。しかし、スラエータオナの興味はそこには向いていなかった。
――あの方向は、ライラックの家がある方角だ。その事実だけが、スラエータオナの黒瞳を外の景色に釘付けにする。
暗闇の中必死で避難を呼びかける大人たちの誘導を聞きながら、スラエータオナは目敏く友人の顔を探す。時間も相俟って学校にいる人数は相当に少ないが、校舎の外に出るまでの間でスラエータオナが顔を確認できた人々は皆困惑と恐怖で顔を蒼くしている。きっと、他の人から見たスラエータオナも同じ表情をしていたであろう。
高く立ち昇る黒煙を背に、月も星もない真っ黒な空の下で人々が逃げ惑いながら異常の元凶から遠ざかろうと行軍する。
恐怖のあまり泣き出す者、他人に激しい罵倒を浴びせる者、その場で蹲って動かなくなる者など、反応は様々でその全てがこの異常を物語っている。
逃げる道中、列に加わる人の中から何度も知り合いの姿を探すが、そこに親しい人の影は無い。それだけが、スラエータオナの不安だ。
何とか火の手から遠ざかっても、決してそれで問題が解決するわけではない。人々が口々に不安や憶測を垂れ流し、情報の真偽に関わらずそれが波及していく。人生経験の浅いスラエータオナから見ても明白なほどに、それは危険な兆候だった。
当然、ただの山火事でここまで混乱が生じるわけもない。何かが爆ぜた事と空が一瞬にして夜に包まれた事、想定された災害を優に超える埒外からの一撃によって、閉鎖的でなだらかだった日々は反転して逃げ道のない恐怖の坩堝へと変貌した。隔絶された環境の中、スラエータオナが必死で友を探す手段を模索していると、
「皆様どうか落ち着いて下さい!!」
突然響いたのは聞きなれない音圧の聞きなれた胴間声。誰もが意識をそちらに取られ、一瞬ではあるが水を打ったようにしんとなる。声を張り上げたのは、スラエータオナもお世話になっている、この町の核である病院の院長だ。
「皆様、不安に駆られる気持ちはよく分かります!ですからこういう時こそ落ち着いて行動しましょう! 現在確認されている現象については目下対処中であり、火事についても消化班が向かっておりますので問題ありません! まずは顔を上げ、隣の人と視線を交わし、お互いの無事を確認してください! もし見当たらない知人の方が居ましたら、慌てずにこちらまで報告をお願いします! 大丈夫です、われわれが全霊を持って捜索し、必ずや安全な地域に誘導します!」
いつもの弱気で繊細な院長を知っているスラエータオナから見れば随分と柄ではない、ひな形を読み上げたような彼の叫び。しかし権力者の力強い言葉には思いの外、力があるようだ。人々はまた口々に言葉を交わしているが、それは決して恐怖のままの叫びだけではなく、少しずつではあるが他人を慮る行動も見られ始めている。
その様子を見たスラエータオナは知らず己も思考力を奪われていたことに気付き、人を掻き分けて院長の元へと向かう。
「い、院長先生!ドゥルジは!?」
次から次へと忙しく声をかけていた院長が、スラエータオナを見つけて顔を驚きと安堵に染める。その様子に構わず、スラエータオナは親しき人の安否を確認しにかかった。
「ドゥルジは……」
院長の細い言葉尻に、スラエータオナは揺さぶられるような不安感を覚える。
そして不幸とは重なるもの。更に追い討ちを掛けるように、ライラックの両親が取り乱した様子でこちらに駆けてきた。
「先生、うちの子が見当たらないんです! ……ああスラエータオナ無事でよかった! ライラックを見なかったか、学校に向かったっきりなんだ!」
「ライラックが居ない……?」
半ば放心状態で、スラエータオナはその言葉を反復する。
「落ち着いて下さい、お母様。登校したという事は森側から離れたのでしょう? ならば、貴女方が助かっている以上娘さんの生存の確率も高いでしょう。我々が捜索しますので、此処でお待ちになって下さい」
「院長先生! ドゥルジは一体何なんですか!? 答えてください院長先生!」
院長に詰め寄り、胸を掴むほどの勢いで先ほどの話を蒸し返すスラエータオナ。周りに居た看護師や他の医者が止めに入るが、その手が緩む気配は無い。
「スラエータオナ、君は少し落ち着きなさい。まだ確認が取れていないだけで、居ないとは誰も――」
「俺が、俺が探してきます!」
そんな決意を持って走り出そうとするスラエータオナの腕を、院長の分厚い手のひらが繋ぎとめる。
「スラエータオナ、気をしっかり持ちなさい! 君の今やるべき事はここで待つ事、生き伸びるために最善を尽くす事だ! 大人に任せてここで待っておきなさい!」
彼を引き止める院長の説得は至極真っ当なものだ。スラエータオナのような力のない若者が一人で向かったところで、変わるような現状ではないだろう。
――それでも。少年には、決して捨てられない決意がある。
「たとえ救えないと分かっていたとしても、救おうとしない理由にはなりません!」
そう言い切った彼の剣幕に気圧され、院長は掴んでいた手の力を緩めてしまう。
その好機をスラエータオナが見逃すはずもなく、すかさず手を振り切って駆け出した。
「あっ、おい! 待ちなさいスラエータオナ!」
呼び止める声を置き去りにし、人ごみを掻き分け、石畳を蹴り、迷いなく火の手の方向を目指す。夢中で走る彼の顔には悲愴なまでの決意の色が浮かび、眼前の暗闇がただでさえ黒い瞳に移り込んで、反射する炎だけが彼の命の輝きのようであった。
内心では救えると確信していなくても、それを諦める事は自身の死に相違ないとスラエータオナは知っていた。
だからこそ、少年は自らの存在を投げうって走り出す。その行いがどうしようもない偽善だと理解していても、今彼が救おうとしているものは、正に彼の人生そのものなのだから。
そして、スラエータオナは偶然と出会う。
──
────
──────
世界が終わろうとしている。
「……っ!」
足がもつれ、少年は受け身も取れず前のめりに倒れこんだ。既に疲労困憊だった肉体はあっさりと役目を放棄、投げ出された四肢はそれぞれが悲鳴を上げている。力を込め起き上がろうと試みるも体は思い通りに動かず、打ち上げられた魚のようにのたうち地を叩くだけだった。
――こんなものが、こんなものが世界に起こって良いものか。祈るような表情で顔を上げ、目の前の風景をその瞳に映す。
一言で言うなら地獄だ。
全てを燃やす終わりの炎が猛りを挙げ、脂の燃えるような不快な臭いが鼻をつく。渦巻く煙は容赦無く気管支を蹂躙し、むせ返る彼の肺からなけなしの酸素を奪い去った。
少年は短い人生を回顧し、己の未熟さと拭い切れない後悔に胸を潰されそうになりながらも、滲み出す弱気を押し殺し眼前の景色を睨みつけた。
指先が痺れている。息を吸っているのか吐いているのか、そもそも呼吸ができているのかさえ分からない。心臓は破裂しそうなほどに痛み、先ほど強打した顔面からは鼻血が滴り落ちる。それでも砂利ごと歯を食いしばり、肺が燻される事も厭わず大きく息を吸って爪先に力を込めた。
不意に風が吹き、眼前を厚く覆っていた煙が散った。千載一遇の好機、鈍痛のする足を痛めつけながらも歩を進め、何度張り上げたかも分からない嗄れた喉で名前を呼ぶ。
しかし。火の手を避けて林道を直角に逸れたところで今度こそ小さな希望は潰えた。
現れたのはトカゲだ。
人の背丈ほどもある体には黒く光沢のある鱗がびっしりと生えており、人の腕より一回りほど太い尾が地面を不機嫌そうに這っている。細かい牙が生え揃った口元からはチロチロと長い舌が覗いており、縞瑪瑙のような眼球がこちらを一瞥している。
希望という物は時により深い絶望を連れてやって来るそうで、そういった意味で少年は格言の体現者だった。進めば怪物、退けば火の海。10秒先の生存すら危うい状況だ。
しかし彼は考える事を止めない。走馬灯が過る様に思考を巡らせ、覆水を盆に返す一撃を望む。
無論、そんなものは無い。哀れな少年に突き付けられたのは己の無力さ、それだけだった。
それでも彼は諦めない。諦められない。
強迫観念に押し動かされ、脳みそをかきむしる様に思考し続ける。
――どこからか、声が聴こえた気がした。ともすれば、朦朧として聴こえた幻聴だったのかも知れない。
この声は都合のいい夢だ。
そう思いながらも、彼は縋るような手つきで虚空に手を伸ばす。
――助けてくれ。何だって良い、誰だって良い。ここから救い出してくれ。
金なら一生働いてでも払う。もう二度と悪い事はしない。それ以外だって差し出せる物は全部差し出す。
だから、だからどうか――――――
「その願い、おれが聞き受けた」
くぐもった声と共に、目の前の視界が歪む。いや、歪んでいるのは眼前の化け物だ。
尾を失い、どす黒い噴水をあげながら振り向くそれを、声の人物は返す刀でいとも容易く斬りはらう。
──ひたすらに紅い、炎のような人だった。被ったフードと口元に巻かれた布で顔全体を覗く事はできないが、凛々しい紅玉の瞳と髪からは美しさと強さを感じる。
「おい、あんた大丈夫か? こんな所に居残るとか、もしかして邪魔しちまったか?」
その人物は剣に付着した血を払いつつ状況にそぐわない暢気な声をかけてくるが、スラエータオナの脳内はそれどころではない。現状に対しての疑問は尽きず、そしてその全てが瑣末な情報として脳内から滑り落ちる。
──探さなければ。
その強い気持ちだけを錨にして意識を保ち、彼は喉から声を絞り出す。
「ひ、人が……人がまだ、い、いるんです」
煙に燻された喉からは掠れた声しか出なかったが、どうやら青年は聞き取ってくれたようだ。
「人?ああ、それなら心配するな。 おれはあっちから来たけど誰も見かけなかったし、多分避難したんじゃねぇかな」
燃え盛る森の方を指差しながら放たれるのは、つい先ほどまで怪物を相手取っていたとは思えない楽観的な発言。あるいはそれを踏まえての確信的な意見だったのかもしれないが、何にせよ、彼の限界まで張り詰めていた精神はその一言で一気に弛緩する。
途端、訪れるのは圧倒的な眠気だ。闇に引きずられるような感覚を味わいながら、スラエータオナは友人たちの無事だけを喜び続ける。近づいてくる足音と、それより早く忍び寄る意識の混濁。
全てが溶け合うような感覚の中、自分が抱えあげられた事に気付くが先か、残っていた僅かな意識すら手放したのだった。
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