02 【夜が来る】

 

「おはよう、優等生くん」


 と。

 聞こえてきた耳馴染みのある声に自分の現状を把握する。見慣れない天井と覚えのない柔らかな後頭部の感触に眉をひそめ、記憶を辿るが、どうも前後の記憶が判然としない。


「こんな時間から熟睡なんて、よっぽど疲れる事でもあったのかな?」


 そう言って、側で佇む男は口の端を軽く歪める。

 基本的に笑顔の絶えない男だ。少し長い藍色の髪を指で弄び、整った甘い顔を苦笑に歪めて、銀の瞳でこちらを見下ろしている。いかな場面でもこの態度と言うと何とも不謹慎で軽薄な人間に聞こえるが、それこそが彼である。


「起こしてくれてありがとう、それでここは何処なんだ? ドゥルジ」


 だからこそ、少年は朗らかに笑って目にかかった黒髪を払いのけた。彼が神妙にする事こそ、最も憂うべき事態だろう。

 笑う事でかすかに細まったその目には、友人への確かな信頼の色が見て取れるが、ドゥルジと呼ばれた男が更なる軽口を重ねる事は無かった。


「今は放課後、下校時間、ここは保健室。分かる?」


「うん?」


「だからキミ、五時間目も六時間目も爆睡してたんだよ」


 淡々と告げられる事実に、少年の頰がつり上がったまま強張る。


「いやぁ、机で突っ伏してたキミを揺すっても叩いても、てんでダメなもんだからさ。『優等生』のスラエータオナくんに何かあったのかって、保健室に運び込まれたんだよ。病院に連れて行こうって話も出たんだけど、病院暮らしのキミにはブラックジョークが過ぎるよね」


 敢えて強調するドゥルジの口調に顔をしかめた、スラエータオナと呼ばれた少年は、上半身だけ起き上がった姿勢でばつが悪そうに黒髪を掻いた。



 スラエータオナは、長くも短くもない黒髪の、涼やかな顔をした十六歳の少年だ。瞳は髪とお揃いの真っ黒で、ともすれば吸い込まれてしまいそうな深さを持っている。顔の部分部分はどこか理知的な印象を与えるが、穏和な態度やコロコロと変わる表情が冷たさを感じさせない。



 もっとも、その豊かな表情は絶賛マイナス方向に振れているのだが。


「そこまで眠かった覚えはないんだけどな、夢を見てた気もするけど忘れちゃったし」


 これ以上痛いところを突かれないように話を逸らした少年は、尚もって眠たげな黒瞳を擦って大きく伸びをした。本当に覚えがない以上は弁解のしようも無いのだが、自責感情の強いスラエータオナにとっては単なるバツの悪ささえ罪の意識と成りえる。


「過労か寝不足って話だけど──そうそう、担任から伝言預かってるよ。『何かしんどい事があるなら躊躇わずに相談しろ、先生はそのためにいる。帰りに一度寄ってきなさい』だってさ、やっぱ優等生は愛されてるねー」


 そんなスラエータオナの胸中を先読みしたのか、口端を歪めつつドゥルジは皮肉を口にする。彼の軽口には慣れたものであるものの、抗議の意を示すためにスラエータオナは敢えてむくれた顔をして銀の瞳を見つめ返した。


「アハハ、ボクが悪かったからそんな顔しないでよ。それともう一つ言伝、ライラックちゃんが『今日もうちにご飯食べに来ていいよ』だってさ。ホント仲良いよね~」


 帰宅準備に取り掛かり、肩越しに鞄を持ったドゥルジが振り向きざまに言い放った。最後の一言にまた揶揄うようなニュアンスが含まれていたので、スラエータオナは半ば呆れつつも丁寧に訂正の文言を挟む。


「わかって言ってると思うけど、俺とライラックはそんなんじゃないからな! お前が断りまくるから俺だけ呼ばれてるみたいに見えてるだけだから!」


「分かってるって、カワイイなぁ。じゃ、ボクは今日も忙しいから。平気な感じにしてたけどホントはキミの事心配だろうし、ちゃんと顔見せてあげなよ~」


 語気が強まった否定を照れ隠しと捉えたのか、ドゥルジは最後まで茶化した口調で去っていく。藍の髪を持った青年の背が完全に見えなくなるまで見送った後、起き抜けに彼と会話をする事に徒労感を感じながら、少しでも先生からの心証を良くしようと足早に職員室へと向かった。


 ──

 ────

 ──────


 先生からの小言は当たり障りのないものだった。学生というぼんやりした輪郭をなぞるだけの様な、スラエータオナの内側に切り込まない優しさだった。



 決して優等生ではない。それが彼の自己評価であった。目上は敬う、規範規律は守る、間違いは正す。そんな当たり前の道徳倫理に準じた結果、皆がスラエータオナを「正しい人」「真面目な人」として扱い、彼の人間性如何に触れる者は減っていった。

 そんな彼にとってドゥルジとライラックは数少ない理解者であり、掛け替えのない友人でもあった。



 校舎を後にしたスラエータオナは、東へと歩を進めている。目指すのはライラックの家、もう一つの家族の所だ。

 この8年間、夕食はほとんど欠かさずライラック家にお世話になっていた。初めはただ人の温もりを求めてだったが、いつからだろうか段々と居心地が良くなり、今ではすっかり自分の家のようになってしまった。それがスラエータオナにはたまらなく嬉しい事であった。



 林を抜け村へ行く。季節が変わるのは早いもので、放課後からそれほど時間も経っていないのに暮れ泥む空はすっかり真冬の様相を呈している。足が地面を掴むたび、冷え込む空気と裏腹に滲む汗が夜風に晒され寒気を連れてきた。



 何年もの時をかけて幾度も通った道には新鮮味のある景色もなく、半ば微睡むような心地で進む。普段は考え事をして気を紛らわすのだが、寝起きだからだろうか、上手く思考が纏まる前にライラックの家まで辿り着いてしまった。



 寒風で意識を切り替え、慣れた手つきで勝手知ったる戸を叩くと、数秒の間のあと扉が開きライラックが顔を出した。


「お帰りスラエータオナ、良かったよちゃんと来てくれて」


「……ただいま、事情は後で説明するから」


 挨拶もそこそこに廊下を抜け居間へ向かうと、すぐに肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐってくる。部屋の中は適温に保たれているが、体が既に温まっていたスラエータオナには少々優しくない。


「そんなに急がなくても良かったのに」


 そう言って少女はスラエータオナの隣に腰掛ける。

 ライラック・シャリフィは、女性としてはやや短い藤色の髪をした、丸い目をした愛嬌のある少女だ。この町の子供で眼鏡を掛けているのは彼女くらいのものだが、父親も眼鏡であるので遺伝的に視力に問題があるのかもしれない。

 ドゥルジと並びスラエータオナにとって無二の親友と言える間柄だが、誠実にして闊達である彼女と人を食ったような態度のドゥルジは正反対と言っていい。



 スラエータオナが服の首元を掴んではためかせながら視線を動かすと、短針は六時前を指していた。闇の深さで勘違いしていたようだが、明日は冬至。夜の足音は疾く、その上で現実感を失うような出来事があったので時間感覚もおかしくなったのだろう。


「ドゥルジが教えてくれて……えぇと、何から話そうか」


 僅かな弁明の後、そうして無言でスラエータオナが逡巡しているのを、ライラックは無言で観察していた。彼女に限らずドゥルジもそうだが、スラエータオナの数少ない友人は彼を最大限尊重してくれる。



 ぽつぽつと、覚えている範囲をできる限り正確に伝えようとするスラエータオナを、ライラックは相好を崩すでもなく、さりとて眉根を寄せるでもなく静かに聞き入っていた。



 ──尤も、スラエータオナにライラックとの距離感を揶揄われた事だけは意図的に省いたが。



 話す内に段々と冴えてきた頭に、一際強い香辛料の匂いが鼻をついた。どうやら、今晩の夕食が食卓に並び始めたようで、スラエータオナとライラックは急いで手を洗い、食器を並べるのを手伝う。

 ライラックの父はとうに帰宅済みで、配膳が済み次第家族全員が机を囲んで食事が始まる。文献で読む他国と違い特に食前の儀式のようなものは存在しないが、一人間として食物に感謝を捧げる事は、シャリフィ家では恒例行事となっていた。



 今日の食事は一段と豪華だ。

 ハーブとスパイスで香りづけされた羊肉は、表面にはこんがりと焼き目が付きながらも、噛むと柔らかな食感と共に肉汁が溢れ出る。独特の臭みは香辛料によって消され、とても食べやすい。

 少し酸味のある煮物には芋と数種類の豆、それに残りの羊肉が入っており、体を芯から温めてくれる。味の濃い料理ばかりだが、付け合わせのサラダと紅茶が口内をさっぱりとさせるので飽きが来ない。



 スラエータオナは特にこの煮込み料理がお気に入りであった。ホレシュテと呼ばれる一般的な家庭料理なのだが、母の記憶がないスラエータオナにとってはお袋の味と呼べる料理であった。



 感想もそこそこに、黙々と料理を口に運んで時が過ぎていく。仕来たりというより慣習として、ライラック家では食事中に会話をする事がほとんどなかった。寡黙とも饒舌とも無縁な一般人だとスラエータオナは自認しているが、杯を片手に長々と談笑するほど瀟洒な性格でない事は確かだった。



 一方で、ライラックとはお互い聞き上手であるからか些細な話題でも話が繋がる事が多かった。夜毎、備忘録のようにその日を思い返しながら下らない話をしあうのが二人の日課であった。



 今夜も、食後の団欒をそこそこにライラックの部屋へと入りお互いに下らない話をして時間を潰すが、今日に限ってはスラエータオナの舌が鈍い。


「どうしたの、何か心配事?」


 ライラックは甲斐甲斐しくも心配そうに、その丸い目を向けてのぞき込んでくる。スラエータオナは目を逸らして話そうか話すまいか逡巡した後、わざとらしくさっぱりした口調で言った。


「ドゥルジに二人がお似合いだって揶揄われたからさ、確かに毎日家に通って部屋で話すのは距離感がだいぶ近いなって思って。でもさ、そんな風に茶化すくせに自分はここに来ようとしないんだよな……」



 スラエータオナの言葉端には若干の言い訳がましさが表れたが、凡そ伝えたいことは言葉になった。ライラックを異性として認識するほど恋愛脳ではないが、さりとてこの類の冷やかしに素面で応じれるほど成熟しきってはいない繊細な心持を理解してもらえたかは、彼女の胸裏にしか分からないが。


「ドゥルジくんは怖がりな所があるからね。色んな人と遊んでる印象があるけど、移り気なんじゃなくて仲を深めるのが怖いからそうしてるんじゃないかな」


 ところが、返ってきたのは予想に反して穿った見方の回答だった。ライラックがこの手の話で狼狽える性格だとは初めから思っていなかったが、あまりの呆気なさに気まずさばかりを懸念していたスラエータオナは清々しさすら覚えるほどだった。


「なんか深そうなこと言ってる……いや、だったら俺に引っ付いて来る理由が分かんないだろ。もしかして俺が気付いてないだけでめちゃめちゃ寂しがりなのか?」


「それは…あんまりドゥルジ君のいないところでこんな話するのは止めた方がいいかもね」


 吸い込まれそうな黒瞳を光らせながら、友人しか知りえない悪い笑顔をするスラエータオナを、ライラックが優しく窘めた。いつもドゥルジに揶揄われっぱなしの分は彼の弱みも握りたい所だが、ここは友人の顔を立てて素直に従う。



 ──話題が途切れる間隙のたった数秒が痛い。スラエータオナは沈黙をよしとする人間ではあったが、今日のは普段のそれとは些か質が異なる。


「……ごめんやっぱり気まずいわ、体調の件もあるし今日は早めに帰るよ。じゃあまた明日」


「うん、お休みスラエータオナ」


 短い挨拶だけを交わして、再び寒空の下につく。別れ際のライラックの表情に、普段と仄かに異なる色が浮かんでいたのを見過ごして。

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