第697話 昔の常識と今の非常識
大天使ミカエルが、ソロモン王に授けたとされる指輪。天使と悪魔を自由に呼び出し、我が手足として使役できるアイテムだ。この指輪を使いソロモン王は、神殿を完成させたと伝えられている。
「常時身に付けるものじゃないみたいよ、みや坊」
「オッケー香澄、革袋に入れて腰に下げておこう」
「ソロモンの王剣って
「鞘にベルトを付けて背負うつもりよ、麻子。わたし両利きだし」
二刀流キタコレと手を叩き笑う麻子と香澄に、現代の宮本武蔵ねと目を細める妙子さん。日本の剣術に於いて二刀流はひとつの流派、剣道の試合でも大学生から使用が認められている。むしろ宮本武蔵の影響を受けた、外国人選手の方が使い手は多いかもしれない。
話しを戻して、ここはアマテラス号の祭壇。
栄養科三人組と嫁たち、そして妙子とアグネスが囲炉裏テーブルを囲んでいた。祭壇では秀一チームが、宇宙儀とにらめっこしながらパネルを操作している。
「みやびさんが目覚めてから、隕石は放出されてないね、美櫻」
「ゲートを開いた形跡もないわ、秀一」
「これで一安心かな、彩花」
「でも今までゲートを使われた隕石がけっこうあるからね、豊っち」
クバウク菌が付着した隕石を観測するソナー衛星は、天の川銀河だけでなく人工サタン周辺にも配置されていた。隕石が放出されれば宇宙戦闘機で一カ所に集め、みやびがブラックホールにぽいしていたのだ。ただしゲートによる無作為転送の場合は座標が掴めず、宇宙の危機は未だ続いているわけだが。
「よし、エデン救出作戦を実行するわよみんな」
「本人は何て言ってるの? みや坊」
「制御の七割は奪ったから、遠慮なくぶっ壊しに来てだって、ファニー」
やっぱりみや坊だねと麻子が、そうだねと香澄が、ぶれないよねと頷き合う。エデンを人工サタンから連れ出して保護する、みやびなら絶対やると信じて疑わなかったのだ。あとはスライムちゃんと、治療薬の数が揃うのを待つだけよねと。
そんな二人が、囲炉裏で焼いていた手焼き煎餅をひっくり返す。余ったご飯を練って、好みの素材を混ぜ込みお煎餅にしているのだ。プレーン・アオサ・干しエビ・ゴマの四種類で、焼いた時に漂う香りがどれも素晴らしい。しかもハケでお醤油を塗りながらだから、醤油の焦げた香りもまたたまらん。
「ご飯が余った時はさ、お祖母ちゃんがよく作ってくれたんだ」
みやびが焼き上がったプレーンの煎餅に醤油を塗り、海苔を貼って再び焼き網に戻す。炙られた海苔の香りも、口中に唾液を分泌させてくれやがります。アリスがふよふよと、みんなに濃いめの緑茶を注いで回る。
「みや坊がお祖母ちゃんから受け継いで、私たちも覚えたんだよね、麻子」
「そうそう、お煎餅って焼きたては美味しいよね、香澄」
かつて一般家庭には、電気炊飯器も冷蔵庫も存在しなかった。普及率が九十パーセントを越えたのは、昭和四十五年以降であろう。水分を多く含むご飯は雑菌が繁殖しやすく、昔は夏場でなくても六時間以内に食べるのが周知のお約束であった。
ご飯が余ると山形出身のお祖母ちゃんは、みやびを呼んで一緒にお煎餅をよく作ったものだ。ちなみに『もち米』を使ったのがおかき、普通のご飯にする『うるち米』を使ったのがお煎餅。他にも上新粉に砂糖と味噌を加えて練った、揚げ菓子なんかもあったりする。
余った炊飯米を日持ちするお菓子に作り直す。
電気炊飯器も冷蔵庫も無い時代に台所を預り、家族の食を担ってきた女性たちの知恵である。お祖母ちゃんはそのレシピを、みやびにもちゃんと伝授していたのだ。今どき余ったご飯でお煎餅や、揚げ菓子にする家庭などそうそうないだろうが。
「セカンド蓮沼家にお邪魔して、新聞を読ませてもらったのだけど」
ゴマ煎餅をぱりりと頬張る妙子さんが眉を八の字にし、あの件ねと栄養科三人組がはにゃんと笑う。五日前に焼いたマフィンを常温環境下に置き、そのまま販売し食中毒を起こしたって記事だ。
「日本は温暖で、湿度が高めの国よ。水分の多い食べ物を常温放置したら、三日でカビが根付くわ」
憤慨して緑茶をすする妙子さん。
冷蔵庫が無かった大正生まれの彼女からすれば、あり得ない話しなんだそうな。仰る通りですと、再びはにゃんと笑う栄養科三人組の図。
本来は出ないはずの食品が糸を引く、それは納豆菌の仲間が増殖したってことだ。納豆菌が増殖するって事は、他の雑菌も元気に活性化する環境だったわけで。
良くも悪くも菌が繁殖するためには、水分・温度・浸透圧・ pH・酸素・食品中に含まれる栄養成分が関わってくる。
中でも重要な役割を果たすのは水分だが、塩類・糖類・蛋白とくっ付いた結合水を菌は利用できない。あくまでも単独の自由水が、繁殖する条件となる。
味噌醤油や昔ながらの梅干しは塩と結合しており、ハチミツや水飴は糖と結合している。菌が付着しても環境が悪くて増殖できず、だから常温での保存が可能となるのだ。和菓子でも洋菓子でも日持ちさせるなら、砂糖をどさっと入れて水分と結合させるのが常套手段と言える。自由水を多分に含む食品を常温で何日も放置するなど、妙子さんに言わせればお腹を壊して当たり前なんだそうで。
「大正から昭和にかけての常識が、今の時代は欠けてるような気がするわ。文明の利器に慣らされちゃって、麻痺してるのかしら」
「あはは、それはあるかもね、妙子さん」
大抵は加熱することで殺菌できるが、中には毒素を残す菌もいる。セレウス菌に至っては熱に耐性があり、例え人類が滅亡しても生き残りそうな菌だ。焼きたてお煎餅をぱりぱり頬張りつつ、衛生管理は徹底しようねと頷き合う栄養科三人組であった。
――そして夜のみやび亭、ジェネシス号支店。
「お待たせアーネストさま、がんもどきと里芋の白味噌仕立てよ」
「あら白味噌が良い香りね、妙子さま」
「うふふ、七味唐辛子はお好みで」
がんもどきは潰した豆腐とすり下ろした山芋を練り上げ、野菜やきのこに海藻なんかを混ぜ合わせ油で揚げたもの。精進料理が由来で、肉の食感を持たせた素材と言える。聖職者向けのお勧めも、キッチンスタッフは外しませんよっと。
先に注文していたミーアが無言でひょいぱく頬張り、生ビールを流し込んでぷはっと至福の表情。もちろん美味しいからで、聖職者でなくともみんなから注文が入る。
「あのう、どうしてここに?」
「まあ固いこと言うな、みやびよ。宇宙の意思からまだ、次の使命が降りて来ないのだ。長きに渡るお勤めを終えた今は、骨休めをしとけって事であろう」
しれっとジョッキを片手に、がんもどきを美味しそうに頬張るソロモン王。お通しはエビマヨをチョイスして、すっかり寛いじゃってる。
亜空間倉庫も黄金船も、みやびが介在しなければ余所者は入れない。今更なのでキッチンスタッフもカウンターの面々も、ソロモン王の来訪を全く気にしておらずいつも通り。いや皆の衆、ちょっとは気にしようよ。少なくとも大精霊と同等か、それ以上の存在でしょうに。
「たまには悪魔と天使も呼んでやるといい。指輪を手に入れた今、みやびはそれができる」
「甘いもんは豚顔で来るのかしら?」
「人間に変身できるからその心配はご無用。あやつ特大の粒子砲にやられ、凹んでおったぞ」
目尻に皺を寄せ、ジョッキを呷るソロモン王。三悪道と四悪趣の何たるかをみやびに知らしめるため、魔王たちとウコバクは夢で悪役を演じたと彼は言う。
「深淵の縁に立つ聖母とは、暗黒の中で唯一光り輝く存在のことだ。救いを渇望し迷える魂の、道標であり拠り所でもある。これだけのファミリーを揃えた今、みやびはまごうことなき大精霊だ。自らが望む銀河を、その手で構築するがよい」
ところでそれは何かねと、ソロモン王はカウンターから身を乗り出した。ブリを刺身状にして、ボウルに入れたみやびの手元に視線を落とす。
みやびが仕込んでいるのは、本日のお勧めりゅうきゅう。
大分県の代表的な郷土料理だが、何故この名が付いたかは不明。農水省のホームページによれば、大分の漁師が沖縄の漁師から教わったという説と、ごまあえにする料理を『利休あえ』と呼ぶことから派生したという説があるそうな。
なお高知県のりゅうきゅうはハスイモの茎を使った郷土料理で、大分県の魚料理とは別物なので注意されたし。
元々は漁師たちが、魚を保存するために作っていた浜料理。お刺身は魚種によって消費期限があるけれど、大抵は当日か翌日である。ここでもお醤油が活躍し、生魚を保存食にしているのだ。
青魚は他の魚と比べて足が早く、昔からりゅうきゅうによく使用されたらしい。もちろんマグロやカツオなどの赤身魚、タイやヒラメなどの白身魚でもおいしく出来上がる。お刺身が余る状況なら、これは絶対やるべし。
醤油:大さじ2。
日本酒:大さじ1。
本みりん:大さじ1。
おろししょうが:小さじ1。
これらを鍋に入れ一煮立ちさせてアルコールを飛ばし、冷ましてから白ごま小さじ1を加えてお刺身と和える。冷蔵庫で一時間ほど寝かせれば味が染みて尚良し、そのまま冷蔵庫に入れとけば五日は持ちまっせ。
ぽん酒や焼酎の肴として最適の料理だけど、熱々ごはんに乗せたりゅうきゅう丼も旨し。お茶漬けにする使い方もあり、これもまた別の意味で旨し。
お刺身がびしっと決まるダークブルーの角皿に大葉をあしらい、りゅうきゅうを盛り付け上から刻みネギをちらしてはいどーぞ。
「うんうん、これは旨い。しばらく通わせてもらうぞ、みやび」
「大丈夫なの? ソロモン王。イナンナ達は最近姿を見せないけど」
「人工サタンの攻略に関しては一切答えられんがな」
「エデンが制御を七割奪っても、まだ難易度は高いのね」
残り三割が四悪趣から抜け出せない、迷える魂だとソロモン王は言う。惑星規模だからその反発には覚悟せよと、彼はジョッキの生ビールを口に含んだ。
「これ以上の情報は出せないが、みやびは愛され多くの仲間を集めた。事は成就するであろう、心してかかるのだ」
そしてソロモン王は、カウンターをぐるりと見渡す。
秀一チームが香澄の手がけたローストビーフのわさび醤油ソースがけに、むふうと両足をぱたぱたさせている。ブラドとパラッツォは、妙子さん特製の山海漬けにご満悦。石黒と高田は麻子の手がけた、
思い思いの酒と肴で、みやび亭はゆったりとした時間が流れて行く。これは通い甲斐がありそうだと、ソロモン王はホッケの開きを注文するのであった。
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