第658話 両利きのみやび
食事をする時は人の姿でねと、妙子さんからお願いされているチェシャ。命令ではないのだが、顔は笑っていても目が笑っていない妙子さんはちょー怖い。そんなわけで猫聖獣は、ペンを握るのと同じく箸やカトラリーを手に持つ。
「にゃはは、香澄さまのコンビーフは美味しいですにゃあ」
「そう言ってくれると作り甲斐があるわ、チェシャ」
ここで言うカトラリーとは、食事に用いるナイフ・スプーン・フォークのこと。
洋食のコース料理だとメイン皿の両脇に、オードブル用・魚料理用・肉料理用の順に外側から、ナイフは右でフォークは左に並ぶのがお約束。
スープがカップではなくボウルで提供される場合は、ナイフの並びで一番外側にスープスプーンが置かれる。ちなみにデザート用のカトラリーは左右じゃなくて、メイン皿の上に配置する決まりだ。
「ねえねえ香澄殿」
「なんじゃね麻子殿」
「お客さんが左利きの人だったらどうするのかな」
香澄特性コンビーフは箸でも切れる柔らかさなんだけど、妙子さんが教育の一環としてカトラリーをチェシャに使わせているもよう。
右手にナイフ、左手にフォークを持ちあむあむと、目を細めながら頬張るチェシャは普通に右利き。そんな彼女を眺めながら麻子が、ふと思い付いたように香澄へ尋ねたのだ。
「お店としてはさ、麻子。事前に左利きの人がいると分かってて、席も決まってるなら左右逆のセッティングにしてあげた方が親切ね」
「やっぱそうだよね、世界人口のほぼ十パーセントは左利きって統計も出てるし」
話しを聞いていたみやびが、日本の場合もだいたい十一パーセントねと、手にした菜箸を四拍子に振った。しかし彼女はでもねと言いながら、その菜箸で煮物を小鉢に盛り付ける。
「アメリカやイタリアって、三割近くの人が両利きなんだって。無理に利き腕を変えさせるより、両利きにした方が教育に良いって考え方みたい」
本来なら左利きは全人口の三割近くいるはずで、右利きに矯正するから一割に減っているのだとみやびは笑う。
そこへ左利きには有名な芸術家や音楽家が多いですよと、みやびが置いた小鉢の筑前煮に箸を伸ばす岩井さん。ベートーベンとシューベルトにモーツァルト、ピカソにミケランジェロと、数え上げたら切りがありませんと話す。
「左右の手の動きが、それぞれ右脳と左脳に刺激を与えます。どちらを主に使うかで見える世界やものの考え方が違ってくる、これは医学で証明されつつあるんですよ。
左利きを無理に矯正するのは、子供が持ってる才能を潰す行為かもしれませんね。矯正ではなく両利き、理想的な教育ではないでしょうか」
「そっか、両利きにしちゃえば問題解決よね、麻子」
「楽器を覚えるのと一緒よね、香澄。両手を器用にしちゃえばいいんだわ」
そんな話題に、思わず吹き出しそうになるファフニール。隣に座るフレイアがどうかしたのと、怪訝そうな顔をしている。みやびが来るまでリンド族の食事は、普通に手づかみだったのだ。右利きも左利きもないわけで、ブラドもパラッツォも苦笑しながら箸を動かしている。
「そう言えばみや坊って、子供の頃は左利きだったのよね、矯正されたの?」
「うんにゃ、されてないよ香澄殿。ピアノ教室に通ったのが大きかったかな」
それは初耳と、みんなが任侠大精霊さまに注目しちゃう。
ちょっと貸してねと、香澄の洋包丁を左手に持つみやび。和包丁は片刃だから右利き用と左利き用があるけれど、洋包丁は両刃だから区別はない。
みやびは左手に洋包丁を持ったまま、キャベツの千切りを披露した。普段の右手で行う千切りと遜色はなく、キッチンスタッフがほええと目を丸くする。
「和包丁のラインナップは圧倒的に右手用が多くてさ、香澄。希に左手用があっても切れ味が悪かったり、手に馴染まなかったりで」
「それで右手も使えるようにしたんだ、みや坊」
「まあそういうこと、割烹かわせみにも左利き用の和包丁は置いてないでしょ。ピアノ教室のレッスンは、すっごい役に立ったわ」
そう言って左手に洋包丁を持ったまま、隣のまな板に移るみやび。下処理途中で置いていたカツオに、すいすいと刃を入れ動かし始める。
出刃包丁に比べると少々雑で華板が見たら雷を落とされそうだが、立派な三枚下ろしの出来上がり。尚カツオの土佐作りは、本日お勧めのひとつである。
「みや坊は両刀遣いなんだね、麻子」
「うん両刀遣いだね、香澄」
武士は大太刀と小太刀、大小二本の刀を腰に差す。小太刀は主に儀礼用だが、戦闘に両方を使う二刀流もある。これが両刀遣いという名詞の、本来持つ意味だ。麻子も香澄もみやびが、二刀流で戦えるって意味での発言だと思われる。
だが地球人メンバーのみんなが、そう受け止めるとは限らない。なぜならば両刀遣いには、甘いのも辛いのも好きって意味にも、相手の性別を問わず恋愛感情を抱くって意味にも使われるからだ。
どう捉えて良いのか困惑している真面目な自衛官に、
この人はいじり甲斐がありそうねと
「貴方も両利きなのですか」
「ゲイワーズでいいわよん、岩井さん。錬成はね、両手に込める意識のバランスも重要なの。だから自然と両利きになったのよ、んふ」
「その錬成とやら、興味がありますね」
「ピューリ、さっき覚えたの、見せて差し上げたらどうかしら」
「はいゲイ先生」
まだ何も始まってないと言うに香澄が、口を手で押さえながらキッチン奥へ引っ込んじゃったよ。どうやらゲイ先生がツボったらしく、ゲイワーズが絡むと彼女は腹筋が崩壊してしまうようだ。
ピューリが皮袋からさらさらと出したのは、ガラスの砂粒に見えるが実はダイヤモンド。そこに両手をかざし、風属性の魔方陣を展開する男の娘。
「砂粒の状態から、まさかひとつにまとめてしまうとは」
「これが術者の属性を問わない、錬成の初歩なのよん、岩井さん」
人工ダイヤモンドと違い、錬成で生み出されるのは天然と同じ。二カラットは直径が八ミリちょいで、ダイヤモンドとしては大きい部類に入る。四菱マテリアルの竹内社長に言わせると、百万円は下らないそうな。
「差し上げます、岩井さま」
「俺に? いいのかピューリちゃん」
記念にもらっときなさいよと、岩井さんの肩をぱしぱし叩くゲイワーズ。魔力を蓄えるのに必要なものだからと、みやびも麻子も微笑んで頷いた。
地球じゃ装飾品の天然ダイヤモンドだが、宇宙じゃ最高ランクの実用品。それを岩井と部下たちが理解するには、もうちょい時間がかかりそうだ。
それじゃ身に付けられるようネックレスにしてあげると、岩石を並べ始めるゲイワーズ。素材となる銀を取り出すつもりなんだろうが、それだと不純物が出て散らばっちゃう。カウンターが灰だらけになるでしょとフレイアが、目を吊り上げ教育的指導という名の音波攻撃を放つ。
「あら残念ねえ、私の錬成を岩井さんに見せたかったんだけど」
「いや、興味がある、ぜひ見学したいものだな」
「なら私の工房にいらして岩井さん、ピューリも来なさい」
「はいゲイ先生」
終ったら戻るからと暖簾の外へ出て行く、岩井さんと
見送った妙子さんが岩井一等海尉の家族構成はと、突然みやびに尋ねてきた。いやいやまさかと誰もが思ったけれど、可能性はゼロじゃなくてよと彼女は真顔だ。岩井さんにダイヤモンドを手渡すピューリの瞳は、ほんのり熱を帯びていたんだとか。
「バツイチで息子さんが大学生だって、妙子さん」
艦隊幹部だから派遣された隊員の経歴書には、全て目を通している栄養科三人組。今上陛下の宇宙船を預る自衛官ゆえ、身上調査の報告書も含まれている。この場にいるのが仲間とは言え、みやびが話せるのはここまで。
竜族の婚姻はお相手の性別を問わないと、豊が既に教えている。岩井さんは分かった上で、ゲイワーズの工房へ行ったわけだ。錬成への純粋な興味からだろうが、問題はピューリが男の娘ってこと。
目が離せなくなりましたねと、アルネ組にカエラ組がやけに嬉しそう。最近アマテラス相談所が暇になって、船内の情報に飢えているとも言う。全くもう、この子達ときたら。
「チェシャがコンビーフ食べてるのだー! 私も欲しいのだー! って香澄どこ?」
「あはは、すぐ戻るわメアド、はいコンビーフ」
「みやびありがとなのだー!」
お座敷二番テーブルへ戻ると思いきや、スフィンクスはカウンターにちょんと乗って皿を置いた。そこはチェシャの脇で、猫聖獣に何やら用があるもよう。
「じー」
「むむむ、
「どうやったら人の姿になれるのだ? チェシャ」
おやおや、いつものだーに勢いがない。どうしたことかと顔を見合わせる、みやびと麻子にファフニールとフレイア。それは秀一たちも同じで、心配そうな顔で成り行きを見守っている。
「気が付いたら人の姿を採れる体に、なっていたのでございますにゃ。メアドにレクチャーできるものは、持ち合わせておりませんですにゃあ」
「むう、私も変身できるようになりたいのだ」
主人であるメライヤはお座敷二番テーブルで、ホムラとポリタニアにのろけ話をしていた。新婚さんの話しにきゅんきゅんして、乙女の果実が豊作、乙女のウロコも大漁ときたもんだ。アリスがお盆に手にふよふよと、片っ端から絶賛回収中。
「人の姿を採りたい理由、聞いてもよろしいですかにゃ?」
「お近付きになりたい人がいるのだ、チェシャ」
それってもしかして恋バナかしらと、カウンターもキッチンも騒然となる。スフィンクスに春が来ました目が離せませんねと、即座に食い付くアルネ組とカエラ組であった。
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