第625話 番外編 夢のみやび亭

 リンド物語の作者である加藤汐朗せきろうは、救急車の中にいた。

 昨夜から腹部に漫然とした痛みがあり、食欲はなく吐き気を催す始末で実際に何度も嘔吐していた。そのうち治るだろうと高をくくっていたら、昼には歩行が困難になるほどの痛みに襲われ今に至る。


 だが救急車へ自力歩行で乗り込んだものの、救急搬送用に改造されたハイエースはまだ走り出してくれない。受け入れてくれる病院が見つからないと出発できないわけで、救急隊員がいま連絡を取り合っている病院で六件目。

 病床が満室とか医師が手術中とか、病院側にも色々と事情があるもよう。真夏の炎天下で搬送先が中々決まらず、これぞ世に言うたらい回しの状態と言える。


「加藤さんやっと決まりました、市内でここから五分の距離です」


 汗だくの救急隊員に申し訳ないなと感じつつ、よろしくお願いしますと返す汐朗。ようやく救急車は動き出し、サイレンを鳴らしながら本当に五分で到着した。

 腹痛に苦しみながらも信号機をパスできるってこういう事ねと、しょうもない事を考える汐朗である。何か別の事を考えてないと、意識が痛むお腹に向いちゃうから仕方なし。


「はい虫垂炎ね、しばらくは点滴生活になるよ」


 CTスキャンと血液検査から、診察に当たった救急外来の医師が思いっきし爽やかな笑顔で入院を告げた。虫垂とは小腸から大腸に切り替わる部分にある臓器で、俗に言う盲腸のこと。何のためにあるのか未だ解明されておらず、善玉と捉える意見もあれば悪玉と捉える意見もある。

 いずれにしても炎症を起こした場合、症状の重さで切除するか薬で抑えるかの治療法が採られる。汐朗の場合は手術せず、薬で炎症を抑制する方法にしたもよう。ゆえに医師は点滴生活と話したわけで、当面は飲食禁止となり点滴がご飯になるわけだ。


 最初の三日間、汐朗の体は虫垂炎と闘うため、体温が三十八度まで上昇していた。ここまで熱が出たのは小学生のインフルエンザ以来かもと、汐朗は子供の頃を思い起こし苦笑する。

 看護師さんから氷嚢要りますかと、何度か尋ねられた。ここまで熱が出ると、自分でも寒いのか暑いのかよく分からない。室温は二十三度で固定されてるらしく涼しいはずだが、今の汐朗にはその実感がまるで湧かなかった。


 四日目の夜、痛みが収ってきた汐朗は夢を見た。いや、これが夢なのかどうかも分からないまま、彼は真っ暗闇の空間にいたのだ。

 だがぽつんと明かりの灯る場所があり、何だろうと近付いていけば見慣れたものが目に映った。それはみやび亭の暖簾でご紋はチェシャの肉球、自分が作中で生み出したものである。


 暖簾をくぐる前に本日のお勧めはと、立て看板をチェック。

 サーロインステーキセット、牛丼、豚丼、カツ丼、麻婆丼、うな丼、もつ煮丼、焼き肉丼。いやいやみやび亭ってそういうお店じゃないだろうと、思わず突っ込みを入れてしまう汐朗。だがそこで彼ははたと気付くのだ、飲食禁止の治療中であり、並んでいるのは自分がいま食べたいと思っているラインナップであることに。


「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」


 アリスがカウンター席の椅子を引き、汐朗は促されるまま腰を落ち着けた。キッチンの中で腕を振るっているのはみやびと麻子に香澄、リンド物語を牽引してきたメインの三人である。


「お通しは筑前煮とエビマヨに豆とひじきの煮物、好きなの選んで」

「それじゃ、エビマヨで」


 みやびに問われ、三種類からひとつ選ぶのは一緒なんだなと眉尻を下げる汐朗。飲み物は取りあえず生ビールでとお願いし、アリスからもらったおしぼりで手を拭う。


「サーロインステーキセットでよろしく」

「はぁい、お待ちくださいね」


 みやびが一ポンドはありそうな肉を焼き網の上にでんと乗せた。グラムに換算するとだいたい四百五十グラムで、これは食べごたえがありそうだと汐朗の頬が緩む。ただし手を動かしているのはみやびだけじゃない、麻子も香澄も何やら始めているではないか。


「セットの内容を聞いてもいいかい? みやび」

「あら、立て看板に書いてあったんだけど。五百グラムの爆弾ハンバーグと特大エビ天が三本付いて来るの、ライスはお代わり自由ね。ステーキとハンバーグのソースは和風きのことガーリックにデミグラス、おろしそもあるわよ」


 そう言えば立て看板に小さく、セット内容の添え書きがあったなと思い出す汐朗。みやび亭が大食いチャレンジの店になっているこの状況、開いた口が塞がらないのである。だが悪くはない、どうせ夢の中だしとことん食ってやれと、彼は開き直ることにした。


「本当は旧ボルド国と悪の枢機卿をやっつけた時点で、長編小説が完結するはずだったのよね、麻子」

「そうだね、でも惑星イオナを統一して、地球込みで宇宙に飛び出して、もはや大河小説になってるわね、香澄」

「ぎくっ!」


 麻子と香澄のやり取りに、顔が引きつってしまう作者の汐朗。ちなみにステーキはおろしそ、ハンバーグはデミグラスにしたもよう。特大エビ天にはみやび特製の天つゆが用意されている。

 無意識というか何と言うか、この三人と妙子、そしてヨハン君が、作中で勝手に動き出したと言った方が正しいのかも知れない。そして主要登場人物が作者の思惑を無視して動き出した結果、物語の裾野がここまで広がった訳で。


「読者を心配させちゃダメよ、汐朗さん。地球をどうするか、アンドロメダをどうするか、風呂敷を広げた以上、落とし前は付けないとね」

「自分の生み出したキャラからダメ出しもらうとは思わなかったな、みやび」

「でも登場人物に性格を与えたのは汐朗さんよ。私たち、もうちょっとはっちゃけるからね」


 さいですかと、苦笑交じりで味噌汁をすする作者の汐朗。こりゃ病院のベッドで寝てる場合じゃないなと、再認識した次第である。

 物語を紡いでいくと、キャラが勝手に動き出すという嬉しい誤算がある。ストーリー展開を栄養科三人組に牛耳られたのは、数えだしたらキリがないほど。エピソード単位で書き出したプロットの変更を余儀なくされるが、それがまた不思議と楽しいのである。


 ――翌朝。


「加藤さんお熱計りますね、あと血圧も。何だか……スッキリした顔してるような」

「ちょっとね、楽しい夢を見たもんですから」


 それは良かったじゃないと、体温計を確認する看護師さん。熱が六度五分まで下がっており、お腹の痛みや気持ち悪さはあるかしらと尋ねられた。


「いえ、もう何ともないです」

「なら点滴の本数を減らして、お粥が食べられないか先生に聞いてみるわね」

「宜しくお願いします」


 この日から汐朗は消灯時間になると、夢の中でみやび亭へ通うようになった。自らが生み出したキャラクターとの他愛もないお喋りが妙に心地よく、何よりも出て来る料理が美味しい。


「汐朗さん、明日退院なんだ」

「退院と言うか、追い出される形かな、みやび」


 そりゃまたどうしてと、目を丸くする栄養科三人組とアリス。

 お粥から普通の食事へと切り替わり、足りないからとご飯大盛りを要求した汐朗。病院では三食合わせて千八百キロカロリー前後の内容だから、汐朗としてはまるで足りなかったのだ。

 ここまで来るともはや点滴は不要で、本当に食っちゃ寝の生活となる。医師も看護師も呆れてしまい、退院を通告された次第。日本昔話し的なご飯の盛りでがっぽがっぽと頬張れば、そりゃ入院してる必要ないなと判断されるのも無理はない。


「それだけ美味しかったってこと?」

「お米は良いやつ使ってたな。お粥から普通のご飯に切り替わった時、すぐに分かったよ、みやび」


 おかずはどうだったのと、麻子と香澄がカウンター越しに身を乗り出した。

 管理栄養士の資格を取り、将来は病院食や学校給食も手がけるつもりの栄養科三人組である。病院食が意外と美味しかったなんて汐朗が言えば、当然ながら食い付いて来る訳で。


「お醤油を使ってたのは煮魚や煮鶏くらいかな、ともかく薄味なんだ、みやび。でも塩っ気が無いだけでさ、味はしっかり付いてたんだよ。何て言ったらよいのか、京料理って薄味だろ、そんな感じ」


 そりゃ病院食だから豪勢なおかずではないけれど、大盛りご飯をぺろっと平らげさせる味付けの工夫はしてあったのだ。これは汐朗が入院した病院の管理栄養士さん、できる人だねと頷き合う栄養科三人組である。


「ところで退院しても、俺はここに来ていいのかな」


 カツ丼の二杯目をもりもり頬張る汐朗に、栄養科三人組とアリスは目を細めた。ここは貴方が生み出した夢の世界、いつでも来ていいのよと口を揃えて頷く。

 はて、みやび達が汐朗を呼び出したのだろうか。はたまた、汐朗がみやび達を呼び出したのだろうか。それは分からないけれど、心の中にいつもみやび亭がある。その安心感が汐朗を、得も言われぬ幸せな気分にしてくれた。


 カツ丼にはグリーンピースを散らすお店もあるけれど、三つ葉を散らすのがみやび流。これは汐朗の好みであり、彼の好みは栄養科三人組の作る料理にしっかり反映されていた。

 退院したらまずは冷蔵庫の中にある、傷んだ食材の処分だなと汐朗は三杯目のカツ丼をオーダーする。二週間も放置してたら葉野菜は全滅、卵は火を通せばいけるかなと、タクアンを頬張るのであった。

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