第583話 マスクメロンと一念三千
天界よりも高い位置にある心は、四聖と呼ばれている。
地獄界から天界までの六道は、縁に触れコロコロと変わるもの。幸せを感じる環境を失えば地獄界や餓鬼界、畜生界へと簡単に転落する。普遍妥当性のある幸福とは言えず、これを六道輪廻と呼び、人は六道の中で生死生死を繰り返してしまう。
師の言葉を聞き、書物を漁り、能動的に知識を得ようとする心。学者には変わり者が多いと言われているけれど、変わり者ではなく変わらないのだ。知識を得る探究心こそが幸福であり、悪い縁に触れて三悪道に落ちることはない。
終ることのない技能の探求、いわゆる職人を指す。
ここまでが四聖の中で、二乗と呼ばれている心の状態。もっとも頑固者が多くなる傾向にあるが、好ましい頑固者とも言える。
飯塚は作物栽培をする間、心は縁覚界にある。精霊天秤が創造に傾き、自然の摂理を無意識のうちに肌で感じている。
五教科が全てではない。
芸術家もミュージシャンも、小説家もスポーツ選手も、漫画家やアニメ制作のクリエーターも、料理人や大工に陶芸家だって、技能の向上を目指そうと没頭する間は縁覚界にいる。
雅会の門を叩いた元ヤ○ザに、みやびは農業をさせようと思い付いた。例え学が無かろうと、縁覚界に入る近道だからだ。
ただし声聞と縁覚には欠点があって、欠点があるからこそ二乗として区別される。それは学問の探究心、技能の探究心が、自分の方を向いているから。
自分が自分がではなく、自分とみんなが。得た知識や技能、そして財産を他者のために使う。どんな悪人であろうとも、我が妻子を慈愛する心があればそれは菩薩心の現れ。その心が全ての人に向けられたなら、法を守護する聖人か、武力を持って国を守り統治する名君となる。
栄養科三人組と妙子は、お料理を世に広めようとした。その心に他意は無く、全ての人にお料理を楽しんで欲しいという願いが込められている。財産や人材は、後から自然と付いて来たのだ。
祖母と母の菩提寺であるお寺の御僧侶に、みやびはしつこく聞いた。人は死んだらどうなるか、天国はあるのか、母や祖母にもう一度会う事はできないのかと。
そんなみやびに御僧侶は、真摯に向き合ってくれた。縁があるから家族になったのだと。縁を結んだ他者の情報も魂に刻まれるから、転生した現世で近しい者と巡り会う。佐伯も黒田も工藤も、そして源三郎も、偶然ではなく前世で縁を結んだから近くにいるのだよと。
死とは忌み嫌うものではなく、転生したらどんな間柄になるのだろうと、楽しみにしながら臨終を迎えるもの。
前世の記憶はなくても、家族はもちろん幼馴染みになったり、学校で気心の知れた友人が出来れば、それは偶然じゃなく前世で縁を結んだ人たちだと分かる。御僧侶は幼いみやびに、そう教えてくれた。
そして現世は新たな縁を結ぶ場であり、魂を磨く場所でもある。正三と徹が息子や孫になったらどうしよう、佐伯に黒田と工藤がクラスメートになったらどうしよう。
京子さんが担任の先生なんてのも、充分にあり得る話し。でもそう考えると面白いなと、みやびは幼心に思ったのだ。
その生死観と生命観、そして任侠魂が、今のみやびを形成している。話しが通じない外道は徹底的に叩き潰すが、通じ合えるならば慈悲の心を持って手を差し伸べる。
総長であり姐さんであり、党首でありグループ企業の総帥であり、歌って踊れる料理人。天の川銀河を統括するイン・アンナが発掘した無属性の愛し子、それが大精霊候補となった蓮沼みやびなのだ。
「んふう、甘くて美味しい」
「しっ、声が大きいですよジェシカさん」
「ちょっとお二人さん、私たちの分は無いのかしら」
「げっ、メライヤさんいつの間に」
「メアドも食べたいなー食べたいなー、飯塚」
「いや食べ頃はこれしかなくて」
「そっちに同じくらい育ってるのがあるじゃない」
「いやこれは姐さん……もといお嬢さんに報告するためのものなんですよ、メライヤさん」
メライヤとメアドにずずいと迫られる飯塚。そんな光景をジェシカはクツクツと笑いながら、半分に割ったメロンにスプーンを入れて頬張る。
結果として生育が遅れていると、嘘の報告をする羽目になる飯塚組員。栄養科三人組が宇宙で水耕栽培したマスクメロンを味見するのは、もうちょっと先の話しになりそうだ。
もっともバレたとして、みやびはきっと怒らないだろう。相手は他の惑星のお客さん、『
細かい事に心を奪われ本質を見失い、目くじらを立てる狭い了見は六道、特に三悪道へ闇落ちした者の特徴。
今の栄養科三人組と妙子は、心は菩薩界にあり、瞳に映る意思は全ての人をお料理で導くこと。食欲は生き物が持つ自然欲で、彼女らとその仲間たちを闇落ちさせるのはまず無理。
これが十界であり、それぞれの界が十界を併せ持つ。
仏や菩薩だって思い悩むことはある。例え悪人でも踏み潰せる小さな虫を、無用な殺生は止めようなんて心を覗かせたりもする。それが各界に、十界を併せ持つということ。
十界はそれぞれに十界を備え、そこに心の働きと行動である十如是が乗算され、衆生、国土、五陰の三世間に渡り乗算される。
10x10x10x3=3000、それが大乗仏教に於ける一念三千。例え小さな虫であろうとも心があるならば、その一念に三千種類の世界を有す。これを宇宙の法則とするのが、一念三千と言える。
この世に生を受けた人間ひとりひとりが、小宇宙と言っても差し支えない。人間を主と認め、なつく動物は畜生から外れ、やはり小宇宙となる。言葉が通じなくても、心を通わせようとするからだ。その想いが強ければ強いほど、チェシャのように自然発生する聖獣となるのかもしれない。
――そしてここは蓮沼家の母屋。
「へくちっ」
「病気には無縁のリッタースオンがくしゃみ? みや坊」
「これは誰か噂してるのかな、ファニー」
縁側に並んで座りお茶をすする、みやびとファフニール。どうして噂でくしゃみが出るのとファフニールは訝しい顔をし、日本の古い因習よとみやびが右手をひらひらさせた。
もちろんくしゃみと噂話に、因果関係などありゃしない。無意識のうちに出るもので、昔の日本人は何かにこじつけたのだろう。一回は良い噂、二回は悪い噂、なんつって。
みやびは漢と書かれたマイ湯呑みを、ファフニールは魚漢字が並ぶマイ湯呑みを手に、面白い因習だよねと笑い合う。
その後ろに控えているアリスのマイ湯呑みは、因果応報と書かれていたりして。簡単に言えば原因を作ったからこそ結果が生まれるの意。良い事も悪いこともだが、多くは悪い結果を意味している。この聖獣さんも東京で、いったい何を買い求めているのやら。
そこへマーガレットがスクーターにダンボールを乗せ、パラタタタとやってきた。何かあったのか、眉を八の字にしている。
「どうかしたの? マーガレット」
「それがラングリーフィン、守衛所の近くにこれが放置されてまして」
金属探知と魔力探知はしたのでしょうとファフニールは尋ねたが、マーガレットの様子を見るに、どうやらそういう問題ではないらしい。
どれどれとダンボールを覗き込んだ、みやびの瞳に映ったのは真っ黒な子犬が三匹で、身を寄せ合い
「もしかしてクロヒョウじゃないかな、みや坊」
「つまりワンコじゃなくてニャンコの仲間? 麻子」
香澄がスマホを操作して、クロヒョウの赤ちゃんを検索したら画像が出て来た。そしたら生後三ヶ月くらいの幼体にそっくり、黒くてもヒョウ特有の斑が見えるのだ。
日本は二千二十年の六月より、動物愛護管理法で特定動物の飼育や保管が禁止されている。
だがヒョウが独り立ちできるのに、一年半から二年はかかる。引き取ってくれる動物園とかあるかしらと、三人とファフニールにマーガレットは顔を見合わせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます