第549話 おむすびとおにぎり
――ここは蓮沼家の母屋。
栄養科三人組が台所でわいきゃいと、お
この時期になると国会議員は外遊に励むものだが、内閣はG7を控えており早苗はそっちで忙しいらしい。今朝も打ち合わせがあると、朝食もそこそこに出かけていった。政治家も政権与党の閣僚となると、お休みできず大変である。
けれど他の政治家がどの国へ行くのか、それは注視する必要があると山下は話していた。あの議員はやっぱりR国へ行こうとするし、例の議員はC国へ行こうとするからねと。それは本当に国益のためなのか、利権のためなのか、見極める必要があるでしょと。
「お姉ちゃん、梅干しの種は取らなくてよいのですか?」
「それこそザ、梅干しのお結びなのよアリス」
野っ原で梅干しの種を飛ばすのがいいのよねと、麻子と香澄がうんうん頷く。分かりましたとアリスが、梅干しを入れてにぎにぎ。アルネ組は明太子、カエラ組はツナマヨを、レアムールは昆布の佃煮を、エアリスはおかかをにぎにぎ。
こうして見た目からは具材が分からない、お結びがどんどん量産されていく。種類を分けず出来上がった順に並べるから、中には希少なお宝もあったりして。
そう言えばイクラの醤油漬けがあったわねと麻子が、肉味噌もあったようなと香澄が、新設した業務用の冷蔵庫を開ける。このお二人さん、蓮沼家の食材をよく把握してらっしゃる。
「大学の講義もけっこう面白いわよね、麻子」
「お
お
栄養科三人組がたまたま受けた講義の講師さんは、実家がお寺なんだそうで。実はこんな説もあるんだよと、面白おかしく話してくれたのだ。
お結びは仕事先や旅行先での、お弁当というポジション。対して鬼切りは、お通夜で作られたんだそうな。
三角の一辺はご先祖さまのため、もう一辺は他界した親族のため、最後の一辺は葬儀を手伝ってくれる世話役への感謝。亡くなった人の額に付ける
「そう思うと握る行為にも心がこもるわよね、香澄」
「結ぶって言葉と行為そのものがさ、日本人が持つ霊的なものじゃないかな、麻子」
たかが握り飯、されど握り飯、昔の女性はどんな思いでご飯を結んだんだろう。麻子と香澄は遙か遠い、
働きに出る家族、戦場に出る家族、旅に出る家族、いろんな思いを込めて結んだんだろうなと。
「素手で握るのは不衛生って論調があるけど、みやびちゃんはどう思う?」
「半分当たりで、半分外れかな、京子さん」
鶏唐揚げのバクダンお結びを握る京子さんが、ほほうと目を丸くする。麻子も香澄も興味津々で、手を動かしながらもみやびの続きを待っている。
「お祖母ちゃんから聞いたんだけど、昔は炊きたてのご飯をさ、熱い熱いって言いながら結んでたそうよ。そして結ぶ手には必ず塩を取ってたって」
まだ高温の白米であるから雑菌が付着しても繁殖できず、それを塩でコーティングする。更に出来上がったお結びを包むのは、抗菌作用のある笹の葉だったと、お祖母ちゃんの話を披露するみやび。
「香澄、保温して温度が下がったご飯を、塩なしで素手で握ったら」
「入れる容器が熱湯消毒もしてなかったら、夏場だと怖いわよね、麻子」
炊飯ジャーなんて無かった時代、炊いた白米を短期保存食にする握り飯。それが昔の人の知恵だったわけねと、京子もうんうん頷いている。
「太宰治の小説、斜陽にこんな一節があるのよ。『おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ』ってね。
そりゃ熱いの我慢して握ったお結びだもの、真心がこもってるから美味しいんだよって、太宰は表現したかったんじゃないかしら」
そう言ってみやびは、出来上がったお結びをラップで包む。
現代人がこの小説を読めば不衛生と思うだろうが、時代背景を鑑みればほっこりする人情お結び。先人の知恵で生まれた短期保存食が、お結びなんだよねと。
「だから半分当たりで、半分外れなわけね、みやびちゃん」
「そうそう、不衛生かどうかは、作る工程と塩と保存方法なのよ、京子さん」
これはまた含蓄のあるお話しと、麻子も香澄もむふんと目を細める。そう言えば川端康成の伊豆の踊子だって、時代背景が分からないと読んでも理解し難いよねと、二人は脱線していく。
伊豆の踊子に於ける主人公は、一高生の男子である。この一高生をただの学生と思っちゃいけない。エリート中のエリートで、末は博士か大臣かと目される優秀な学生なのだ。
その一高が現在の東大であり、裕福な家柄でなければ学費を捻出できないほど、当時としては学問の最高峰だったと言える。
主人公は湯ヶ野で鳥打帽を買い、制帽は鞄にしまう。帽子の校章で身分がばれてしまうからで、読者はここでなぜ帽子を変えたか気付かないと、物語の本質を読み間違えてしまう。
「踊り子が好きなんだけど、ね、香澄」
「身分差がある叶わぬ恋なのよね、麻子」
いやんと体をくねらせる二人に、あんたらはと半眼を向けるみやび。
だが古い時代に書かれた文豪作品を読もうと思ったら、当時の時代背景を把握していないと、本当に読み間違えるのだ。日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成の作品、時代背景を考慮して読む必要があるだろう。
「くーださーいな」
「あらいらっしゃい、アリスちゃん。今日は何が欲しいのかしら」
駄菓子屋のお婆ちゃんが新聞から顔を上げ、ふよふよ浮いているアリスに目を細めた。港区と言っても、探せば駄菓子屋さんはある。
系外惑星法で、宇宙人が空中移動をしても何ら問題はない。これはリンドが竜化してもいいようにとの、総理と副総理の配慮だ。ただし飛行高度は無許可で飛べる百五十メートルまでよと、念押しされているけれど。
弾丸飛行でみやびの所へ即座に戻れる距離、それがアリスの自由な行動範囲となっている。別に呪縛や禁忌という類いのものではなく、それがイン・アンナとの約束だからだ。もっとも大好きな精霊候補の傍にいるのは、聖獣としての喜びでもあるようだが。
「うまい棒とブラックサンダー、あとよっちゃんの酢漬けイカに、キャベツ太郎と蒲焼きさん太郎を、箱で」
「ごめんアリスちゃん、年で耳が遠くなっててね、いま箱でって言った?」
「箱ですお婆ちゃん、大勢でピクニックを兼ね温泉へ浸かりに行くのです」
栄養科三人組は、駄菓子を否定していない。これも日本の文化だよねと認めているから、お茶請けにもよく利用している。そんな訳でこの駄菓子屋さん、アリスに限らず非番のリンドがよく訪れる。寮で近衛隊が駄菓子パーティーなんてのを、秘密裏に開催しているくらいなのだ。
「うまい棒はサラダとコンポタ、明太とタコ焼き、箱であるのはこの四種類だね。納豆と牛タンに海苔塩と焼き鳥は、そこに並んでるだけだよ」
「全部ください、お婆ちゃん」
全部かいなと、呆れを通り越して笑い出すお婆ちゃん。アリスが重量無視でひょいひょい運べるのは知っているから、ならばと腰を上げる。
「これはオマケだよ、アリスちゃん。後でお食べ」
「これはベビースターラーメンと都こんぶ、よろしいのですか?」
「いいのよ、また来てちょうだいね、可愛い天使さま」
皺くちゃな顔で微笑む老婆に、アリスは困惑する。三対六枚の翼でふよふよ浮いているから、確かに天使に見えなくも無い。
駄菓子屋だから相手にするのは、いつも小さい子供たち。年齢を重ねたからこそ老婆は見抜くのだ。この女子は見た目可愛いけど腹黒いね、この女子は天真爛漫な性格だねと。
子供を見る目が研ぎ澄まされている老婆の、最高ランクと定めた女子が天使。実際に天使なのだが、アリスにその自覚は無い。
「また、来ます」
「事前に言ってくれれば箱で用意しとくからね、ピクニックを楽しんでおいで」
大川通り商店街の焼き鳥屋さん、その店主も同じであったなと、アリスはふよふよと蓮沼家に戻る。本質を見抜く人は差別意識を持たないし、こんな私を恐れたりもしない。それがアマツ族の末裔なんだなと、アリスは駄菓子が入った風呂敷包みを持ち直すのであった。
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