第265話 チェシャの出自(2)
夫婦の恨みは晴らしたけれど、康直もお絹も帰っては来ない。
「それからどうやって暮らしてきたの?」
「江戸を離れ山中で生活しておりましたにゃ、みやびさま。大正時代まで」
なんとその山こそ、妙子がぶどう栽培を始めた場所だったのだ。おとらは向こうの世界で、妙子と面識があったと言う。尻尾が二本ある変わった猫が住み着いている位にしか、妙子は思っていなかったらしいが。
ある日不思議な波動を感じ、その発生源を嗅ぎつけたおとら。そこには
その気になれば熊でも倒せる猫又となっていたけれど、男が放つ強いオーラがおとらには見えていた。自分はこいつに、絶対勝てないだろうと悟る。
『珍しい猫がおるな、ここで何をしている』
『わたくしがどこで何をしようと勝手だにゃ』
『わはは、口は達者なようだな。わしはブラド五世、人捜しをしておる』
『人捜し? こんな山中でかにゃ?』
『わしのゲートもハズレでな、どうして人が住んでいる場所に座標が行かぬのか』
『何を言っているのかよく分からないにゃ』
特定の人物を探しているわけではなく、スオンのなり手を欲しているとブラド五世は言う。婚姻関係に近いようだが、自分は引退したので若い者のためにと彼は鼻息を荒くした。
『最近ここに、娘が来るにゃ』
『ほう』
『けれど病気で長生きできそうもないにゃ』
『ほうほう』
ならばぜひ会いたいとブラド五世は微笑んだ。いま長生き出来ないと言ったはずだがと、乗り気の彼におとらは首を傾げる。
だがこのやり取りが妙子を病魔から救い、シルバニア領をぶどう酒の名産地へと変えて行くことになる。
『ところでそなた、名は何と言う』
『おとらだにゃ』
『虎? 三毛猫なのに?』
『ほっといて欲しいんだにゃ』
半眼となるおとらに、くつくつと笑うブラド五世。
強大な力を感じる別種の生き物であることは確かだが、人間と同じように喜怒哀楽と情があるらしい。康直の膝に乗っていた幸せなあの頃を、おとらはつい思い出してしまった。
『ところでこの世界は、そなたにとって生きやすいか?』
『そんなわけ……』
人の姿で尻尾を見られでもすれば、物の怪や妖怪の類いが現われたと討伐隊が組まれる始末。誰が好き好んで、山中に引きこもっているものか。
ションボリとするおとらに、ブラド五世がしゃがんで手を差し出した。わしの世界に来ないかと。
『リンドの城であれば、そなたも生きやすいだろう』
その優しい瞳に、差し出された手に、おとらは思わず右前足を乗せていた。竜の一族が構える城だとは知らないまま。
『そなたは猫でありながら、人並みの知恵を持っておる。相応しい名をやろう、そうだな、
『チェシャ……わたくしの名は、チェシャ』
ブラド五世の発音がちょっと悪かったせいか、チエシャがチェシャになってしまった。まあいいかと、ブラド五世はクスリと笑う。名付けをされたこの時から、チェシャの尻尾は三本に増えていた。
「あんた、苦労人なのね」
「にゃはは。苦労猫と言ってくださいまし、みやびさま」
笑ってはいるが、人の温もりと優しさに飢えた猫は、エビデンス城で自らが成すべき事に目覚めたのだ。この城こそが第二の故郷、絶対に守るべき場所なのだと。
アリスがふわりと浮き上がり、チェシャの頭を撫でた。その後に、何故かポコンポコンとグーで叩く。
「にゃ、にゃにを!」
「あなたは私と同じよ。時が来れば、きっと覚醒する」
「……はにゃ?」
それはつまり、チェシャが猫又を経て聖獣化するということ。これにはさすがのみやびもビックリだった。
――そして夜のみやび亭本店。
「いよいよ明日だな、ブラド」
「ああ。リンド族の真価を見せてやろうじゃないか、パラッツォ」
アムリタ陛下の御旗をもって軍団を率い、モスマンの逆臣討伐に向かう時が来た。後方支援として紅貿易公司も参加する、合同軍事作戦である。
「正規兵と行動を共にする日が来ようとは、夢にも思わなかったよサレウス」
「俺だってかつての紅巾党と手を組むなんて、予想外の更に外だ」
ラフィアが破顔してサレウスのお猪口に熱燗を注ぐ。この二人、ずいぶんと打ち解けたものだ。そんな二人を見てアンガスは感慨深げに、あんかけ湯豆腐へ箸を入れる。
テーブル席ではすっかり元気になった、元儀仗兵であり武官のヘンリエッタにジハルとムシュラが初の御来店。
本日のお通しは椎茸のうま煮と海老のチリソース煮に叩きキュウリ。ガッサンが三人に、お通しのシェアを勧めていた。うんうん、三人いたらそれがお得。
武官である以上、お守りするのは領事ラフィアと副領事アンガスになる。かなーり複雑な顔をしている三人だが、宰相シャメルから辞令をもらった以上は軍人としての職務と割り切ったもよう。
そんな三人のテーブルにカエラがお待たせと、大皿をででんと置く。それは鶏、鶏だらけ、鶏しか乗っていない。下にレタスが、脇にミニトマトが添えてあるけれど、フライドチキンの山。
怪我が回復したばかりで従軍することになるから、とりあえず肉を食っておけという聖女さまのはからい。
ティーナが並べて行ったコールスローの器が、とっても小さく見える。まあてんこ盛りマシューなら、これを標準でやるのだろうが。
「鶏肉ってこんなに美味しいものだったのね、ムシュラ」
「いやヘンリエッタ、この衣に秘密がありそうだ」
「というかこの城に来て、普通に肉が食えてるよな、ジハル」
ドライフルーツが主食になっていた欠食児童……もとい武官三人が、てんこ盛りをものともせずフライドチキンの山を切り崩していく。
すごいなとレベッカが笑い、僕たちもオーダーしましょうとヨハン君が手を挙げ、量は控えめでとフランツィスカが釘を刺す。あの量は無理よと。
「今夜も盛況でございますにゃあ、みやびさま」
「豚レバーのペーストがあるけど食べる? チェシャ」
「にゃはは、もちろんでございますにゃ」
みやびの足下で尻尾三本の猫が、あぐあぐいって頬張る。エビデンス城にネズミが一匹もいないのは、実はチェシャの功績だったりして。
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