第264話 チェシャの出自(1)
「やっほーチェシャ。いい
「にゃんですと!」
ここはエビデンス城の蔵書室。人の姿で執筆を行っていたチェシャが、瞳を輝かせてペンを置いた。
ただしみやびの隣に立つアリスへは、フー! と威嚇することも忘れない。調理場に侵入すると、こてんぱんにやられているようだ。当のアリスはすまし顔だけどね。
ここでみやびが言う所のコチとは、マゴチのことである。コノシロとは違った意味で、スーパーや魚屋には並ばないお魚さんと言えるだろう。
いわゆる白身魚の高級魚で、寿司屋や料亭に回されてしまい庶民の手まで届かないのだ。この魚を気軽に食べられるのも、やはり漁師や釣り人の特権かもしれない。
頭の上に
言えば食べさせてあげるわよと、みやびはいつもチェシャを諭す。盗み食いを咎めているわけではなく、猫の体にはよくない魚もあるからだ。特に脂が乗った背の青い魚はよろしくない。
日本人は猫イコール好物は魚と思いがち、けれど本来は肉食獣である。人間のように、魚特有の脂を上手に分解できる体にはできていない。
チェシャが魚を欲しがったら、体への負担が少ない白身のお魚をあげたい。だから勝手に盗み食いしないよう、聖獣ちゃんに見張らせていたわけで。
猫に穀物類を与えすぎれば、肥満の原因にもなる。美しい毛並み、輝きのある瞳、肉食獣らしいしなやかさ、それを保てるよう、みやびはちゃんと考え食事を用意していたのだ。
「ヒラメのエンガワも美味いですが、マゴチは最高ですにゃあ」
「一匹しか入荷しなかったのよ。みやび亭で取り合いになっても困るし、チェシャが食べちゃって」
「にゃはは、それは感謝感激雨あられ」
彼女……と言って良いかはエビデンス城内でも賛否が別れるところ。けれどみやびから見れば、チェシャは結構な美人さん。まあ尻尾が三本あるのだけれど。
蔵書室にこもっている時は、
けれど気の毒なチェシャ、麻子と香澄から何度スカートをめくられたことか。あんたもはや猫じゃないわよと、散々に言われる始末。
妙子いわくこの二人にかかると、さすがのチェシャも反論すら難しくなるらしい。みやび自身も舌戦では、麻子と香澄がタッグを組むと敵わないからね。
「ねえチェシャ、モスマン帝国は驚異じゃなくなったわよ」
微笑むみやびに、チェシャは思わず箸を止めた。モスマン帝国を何とかしたら、自分が何者であるかを話す約束だったのだ。もちろん忘れてはいない。
「わたくしの身の上話なんて、聞いて楽しいものではございませんにゃ」
「あら、いまさら出し惜しみ? 言質は取ってるんだから早く聞かせてちょうだい」
この人はと、チェシャは苦笑する。けれどみやびになら話してもいいかなと、彼女は箸を置いて遠い昔を思い出した。
――幕末の動乱期にあった慶応三年。
チェシャの飼い主は
『ほらおとら、ごはんだよ』
『にゃあ!』
『そんなにがっつかなくても、誰も取り上げたりはしないよ。それにしても旦那さま、今日も帰りが遅いねぇ』
この時期、江戸市中では辻斬り強盗が頻発していた。刀の切れ味を試すため、深夜に通行人を突然切り伏せるという蛮行。しかも懐を探り、財布を盗んでいく。
これは奉行所の沽券に関わる大問題で、上様からも叱責を受けたらしい。南町奉行は与力・同心・十手持ちを総動員し、市中の警らに当たらせていた。
『おかえりなさいませ、首尾はいかがでした?』
『ことごとく奉行所の裏をかきやがる。今日も大黒屋の主人と、お供の奉公人がやられた』
『まあ……』
あの
そのうちとっ捕まえてやると
『源助さんもご飯まだでしょ、あがって食べていきなさいな』
『へへ、すいやせんねおかみさん』
土間の縁に座っていた、御用聞きの源助が頭に手をやる。武士ではなく町人なのだが、同心の配下として十手を持つ。
『旦那、何を考えておられるんで?』
素焼きのカレイを頬張りながら、源助が難しい顔の康直をちらりと見た。長い付き合いである、捕り物で命を預け合ったのは一度や二度ではない。
カレイの身をほぐし、膝にいるおとらに食べさせている康直。お絹も源助も、彼が口を開くのを待った。
『源助、手下を使い全ての同心を尾行してくれないか』
『……へ?』
『下手人は、奉行所の中にいるような気がしてならねえ』
顔を見合わせるお絹と源助。もしそうなら、お奉行の責任問題になりかねない。けれど罪のない町人が斬り殺されていく現状を、康直は許せなかったのだ。
そして数日後。
八丁堀の狭間邸で、康直とお絹の惨殺死体が見つかることになる。源助とその手下たちも、闇に葬られていた。
マゴチのお刺身が乗る皿に、涙がぽとりと落ちた。
「わたくしは全てを見ておりましたにゃ、手を下したのは与力の
かける言葉を失い、みやびの頬にも一筋の涙が流れ落ちる。
「わたくしのために、泣いて下さるのですかにゃ?」
「それであんた、その後どうしたのよ」
決まっていると、チェシャは拳を握り締めた。にっくき半沢経基の屋敷に忍び込み、夜な夜な枕元で恨み辛みを囁いたのだと。
『おのれ化け猫!』
刀を抜いて振り回すも、
その狂乱ぶりに半沢家はお家お取り潰しとなり、チェシャは復讐を遂げた。親猫とはぐれ、カラスに襲われていた自分を助け育ててくれた大恩を、康直とお絹へ返したのだ。
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