第6話 リンド族とスオン

「ない! ない! どうして?」


 こんなにも広い客室なのに、洗面と浴室がないのだ。もしかしてクローゼットに隠し扉でもあるのかと、押したり引いたりしたのはご愛敬。そもそもクローゼットを挟んで壁の向こう側は廊下であり、それに気付くのは大分時間が経過しての事だった。

 きっと部屋の外にあるのだろう。こんな事ならチェシャに聞いておくんだったと、がっくりと肩を落とすみやび。


「今の私に猶予はない。こうなったら、堤防が決壊する前に自力でお手洗いを見つけ出すしかないわ。まずは今いる三階を一周してみよう」


 勇んで扉を開き、廊下に出る。するとちょうどそこへ、誰かが通りかかった。


「やったぁ! 天の助け」

「えっ!?」


 これはやってしまった。出会い頭に初対面の人から天の助けなんて言われたら、新手のキャッチセールスか新興宗教の勧誘かと思われるに違いない。だがその人物は、すぐ柔らかい表情になると丁寧にお辞儀をした。


「蓮沼みやびさまですね。私、メイド長補佐を務めますエアリス・フォン・リンドと申します」


 琥珀色の瞳が印象的な、美人さんである。メイド長補佐ということは、ファフニールの部下にあたるのだろう。


「みやびです、よろしく。あなたもリンドなのね、ファフニールとご親戚か何か?」

「この城に住み込みで働いているメイドは、全てリンド族の娘なんです。城伯も、リンド族なのですよ」

「あ、なるほど」


 よく見れば、エアリスにも立派な牙があった。顎の線に沿って切りそろえた金髪に、ミルク色の髪が混じっている。そして目を引くのは、彼女が身に付けている衣服。


「それ、もしかしてキトン?」

「まあ、よくご存知で。これはリンド族の普段着であり、民族衣装でもあるのです。私、今日は半日お休みを頂いていたものですから」


 学園の服飾科に進学した中等部時代のクラスメートと、土日を利用してお互いに科の教科書を貸し合った事がある。他の科の専門教科書にも、興味をそそられるものだ。

 服飾の歴史に、そのキトンは記載されていた。エアリスが身に付けているのはドーリア式キトンと呼ばれるもので、古代ギリシャの服装に近い。

 長方形の布を自分の身長に合わせて折り、体にそれを挟んで両肩をピンで留め、腰に帯を巻いただけの至ってシンプルなもの。折り幅で膝丈にもマキシ丈にも出来る。

 こんな形で実物を見れるとは思わなかったと、みやびはいろんな角度から眺めてみる。教科書と違うのは、両肩を紋章の入ったブローチで留めているところだろうか。

 布で体を挟んだだけだから、片側に余った布の綺麗なひだが出来る。だがひだの隙間からエアリスの素肌が見え隠れして、同性のみやびでも見ていてちょっぴり恥ずかしい。


「あ、いっけない!」


 そう、そんな場合ではなかったのだ。みやびの体は堤防の決壊を阻止すべく、無意識のうちに足踏みを始めていた。


「あの、みやびさま。かなり切迫したご様子ですが、どうかなされました?」


 何故かエアリスまで、みやびに合わせて足踏みを始めてしまった。これはまた、ノリのいい人物である。


「あのね、お手洗いの場所が分からなくて困っているの。ここから一番近いのはどこ?」

「まあ大変。この城は洗面も浴室も、全部一階にあるのですよ」

「うっそ!」


 エビデンス城の廊下は、中庭に向かって広く開放されている。二階と三階には欄干らんかんがあり、中庭が一望出来るようになっているのだ。

 エアリスはあそこですと言いながら、中庭を挟んで反対側、一階に小さく見える扉を指差した。中庭と言っても、二百メートルトラックがすっぽり入りそうな広さ。今から一階に下りてあそこまででは、距離がありすぎる。


「無理、間に合いそうもないわ」


 顔から血の気が引いていく感覚が分かるのか、両手を頬に当てるみやび。

 すると、みやびと向こうの扉を交互に見ていたエアリスがふむと頷いた。足踏みを止めて腰帯を解き、次いでサンダルを脱ぎ始める。


「これ、持っていてください」


 訳も分からず、差し出された腰帯とサンダルを受け取る。


「あの、エアリス。どうするつもり?」

「リンド族最速とほまれの高い、この私が一肌脱ぎましょう」

「最速?」


 エアリスはもぞもぞと左腕をキトンの中に入れ、右腕でみやびを横から抱き寄せると、やおら足を欄干に掛けた。腰帯を外したキトンから、すらりと伸びた脚があらわになる。


「ちょっ、ちょっと、エアリス!」


 そんなみやびの叫びもどこ吹く風と、エアリスは参りますと告げるや中庭に向かって欄干を飛び越えてしまった。今日は、よく落ちる日だ。


「いやああああぁ。落ちる落ちる落ちるもれちゃ……う、あれ?」


 落ちていない。中庭を横切り、緩やかに滑空している。そしてみやびは、乳白色のうろこに覆われ鋭い鉤爪かぎづめの生えた手に包まれていた。

 自分の状況を把握すべく、手の主を見上げた。胴体はゾウ並みの体躯たいく、長い首、蝙蝠のような翼、胴と首を合わせたよりも更に長い尻尾。そして額には、螺旋らせん状の角が一本。

 みやびの眼前で、琥珀色の瞳を持つ白い竜が悠然と羽ばたいていたのだ。


「エアリス、なの?」


 その問いかけに、片目をいっかい閉じてまた開く白い竜。

 不思議な事に、みやびは恐怖を感じていなかった。あり得ない事を続けざまに体験したせいで、感覚が麻痺してしまったのかも知れない。

 それにしても、どうやったらこんな造形美が出来上がるのだろうか。この世界に創造主がいるとすれば、なかなかのセンスだとみやびは思った。

 竜の首の途中で、布がはためいている。あれはエアリスが身に着けていたキトンに間違いない。やがて音も無くふわりと舞い降りた竜は、みやびをそっと地面に下ろしてこう告げた。


「右の扉が殿方用、左が婦人用です。紙は流さないで、備え付けの箱に入れてくださいね」


 それは紛れもなくエアリスの声。竜からお手洗いの説明を受けるとは、何とも複雑な気分のみやび。それでも最優先事項を片付けるべく、預かっていた腰帯とサンダルを竜の手に返し、一目散に扉へ走るのだった。


「間に合いまして?」


 用が済んで廊下に出ると、エアリスが待っていてくれた。驚いたことに、もう人の姿に戻っている。


「ありがとう、助かったわ」

「どういたしまして。お望みなら、三階のお部屋までもうひとっ飛び」

「あはは、いいわいいわ。折角だからお城の散策をしようと思うの。それよりもさ、キトンを普段着にしてる理由って、もしかして……」

「はい、ご想像の通りです。姿を変えるたびに衣服を着たり脱いだりするのは面倒ですから」


 確かにそれは合理的なのだが、白い布が一枚だけ。光の加減によっては、体の線が丸分かりなのだ。それはとても美しいのだが、男性が放っておくだろうか。


「あのさ。その姿で襲われたりとかは、無いの?」

「私が、襲われる?」


 エアリスは左の掌を右肘に当てて頬杖を付くと、しばし考え込んだ。


「私にそのような経験はありませんし、聞いた事もございません。もとより、リンド族を襲うのは命がけ」

「ああ、左様ですか」


 考えてみれば、あの鉤爪で引っ掻かれたらひとたまりもない。かなり見当外れな事を聞いてしまったらしい。

 頬杖を付いたまま、エアリスは中庭に目を向けた。しかし彼女の瞳は、中庭ではなくどこか遠くを見ているようだ。


「命がけで私をものにしようとする気概があるなら、スオンの申し出をして欲しい。晴れてスオンになれたならば、私は身も心も全て捧げるのに」


 それはどういう意味なのだろうか。スオンというキーワードに、みやびは首を捻る。身も心も全て捧げるくらいだ、生半可な関係でないことは明らか。


「スオンって、もしかして結婚のこと?」

「いいえ、男女の婚姻とは別です。スオンのお相手に性別は関係ありませんから」

「男でも、女でもいいんだ」

「人種も問いません。宣誓の下にリンド族と交わす、特別な関係をそう呼ぶんです。気に入った竜に跨る資格を得るため、命がけの儀式に挑み、資格を勝ち得た者と言えばお分かりいただけますでしょうか」


 みやびは妙子から聞いた、竜騎士団という存在を思い出す。広間で目にした天井画は、人が竜の背に乗り戦場へ赴く姿そのものだった。


「つまり、竜騎士」

「はい。生死を共にするならば、これほど相応しい関係はありません。心から信頼できる存在が背中に在るからこそ、リンド族は戦えるのです」


 エアリスによると、スオンの関係になった二人は人間の方をリータースオン、リンド族の方をリンドスオンと呼ぶらしい。スオンになって初めて、治めるべき領地を与えられると言う。


「ねえ、エアリス。身も心も捧げるのに、容姿とか人柄とか、好みは考慮しないの?」


 つい口から出た素朴な疑問だが、みやびからすれば気になる話し。エアリスの顔をのぞき込むと、彼女は意外な反応を示した。


「そ、それはそのあの」


 頬杖が崩れ、エアリスはその手を胸に当てながらしどろもどろになった。さっき欄干に足を掛けた時の、精悍な表情が嘘のよう。


「た、多少は」


 おいおいそれはないだろうと、みやびの眉間にしわが寄る。


「多少なの?」

「いえ……。それなりには」


 頬を桜色に染めながら、エアリスは目を伏せた。

 自分を気に入ってくれて儀式を受けるという人が現れたなら、それは嬉しいに違いない。この点に於いては理解できるのだが、エアリスの口振りだとリンド族は結婚よりもスオンを重視しているように見える。

 今の彼女はまるで、好きな男性のタイプを聞かれた無垢な少女。スオンは性別を問わないと聞いたばかりだが、お相手が同性でも彼女は同じ反応を示すのだろうか。

 ますますもって、分からなくなってきたみやび。これは自分の価値観で推し量れるものではないのかも知れない。

 ただ、ひとつだけ分かった事がある。生物の頂点に君臨するような姿にもなれるけれど、いまのエアリスは見た目通り普通の女子だと。

 その後エアリスは、みやびのために城内の説明をしながら一階を案内してくれた。三階は全て客室となっており、二階もパーティールームとリネン室を除けば全て客室とのこと。


「身分の高い人が上の階にいると思ったら、そうでもないのね」

「高貴な客人が三階なんです」

「私、三階なんだけど?」

「みやびさまは国賓待遇のお客人ですもの」


 ブラドの執務室やメイド達の待機室、ダイニングルームといった施設は一階に集中していた。蔵書室はブラドかファフニールの許可がないと入れないらしく、浴場は混浴だった。


「他に宿泊客がなければ、入浴する男性はブラドさまくらいです。殿方とかち合わないよう、時間はメイド達がお知らせしますから」

「そうしてもらえると助かるわ」


 そんなやり取りをしながら、エアリスはこの世界についても話してくれた。

 西にメリサンド帝国、東にモスマン帝国。ローレンツィア大陸を東西に分け、二つの帝国が大陸を支配しているという。

 ロマニア候国は、東西を結ぶ交易の要所となる国。モスマン帝国はメリサンド帝国侵略の足掛かりとして、ロマニアに幾度となく攻め込んで来ているらしい。

 竜騎士団を擁するロマニア侯国は、メリサンド皇帝を盟主とする領邦国家のひとつ。帝国の防波堤として、モスマン帝国からの侵略を代々食い止めて来たのだと言う。


「先の戦争で、双方甚大な被害を被ったために現在は停戦中なのです」

「それじゃ、また戦争が始まるのね」

「それは必至、覚悟はできております。ただ」

「ただ?」

「スオンはもう、一組も残っておりません。皆、先の戦争で命を失いました。ブラド六世も、先代の族長も。背中に乗せるべき騎士のいない単独竜の集まり、それが今の竜騎士団です」


 みやびは返す言葉を失っていた。もしかしてそれは、この国が危機的状況にあるという意味ではないのだろうか。


「あ、申し訳ありません。私ったら、どうしてこんな話をみやびさまに」

「ううん、構わないわ。私、エアリスとはいいお友達になれそうな気がする」

「友達? みやびさまは高貴なお客人、私は使用人ですよ」


 最大限のもてなしなんて言わなきゃよかったと、改めて悔いるみやび。せっかく知り合えたのだから、もっと交流を深めたいのだ。


「ちょーっと待った。私、そんな上等なもんじゃないわよ。お願いだから、さま付けで呼ぶのやめてくれないかな。私のこと、みやびって呼び捨てにして欲しい」

「そうは参りません」

「むむ、それなら百歩譲ってさん付けで。私ね、お城のメイドさん達とは対等にお話がしたいのよ」


 エアリスは嬉しいと困ったが混じり合った表情で、仕事に戻る時間が来たと告げた。そう言えば、彼女が半休だったことをみやびは思い出す。


「せっかくの非番だったのに、わざわざ付き合ってくれてありがとう。感謝してる」

「いいえ。私もみやびさま……いえ、みやびさんとお近づきになれて嬉しいです」 


 彼女は出会った時と同じように丁寧なお辞儀をすると、メイド用の私室に帰って行った。


「戦争か」


 天空の間、その扉に手をかけながらみやびはひとり呟いた。面倒見が良くて、ノリが良くて、それでいてピュアなエアリス。そんな彼女が戦の覚悟をしている。

 どうしてだろうか。二週間の間、のん気に優雅に暮らそうなどと思っていた自分に、無性に腹が立つみやびだった。

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