第5話 無属性

 ブラドの執務室へ向かう道すがら、チェシャは今日の出来事を振り返っていた。


「よもや人間の小娘に素手で殴られるとは思わなんだにゃ」


 ゲートの前で噛み殺す事もできた。命を奪わずとも、手首を引き千切るくらいはできたはずだ。チェシャにとってそれは容易いこと。


「だが、できなかった。何故……」


 心のどこかでみやびを傷つけてはならないような、そんな思いが生じたのは確かだ。ところがいくら自問自答を繰り返しても、その思いの正体が分からない。


「しかし城伯は、あの娘のどこが気に入ったのであろう。あそこにおる娘たちは皆、紺のブレザーに赤いネクタイ、緑を基調としたチェックのスカートをはいておった。白い布製の靴は上履きと呼んでいたから、外に出る時は履き替えるのであろうにゃ」


 そこでチェシャは、みやびを上履きのまま城に引っ張り込んでしまった事に思い至る。


「これは悪いことをしたにゃ。着替えの件も含め、妙子さまに相談してみよう」


 我ながら名案だと頷きつつ、みやびについて思考を重ねてみる。


「それにしても膝上まである長い履き物、あれは靴下の一種なのだろうか。靴下に規定は無いらしく、娘たちの形態は様々であったような……。おっと」


 気が付くと、チェシャは執務室の前を通り過ぎていた。みやびのせいで今日は調子が狂いっぱなしだと、腕を組んで首を横に振りながら自嘲気味に笑う。


「だが、面白い娘ではあるにゃ。人を笑顔にする芸術か」


 候国の正式な客人となったのだから、上から目線で居丈高に言うこともできただろう。だがみやびは、わざわざチェシャの目線に合わせたのだ。それはまるで、母親が我が子と向き合うようではないか。

 本人も自覚しているように口は悪いし手も早い。一見粗暴な気性にも映るが、心根はそうでもないらしい。


「君がぼんやりと考え事をしているなんて、珍しいな」


 声をかけられ、我に返ったチェシャは廊下を歩いてくるブラドに慌てて向き直った。見れば彼は、両手に本を数冊抱えている。


「これは城伯、てっきり執務室にいらっしゃると思っておりましたにゃ」

「蔵書室にいたのだが、立て続けに水属性と火属性の波動を感じたので城内を見回っていたんだ。チェシャ、何があったか知っているか?」

「みやびさまが城伯を呼び捨てに出来るむね、使用人たちにまだ周知徹底しゅうちてっていしておりませんでしたにゃ。その為にファフニールが冷気を」

「まさか、みやびを傷つけたのか?」

「いえ、大事に至る前に止めましたにゃ。火属性の波動は、妙子さまがみやびさまのために熱波をお使いになったものでして」


 ブラドは揉め事があったことに対し、眉間にしわを寄せた。だが例外的に呼び捨てを許したのは彼自身である。


「ファフニールの行動は城伯を思っての事。どうか、大目にみてやって頂きたいですにゃ」

「馬鹿な」


 そう言って、ブラドはおどけた表情を作った。


「ロマニア候国のフュルスティンに、僕がとやかく言えるわけがないだろう。まあ立場は違えど実の妹、小言のひとつやふたつは言わせてもらうがな」


 ブラドは笑いながら、執務室の扉を開けるとチェシャに入るよう促した。そして彼は執務机に本を置くと、椅子に腰を下ろして口を開いた。


「チェシャ、気が付いたか」


 例のジャンプで扉を閉めると、チェシャは首を傾げて問い返した。


「何をで、ございますかにゃ?」

「みやびだ。彼女、無属性だぞ」

「なっ、それはまことでございますかにゃ!」

「僕も最初は半信半疑だったが、みやびの血を口にして確信した。あちらの世界では、無属性が存在するのか?」


 生きとし生けるものは、必ず何かしらの属性を持つ。それ自体が特技や才能であり、精霊の加護だと信じられている。ブラドの問いに、チェシャはまさかと首を横に振った。


「あちらの人間も地水火風のいずれかに属しております。稀に光や闇の属性を持つ者もおりますが、その点はこちらの世界と変わりませんですにゃ。無属性の者などおりません」

「まあ、そうだろうな」


 ブラドは蔵書室から運んできた本の一冊を手に取ると、あるページを開きチェシャに指し示す。そこに綴られた文字を目で追い、チェシャは彼が何を意図するのか察したようだ。


「リンド族に伝わる、伝承でございますにゃ」


 伝承と言っても叙事詩のようなもので、チェシャも先代と先々代からよく聞かされたものだ。ブラドが指し示したその一節も、チェシャは覚えていた。


 世界の均衡は崩れ、大地は荒廃し、民心が乱れたる時。

 大精霊の使者は来たる。

 大精霊の巫女として大精霊のわざを成し、大精霊の意を代弁す。

 使者は世界の統治者を選び、権威と力を与えたもう。

 その使者、無属性なり。

 八花弁の紋章を戴く、明けの明星、宵の明星なり。


 先代は伝承を信じ、使者の出現を待ち望んでいた。戦乱が続き疲弊しきったこの国に、一縷いちるの望みを託していたのだ。


「みやびさまが使者であると、お考えなのでしょうかにゃ」


 チェシャの問いかけに、ブラドはゆっくりと頭を振った。


「わからない。二週間という期間で、彼女がこの世界をひっくり返すとはとても思えない」

「同感でございます。みやびさまにそのような力があるとは、思えませんですにゃ」

「単なる偶然かもしれんし、しばらくは様子を見るしかあるまい」


 ブラドは本を閉じると、机の上に積まれている書類の束に目を通し始めた。

 ビュカレスト市民からの陳情や申請、諸外国からの無理難題。忙しすぎて、みやびと伝承に時間を割く余裕はあまり無いようだ。


「今日はご苦労だった。下がって休んでくれ」

「はい、仰せの通りに」


 扉を開きチェシャは退室しかけたが、思い直したようにまた扉を閉めた。器用な二回連続ジャンプ。


「あの、城伯」

「どうした」


 怪訝そうに、ブラドが書類から顔を上げた。


「みやびさまを抱き上げ、呼び捨てを許し、国賓待遇を与え、向こうの世界に無条件で帰還させる事を約束なさいましたにゃ。無属性だから、という理由だけではございますまい?」


 するとブラドは、再び書類に視線を落としながら片手をひらひらさせた。早く下がれ、と言うことらしい。

 チェシャは一礼し、今度こそ執務室を出て行った。彼が生まれた時からの付き合いである。あれはブラド七世特有の照れ隠し、やはりみやびは気に入られたのだろう。


「それにしても」


 チェシャは再び自問自答に入った。自分は無意識のうちにみやびの無属性を感じ、危害を加えることが出来なかったのだろうか? それ以外に思い当たる節が無い。それとも、精霊の力が働いたとでも言うのだろうか。

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