第2話 しゃべる猫

「みや坊、みや坊ってば」


 聞き慣れた声が、みやびを呼んでいる。


「こーら、みや坊」


 まどろみの中、近付いて来た声の主が肩をゆする。ゆすると言うよりは、両肩を掴んで前後に振るという少々荒っぽいやり方ではあるが。


「……ん」


 晩秋とは言え、今日の陽射しは暖かく窓際は天国だったようだ。蓮沼みやびは、六時間目の授業を最後まで聞けなかったらしい。

 おじいちゃん先生ごめんね。私けっして古典は嫌いじゃないの、むしろ好きなのよ。そう心の中で懺悔をしつつ、みやびは両腕を上に突き出して伸びをした。


「んんー」


 そんなみやびを、声の主である麻子あさこが呆れた顔で見下ろしていた。


「また例の夢?」


 欠伸をかみ殺しながら頷くみやび。

 みやびの夢は、親友みんなが知っている。どんな夢を見るのかという話題の中で、新月と満月の日に必ず見る夢として話したのがきっかけ。

 みやびにとっては別に悩みというわけではないのだが、なぜかみんなからは不思議がられ心配もされている。


「いい度胸してるわね。ほら、掃除当番いくよ」


 見れば、教室当番の班が机と椅子の移動を始めていた。いつまでも座っていたら、ホウキとチリトリとモップに襲われてしまう。


「ふぁい。今週どこだっけ?」

「調理実習室ね。てかみや坊、ほっぺにノートの跡ついてるぞ」


 そう言いながら、麻子が人差し指でみやびの頬をつつく。


「ええ!」


 居眠りぶっこいてましたマークを顔に付けたまま、廊下に出るのはかなり恥ずかしい。慌てて鞄から手鏡を出し、自分の顔をのぞき込む。


「ウソだよーん」

「ちょっと……」


 みやびと麻子のやり取りを見ていたクラスメートたちが、どっと笑い出す。そして麻子は、満面の笑みで教壇側の扉まで逃げていった。


「むきー、やられた。着物幽霊に追いかけられてしまえ!」


 着物幽霊とは、古くから学園に伝わる口承こうしょうのこと。平たく言えば噂話だが、昔は目撃情報が多数あったらしい。


「あはは、そんなの都市伝説よ。実習室の鍵もらってくるから、先いくね」


 麻子め麻子め。そう言いながら頬を膨らませるみやびだが、机の上には麻子が置いて行ったノートがある。

 中身を見なくても、みやびが聞き逃した六時間目の内容である事は間違いない。ありがとうと言われるのが照れくさくて、つい意地悪をしてしまう。麻子はそういう人だ。

 教室に戻ってくる用事もない。みやびは机の上を片付け、鞄を手に席を立つ。


「みんな、また明日ね」


 みやびに応じ、クラスメート達がまたねーと手を振った。

 調理科は学年に一クラスだけだから、クラス替えはなく三年間ずっと同じ顔ぶれになる。中には中等部から一緒の子もいるし、麻子もその一人だった。

 将来は板前かシェフかパティシエか。自分の未来を見据えた生徒が集まっているせいか、変な派閥もできず割りとクラスのまとまりは良い。

 耽美たんび女子学園、高等部調理科二年、これがみやびのクラス。卒業と同時に調理師免許が取得できる、文部科学省認可の学舎まなびやである。


「みや坊はやっぱ、将来は割烹かっぽうかわせみに就職なの?」


 モップで床を拭きながら、麻子が尋ねてきた。

 髪型をずっとショートボブで通したせいか、みやびは本名よりもみや坊と呼ばれる事が多い。言いだしっぺの張本人は、中等部時代の麻子であるが。


「就職というか、パートタイムの調理見習いがフルタイムに変わるってだけかな」

「それを就職って言うんじゃないの?」


 掃除をしながら、班のみんながクスクス笑っている。今のはボケたことになるのかしらと、みやびは首を捻った。

 彼女は一年生の夏から、駅裏の大川通りにあるかわせみという料亭に通っていた。もちろん仲居さんとしてではなく、板前として。


「私は和洋中華、一通りこなしたいけど基本は『和』に置いていたいの。将来はお店を持つつもりだけど、かわせみで学ぶことはまだいっぱいあるから」

「でもさ、あそこって明治から続いてる老舗でしょ? 色々と教えてもらえそうだよね」


 同じ班の香澄かすみが、興味津々で尋ねてきた。香澄も中等部からずっと一緒で、くるくるふわふわの巻き毛が可愛らしい。


「うんにゃ、肝心な事はなーんも教えてくれないよ」

「え?」「冗談でしょ?」


 え? は香澄で、冗談でしょ? が麻子。他のみんなも掃除の手を止め、一斉にみやびを見た。今時そんな職場があるのかと、怪訝な顔をしている。


華板はないたの立花さんいわく、『技術は教わるもんじゃねぇ、盗むもんだ』なんだそうでございます。さいきん女将さんが言うのよね。板場で私が華板を見る眼差しは、まるで親のかたきでも見てるようだって」

「ほんっとみや坊、よくその世界に飛び込んだわよね」


 麻子が言うと、みんなが呆れ顔はんぶん感心した顔はんぶんで頷いた。


「ああいうとこってさ、計量スプーンも計量カップも使わないじゃない。華板が塩をふる瞬間とか、おたまでごま油どのくらいすくったとか、一升瓶に親指あてて何回振ったとか見逃せないのよね。私、ぜったい盗んでやるんだから!」


 拳を胸の前で握り締めながら、高らかに宣言する板前見習い。だが周囲のドン引きっぷりに気付いたのか、さすがのみやびも恥ずかしさが募り頬をポリポリとかく。


「あはは。そうは言いつつ、みや坊たのしそうじゃん」


 麻子が笑いながら、またモップを動かし始めた。


「うん。私ね、包丁にぎって板場に立ってる時がいちばん充実してると思う」


 これは紛れもない本心だった。学生時代に恋というのもしてみたいのだが、正直そんな暇はない。部員不足だからと拝みこまれ、剣道部と弓道部の掛け持ちまでしている。学校とかわせみで、みやびはもういっぱいいっぱいなのだ。


「将来お店もったらさ、呼んでね。もちろん私も呼ぶから」


 一緒に長机を拭いていた香澄が、ぽつんと言った。これはまた、嬉しいことを言ってくれる。周囲も同意見らしく、うんうんと頷いている。


「もっちろんみんなご招待するわよ。成長かつ成熟かつ円熟しているであろう、私の料理を評価しにきてちょうだい」

「みや坊はやる気だ」「期待してるよ」「円熟とか言っちゃって」


 彼女達の笑顔は、まるで花が咲いたよう。

 高校の三年間なんてあっという間だという事を、最近みやびは思い知らされていた。高等部に進学したのがついこの間みたいな感覚でいたのに、気が付けば二年生の二学期がもうすぐ終わろうとしている。

 みやびはクラスのみんなが大好き。だが卒業と同時に、自分の未来に向かいそれぞれ旅立って行く。みんなとずっと一緒に居たいけれど、それは時が許してくれない。


「鍵、私が職員室に返しておくから」

「おー、みや坊サンキュ」「また明日ね」「ばいばーい」


 鍵の返却を自ら引き受け、みやびは実習室に残った。なんとなく、感傷に浸りたい気分だったからだ。

 業務用と言っても差し支えないサイズの流し台。試食するための長机。ラーメン屋さんにあるような大きな深鍋。

 指を切って大騒ぎしたり、フランベの炎に驚いてフライパン落としそうになったり、みんなの歓声が聞こえてきそうだ。寂しいような切ないような、それでいて暖かい。


「私はきっと、大人になってもお婆ちゃんになっても、この風景を忘れない」


 そんな感傷に浸っていると、奥にある準備室からことんと音がした。調味料や調理器具を保管しているだけで、実習室を通らなければ出入りできない部屋だ。

 そこでみやびは、備品の数が合わないと先生がぼやいていたのを思い出す。

 泥棒だろうか? だが鍵はみやびが持っているのだし、そもそも調味料や調理器具を盗みに入る泥棒なんているのだろうか。


「窓が開いているのかな? ここは一階だから、もしかしたら動物が迷い込んでいるのかもしれないね」


 鞄を胸に抱き、準備室の扉をちょっとだけスライドさせて中を覗く。窓は閉まっているし、ノブもロックの方向に向いている。


「気のせいだったの、かな」


 その時、ころんという音と共に視界を何かが横切った。


 ――そこにいたのは。


 一匹の猫だった。どこから入ったのだろうか。

 金目銀目のオッドアイだった。これはまた珍しい。

 蝶ネクタイをした三毛猫だった。なかなか可愛いではないか。

 二足歩行の猫だった。いやいやちょっと待て。

 紐の付いた、大きな麻袋をたずさえた猫だった。器用にスチール棚の戸を開けて、調味料や調理器具を麻袋に放り込んでいる。

 猫の耳がピンと立ち、こちらを振り返る。扉の隙間ごしに、しばし見つめ合う女子高校生と蝶ネクタイをした三毛猫の図。

 猫のひげが、ひくひくと動く。


「う、うにゃにゃ。見られたにゃ」


 ――しゃべる、猫だった。


 疲れてるんだろうかと、みやびは手の甲で目をこすりもう一度中を凝視する。すると、くだんの猫が麻袋を引きずり逃げようとしているではないか!

 夢でも幻覚でもない。しかもこれを見逃したら、お掃除している自分たちの班が疑われるではないか。と言うか、鍵を預かって一人残ったみやびが一番怪しい事になる。


「待ちなさいよ!」


 勇気を振り絞って中に入り、猫ににじり寄るみやび。麻袋を抱え、後ずさる猫。


「あ、あの、見なかった事にして欲しいんだにゃ」


 やっぱりしゃべる猫だ。これは現実なのだ。


「だ、だめよ。なんで話せるの? どっから入ったの? その備品どうする気?」

「うにゃにゃ、質問はひとつずつするもんなんだにゃ」


  盗人風情ぬすっとふぜい猛々たけだけしい。いや盗猫ぬすねこか。


「よろしい、聞く耳はもつわよ。ひとつずつ言ったんさい」

「実は、かくかくしかじかでして。そう言うことで、さらばなんだにゃ」


 ごんという盛大な音と共に、みやびの拳骨が猫の頭にヒット!


「ふぎゃあっ。ど、動物虐待なんだにゃ。愛護団体に訴えてやるんだにょす!」


 両手でおつむを抱え……いや両前足? 涙目になった猫がみやびを睨む。


「ばか言ってんじゃないわよ! かくかくしかじかとやらの詳細をお言い。言うまで離さないからね」


 みやびは麻袋の紐を左手にぐるぐる巻いて猫を見据え、残った右手で鞄を振り上げた。もちろん面で打つほど優しくはない、当てるのは角だ。教科書やノートが詰まった学生鞄の角の痛さを、思い知らせる気満々である。

 丸い目をさらに丸くして、あんぐり口を開けた猫の耳がぱたりと倒れた。猫という生き物はこういう時、どうして耳を伏せるのであろうか。


「あわわわ。たーすーけーてーにゃにゃっ」

「え? ちょっと」


 猫のくせになんという馬鹿力、みやびが麻袋ごとずるずる引っぱられてしまう。そして気が付けば、床に直径二メートルほどの穴が空いていた。

 いや、穴と言うには語弊がある。穴の壁が見えず、代わりにブラックホールのような暗黒が渦を巻いているのだから。


「ふんっにゃあぁ」


 穴へ猫が飛び込み、みやびも麻袋と一緒に引きずり込まれてしまった!


「きゃああああっ」


 みやびの瞳に、一瞬宇宙が映った。

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