第27話 春澤澄歌がいなくなった日④
青と赤が混ざり合った不気味なまでに綺麗な紫色の空の下、二人掛けの簡素なベンチの上。
僕は春澤澄歌が語る言葉を待っていた。
彼女の艶やかな朱色の唇が動く。彼女の口から溢れ出す一つ一つの言葉に僕は集中した。
人影のない山頂には僕たちしかいない。その静けさは一つの空想を僕に思い起こさせた。
まるでこの世界が二人だけのような、そんな空想を。
☆
「私は完璧なんかじゃないわ。他人に興味がないだけよ。他人に関心を持つことを、無駄なことだと思ってたの。」
「……」
「他人に興味がないから、自分を高めることばかりに夢中になる。自分に干渉してくる人や情報から目を背けて変化を避けてきたから、取り乱すこともなかったの。」
ただそれだけなの、と独り言のように呟いた春澤先輩の寂しそうな顔に気づけば僕は目を惹かれていた。
彼女が呟いた言葉の意味は僕にはよくわからず、ただ一つの疑問が頭の中で渦巻いていた。
「あんたは、僕にも興味を持てないのか?」
彼女の言い方はまるで誰にも興味がないと言っているみたいで、僕は言いようもない不安に駆られた。
こんなに一緒にいるのに、こんなにあなたを好きでいるのに、それでも興味を持たれていないなら僕たちの日々はなんだったんだと心に穴が空いたような感覚がした。
「和季。」
「!」
ふと、自分の名前を呼ばれ僕は思わず俯いた。ただ激しく鳴る鼓動に身を震わせながら彼女の二の句を待った。
「和季は、私の特別なの。」
特別。そう告げた彼女の顔はとても柔らかなものだった。僕は彼女の顔も言葉も意味がわからずに阿呆のような顔でいた。
「面白い顔ね。」
「! いや、その…」
さっきまでの鬱屈とした思いも霧散して、僕はただ戸惑っていた。彼女が何を言いたいのかわからないのだ。
「やっぱり空気が似ているのかしらね。」
「え?」
「あなたに会って、久しぶりに私は他人に興味を持てるようになったの。ただ勉強を教えるだけじゃなくて色々なことを教えてあげたいと思った。弱っているあなたを見て慰めたいと思った。色々なことを一緒にしたいと思った。」
「………」
「和季、あのね。私あなたに伝えたいことが……いや、そうね。」
先輩は迷い戸惑う様子で懸命に言葉を探しているようだった。伝えたいこととは一体なんだろう。
今なら何を言われても、僕の裸の心に触れてしまいそうで少しだけ怖かった。
そっと目を伏せた。冷めやらぬこの感情を、弾む心臓の音を、潤んだ瞳を先輩に悟られたくなかったのだ。
「変わらないで。」
「え?」
しかし、目を伏せた矢先に僕は思わず顔を上げてしまう。
「…緑の髪で、サボり魔で、ズレてて、非行少年と間違えられて、それで…優しいあなたのままでいてね。」
彼女の言っていることの意味がわからず、僕は曖昧な笑みを浮かべた。
「変わるも変わらないも何も……人はそんなに簡単に変われやしませんよ。」
「…そうね。でもあなたは勉強を始められるようになったじゃない。」
「それは…先輩がいてくれたからでしょ?一人なら無理なら無理だった。二人だから…できたことです。」
「……そう。」
彼女に笑いかけながら僕が答える。すると、その笑みを見た先輩は優しく僕の髪を撫でてきた。
「不思議ね。あなただけは私の心に入り込んでしまったわ……あなただけなの、私が取り乱してしまうのわ。」
「……か、揶揄うなよ。」
「揶揄ってなんかないわよ。」
心が熱くなっていくのがわかった。髪を撫でる柔らかい手の感触が、僕の奥の方まで染み渡っていくのがわかった。
どのぐらい経ったのだろうか。先輩が僕を撫でるその仕草を止め、ベンチから立ち上がる。
「少し、らしくないことを言ってしまったわ。もう遅いし帰りましょうか。」
「…はい。」
そう言った彼女の背中が遠のいていく。その様子を見て僕の中の熱も少しだけ冷めていく。
(ダメだ。こんな劣情抱くな。先輩はそんなの求めていない。僕は彼女の良い生徒でいればいいんだ。)
結局のところ、僕は怖いのだ。春澤澄歌との儚く美しいこの関係性が変わってしまうことが、壊れてしまうことが、僕が壊してしまうことが怖かったのだ。
彼女を気遣うふりをして僕は『好きではない』と言われることを怖がっていただけなのだ。
それでも、ちゃんと想いを伝えればよかった。
先輩を信じればよかったのだ。先輩を困らせるかもなんて思わなければよかった。先輩ならちゃんと僕をフッてくれると信じればよかった。
そうすれば、彼女はまだここで生きていたかもしれない。
「きゃっ!」
「え」
僕の前を歩いていた彼女が下へと降るための階段に足を滑らせ、上体を崩した。
僕は咄嗟に動き、彼女の腰を抱える。
「「……っ…………」」
視界の端で彼女の美しい黒髪が揺れた。
「ち、近いわ。」
「おい、大丈夫かよ。」
「…ごめんなさい。助かりました。」
「いいけど。それより怪我は?」
「ないわ、あなたは?」
「…大丈夫だ。」
「嘘よ、腕を擦りむいているわ。」
そんな会話を繰り返して…。
「……ふふっ」
「……ははっ」
僕たちは笑い合った。それは、このやりとりが僕たちが初めて会った時の会話と全く同じものだったからだ。
「…腕、見して。」
「…ああ。」
優しそうな笑顔で先輩が僕の腕を手に取る。慣れた様子で鞄の小ポケットから絆創膏を取り出すと、丁寧に貼った。
ふと、彼女の黒い瞳と僕の瞳が交差した。混ざり合うほどに見つめ合い、そしてふわっと澄歌が笑った。
「!」
その時、僕の中で何かが外れてしまった。
心臓が痛いほどに鳴り響き、視界が一気に狭まる。頰が熱くなり、脳が沸騰しそうで何も考えられなくなる。
「…かず…き?」
彼女の肩を掴み、頰にそっと触れる。
「な、何…?どうしたの?」
彼女の濡れる黒い目を見ながら、顔をそっと近づける。
「だ…ま、待って……!」
顔を背けようとする彼女に無理矢理前を向かせ、そして僕は彼女の唇に自分の唇を、そっと重ねた。
吸うように彼女の唇を啄む。
「…んっ」
先輩の体から徐々に力が抜けていく。ただ、僕の服を掴むその手だけが力を増していく。
そして…。
パンッ!!!
「…っ…………」
僕は先輩に頰を打たれた。ぐらりと視界が揺れたのは先輩に殴られたせいではない。
(あれ…僕今なにした?)
自分の下卑た振る舞いに衝撃を受けたからだ。あんなに自分を律しようとしたのに、僕は最後の最後で負けてしまったのだ。自分の中のくだらない劣情に。
「せ、先輩…!」
弾かれたように先輩を見る。謝らないとと思った。何を言われてもしょうがないと思った。最低なことをしたと自分を責めた。
「……和季。」
「!」
頰を紅潮させ、桃色の唇を右手で覆うように触る彼女は少しだけ目を伏せたあと真っ直ぐに僕を見据えた。
その瞳には僕を非難する意が含まれていた。それだけで僕はこのあと彼女が何を言うのかがわかった。
「私…あなたとは恋ができないわ。」
その言葉を聞いて、彼女はもう僕を側には置いてくれないのだということを僕は悟った。
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