第26話 春澤澄歌がいなくなった日③
カシャ。
カメラのシャッター音が鳴り響いた。ふとカメラの持ち主である隣の彼女を見ると、もう一回というように山の木々にシャッターを切ろうとしていたところだった。
彼女、春澤澄歌はジーンズに長袖の簡素なTシャツ、緑色のパーカーを羽織った出立ちである。おそらくこの山でないにしても今日は歩く予定だったのだろう。
「綺麗ですか?」
そんな変な質問をする。綺麗かどうかは見たらわかるだろうと思われるかもしれないが、春澤澄歌の"綺麗"は少しだけ普遍的価値観とはズレているのだ。
おかげで僕は未だに彼女の"綺麗"が分からないでいる。
「…綺麗よ、見たらわかるでしょ。」
「…わかりますよ、もちろん。」
それでも先輩は自分の価値観中心に生きているので他人にもソレを求めるフシがある。分からないと突っぱねると後で面倒なことになることを僕は彼女との日々で学んだ。
だから僕は懸命に分かったふりをしている。
彼女と、緩やかな階段を長い時間をかけて登り切ったその山頂。僕たちは小さくなった街や、雄大な木々を眺めていた。
そしてその木々のどれもが中途半端に赤や黄色になっている。緑色の中にポツンポツンと明るい色が散りばめられているような何とも言い難い景色だ。
正直、僕には綺麗には見えない。
少なくとも、巷でよく見る綺麗な秋の景色とはかけ離れたものであることは間違いないだろう。
(まあ、先輩が綺麗だと思うならいいか。)
彼女の満足そうな顔が見られるなら僕はどこに連れてこられたとしてもきっと満足できるだろう。
「…………」
ふと周りを見渡してみる。
「それにしても…僕ら以外人っ子一人いないですね。」
駅で降りたときから感じていたが、雑誌で取り上げられているにはあまりにも人の匂いがしない。
いくら紅葉の時期ではないにしても山登りが好きな人ならいてもいいはずではないだろうか?現に山頂にも、ここから見える景色にも人影は見当たらない。
「設備も何もないもの、当たり前だわ。」
「あー…なるほど。」
先輩の言う通りこの山には階段こそあれど自動販売機も柵もない。展望台とは言ったもののただの崖みたいなものだ。確かにこれでは来ても旨味がないだろう。
「…あなたも私も人混みは嫌いでしょう?だからここにしたの。少しだけ寂しすぎる気もするけれど。」
「あはは…」
実のところ僕はそれほど人混みは嫌いではない。好きでもないが平気ではある。対して先輩は人混みが大嫌いだ。クリスマスのイルミネーションを見に行ったときは肝心のイルミネーションを見る前まで結構不機嫌だった。
「それにしても、微妙な時間帯になっちゃいましたね。これからどうするんですか?」
「!」
時刻は3時前だ。幸い電車の中で遅めの朝ごはんを食べたためお腹はあまり空いていないが、昼食を取るかどうか迷う時間帯だ。
「まあこの辺には飲食店もないし、電車に乗って帰りどこかで夕飯を取るしかないか。」
「………」
「先輩どうします?……え」
黙り込んでしまった先輩を不思議に思い、隣を向くと彼女は僕のことを親の仇を見るように睨んでいた。
「な、何事ですか?」
「和季、その…」
その恐ろしい顔に似合わず、彼女の声は少しだけおどおどとしているようだった。いつも威風堂々としている彼女にしては珍しい様子だ。
「すいません、僕。何か先輩の気に障ることを…」
「ち、違うの。」
「え?」
彼女の恐ろしい顔に気が引けた僕が頭を下げると、先輩は焦った様子で止めてきた。
何が何だかわからないまま僕は顔をあげる。
すると、先輩は背負っていたリュックから少しだけ大きい箱を持ち出した。桃色の布に包まれている。
呆けたようにその小包を見ていると、グッと先輩が僕の手を引っ張ってくる。
「こっち。」
「え、ちょっと!」
グイグイと僕を引きずるように歩いていく。彼女の行き先を見るとそこには木でできた簡素なベンチがあった。
「座りなさい。」
「え?」
「座りなさい。」
「……はい。」
彼女の剣幕に押され、大人しく座ると彼女がその隣に座った。そしてゆっくりと箱の包装をほどき始める。
桃色の布をほどき、現れた弁当箱を開くとそこにあったのは少しだけ歪な形をしたサンドイッチだった。
「…これ。」
「………」
「………」
「料理をするのは初めてで、その…私も驚いているの。」
「…いや」
「あ、あまり上手にできなかったけど、一応お弁当を作ってきたの。ぎっしり敷き詰めて、形は崩れないようにしたのよ。元々崩れちゃってたけど。い、嫌なら食べなくてもいいのよ?そうね…この量なら私一人でもなんとか…」
「……ふふ、ははは!」
いつもの毅然とした様子とは別人のようにあたふたしている先輩に僕は笑ってしまった。
きっと彼女自身混乱しているのだろう。なんせ彼女は完璧なのだ、何でもできしまう人だからこそ、自分の不得意な分野に直面してショックを受けているのだ。
「な、何がおかしいのかしら?」
「いえ…おかしくはないです。」
僕は弁当箱の中からサンドイッチを取り出す。そしてそのまま口に運んだ。
「か、和季!」
「……っ…………」
「む、無理しなくても…」
「む、無理なんかしてませんよ。もっと食べたいです。」
「………そう。」
少しだけ、釈然としない顔で先輩もサンドイッチを食べ始めた。やはり彼女の理想とは違ったのか仏頂面で咀嚼している。僕は珍しいものを見るようにそれを眺めた。
すると先輩がこちらを向く。
「和季。女性の食事シーンは見てはいけないものだといったはずよ。」
「あ、す、すいません。」
「……」
半目で僕を見ていた先輩だが、僕の手にあるサンドイッチを見てハッとした顔になる。そしてムニムニと唇を動かしたのち口を開いた。
「特別に、機嫌がいいので許してあげます。」
「…ありがとうございます。」
それから二人でサンドイッチを食べた。
二人分にしては量が多かったが、僕が大柄なこともあり、何とか食べ切ることができた。
「美味しかったです、ありがとうございました。」
空になった弁当箱を先輩に差し出しながら伝えると、先輩は少しだけ微笑んでくれた。
「…こちらこそありがと。食べてくれて嬉しかった。」
「そんな…先輩が作ったものならどんなものでも食べますよ。それにちゃんと美味しくできてましたし。」
ピタリと、弁当箱をリュックサックに仕舞おうとした先輩の手が止まる。
「お世辞はいいわよ。美味しいなんて言える代物じゃなかったでしょう。私、嘘をつかれるのは嫌いだわ。」
「………」
憧れの先輩からの"嫌い"という言葉に僕は言葉に詰まってしまった。確かに彼女はお世辞なんかでは喜ばない。
僕は少し迷って口を開いた。
「正直驚きました。先輩は完璧で、不得手なものなんて何もないとばかり…」
「…そんなことを思っていたの?」
「ええ、だから今日みたいに取り乱した先輩は想像もできませんでした。」
「と、取り乱してなんか……。」
弁当箱をリュックサックにしまい終えた先輩が不服そうにそう言った。いつもは綺麗と思うその顔も、今だけは庇護欲を掻き立てられるかわいいものに思えた。
「和季は私のどんなところが完璧に見えるの?」
「え」
しばらく、二人で呆然と夏と秋の合間の中途半端な山の景色を見ていると先輩が僕に尋ねてきた。
「そうですね……」
僕は少し考え込んでしまう。
ただ漠然と春澤先輩には"完璧"の二文字がふさわしいと思っていた。勉強も運動もできて、博識で、誠実で、美しくて、上品で、何よりもしっかりとした自分を持っている。
何を言おうか迷っていると先輩が話し出した。
「私は完璧なんかじゃないわ。」
「え?」
それは先輩が初めて話す自分への評価だった。
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