55話 仕事中の孤高の狼、いつもはお姉ちゃんラブな駄犬
琴ちゃんのスーツ姿のあまりの神々しさ、あまりの美しさに強い興奮を覚え。抑えらない衝動が鼻血となって暴発し。そして出血多量でうっかり昇天しかけた私。
「(うっかりで昇天しようとしないでください……突然すぎで私の寿命まで縮むかと思いましたよ小絃さん……)」
「(いやはや、ホント面目ない紬希さん。助かりました。……麻生さんもすみませんね。大変お見苦しいところを見せちゃって)」
「(ああ、気にしないで。知り合いに似たような奴がいるお陰で鼻血の取り扱いには慣れてるから)」
現役看護師の紬希さん。そして何故か鼻血の処置が手慣れていた麻生さんのお二人が居てくれてマジで良かった。一瞬本気で三途の川が見えかけたんだもの。折角琴ちゃんを悲しませないように生死の境目から舞い戻ってきたというのに。琴ちゃんの(スーツ姿の)せいで臨死体験するなんて、危うくまた琴ちゃんを悲しませちゃうところだったわ。
そんな二人に感謝をしつつ。次こそは出血しないようにと鼻の両穴をティッシュで栓をして。気を取り直してお仕事中の琴ちゃんをこっそり覗き見る事に。鼻に栓をしたのが効いたのか、はたまた鼻血が打ち止めになったのか。今度は素敵すぎる琴ちゃんの姿を見ても、どうにかクラッとくるだけで済んだ。
『それでは資料5ページ並びに、別紙2をご覧下さい』
鼻血も無事出なくなったところで、改めて琴ちゃんの働いているところを舐めるようにじっくりと観察してみる私。
周りはみんな琴ちゃんよりもだいぶ年上の。とっても偉そうな人たちばかり。そんな前で全く動じること無く。背筋をピンと伸ばして堂々と前に立ち、ハキハキよく通る聞きやすい素敵な声で琴ちゃんは会議を進める。
『——こちらの議案について。ご意見等ございましたらお願いします』
琴ちゃんの手によって淀みなく進められる会議。素人の私でもわかりやすい説明で進行し、適切な間を置いて資料を読む時間を相手に与え。過不足なく意見を募る。
重苦しい重圧が周囲から発せられる中。意地悪な質問、否定的な意見をされても物怖じせずに。完璧に答える琴ちゃん。
「(ほわ……)」
「(ふふ、見惚れてますね小絃さん。どうですか?琴ちゃんが働いている姿を見た感想は)」
「(……琴ちゃん、かっこいい)」
紬希さんの問いかけに、素直な気持ちが口から出る。……私にとっての琴ちゃんは、今も昔も可愛い小型犬みたいなイメージだった。どんな時でも私のうしろに付いてきて、私に全身全霊で甘えてくる……そんな人懐っこいワンコみたいな子だった。
けれども今のバリバリお仕事している琴ちゃんはどうだろう。そんなイメージとはかけ離れていて、まるで孤高の狼のようだ。冷静沈着で落ち着いた雰囲気で、大人の魅力が溢れていて……
「(……わかってた事ではありますけど……琴ちゃんって、あんなに仕事出来るんですね……)」
「(んー?そだね。小絃さんが昏睡状態から目を覚ましてくれてからは。貯まりに貯まってた年休消化しまくって中々職場には来れなくなったけど。『愛するお姉ちゃんを養います!』って月に数度顔出して、ああやって仕事をバリバリこなしてくれてるんだよね。勤務時間自体は淡々と仕事をしていた時より短いんだけど、前以上に成果出しちゃっててさ。ホント上司として大助かりだよ)」
「(……そう、ですか。やっぱりそうなんですね……)」
「(……小絃さん?音羽のやつがどうかした?)」
「(あ、いえ……なんでも……)」
そんな琴ちゃんの凜々しいお姿に、改めて惚れ直しながらも。どうしても私は……心の奥底で、ほんのちょっぴりだけ……えも言えぬ感情を芽生えさせてしまう。
……琴ちゃんからは散々『気にしないで』って言われ続けてきたけれど……こうして、頑張っている琴ちゃんの姿を生で見ると…………知らない間に、私が居ない間にあんなに琴ちゃんは成長してるのに……私は……
『——ありがとうございました。これにて午前の会議を終了させていただきます。午後の会議は13時30分より開始致します。皆様お疲れ様でした』
なんて、琴ちゃんのかっこいい姿にドキドキしたり。そんな琴ちゃんを見てモヤモヤしたり。気持ちの整理が付かないままだった私。……それが良くなかった。
そのせいでいつの間にやら会議が終わっている事に気づくのが遅れたし。琴ちゃんがこの会議室から退出しようと、身体を私たちが覗き見している出入り口へ向けた事にも気づくのが遅れちゃって……
「…………小絃、お姉ちゃん?」
「…………あっ、やば……」
はたと。目と目が合う私と琴ちゃん。流石の琴ちゃんも私がここに居るなんて予想外だったのか目をまん丸にして……持っていた資料をバサバサッと床に全部落としちゃって。
凍り付く空気、止まる時間。そして……数瞬の後。
「小絃お姉ちゃぁああああああああん!!!」
「ふぉわっ!?」
私の名を呼びながら、琴ちゃんは私目がけて飛んできた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんっ!ああ、やっぱり!絶対にお姉ちゃんの気配を感じてたけど、やっぱりここに来てたんだね!?会社でもお姉ちゃんに会えるなんてとっても嬉しい事だけど…………お姉ちゃん大丈夫だった!?こ、ここの会社……とっても危険なお姉さまたちがいっぱい居るんだよ!?変な事とかされてない!?」
「ちょ、待って……琴ちゃん落ち着いて……わ、私は大丈夫——」
「…………ハッ!?こ……これは……!?お、お姉ちゃんから……別の
「だ、だから琴ちゃん落ち着いて!?…………あ、ちょ……ダメ……ダメよ琴ちゃん!?そ、そういう事はせめてお家に帰ってから二人っきりの時にぃ……!?」
「こ、琴ちゃん。それに小絃さん…………会社の中なのに……大胆……」
「ふへー……音羽も大好きな人の前だとこうなっちゃうんだね。片鱗は見えてたけど、まさかここまでとは」
私の視認した一瞬で。孤高の狼からいつも通りの駄犬……もとい忠犬モードに切り替わる琴ちゃん。紬希さんや麻生さん。ついでに会社のお偉いさんたちが見ている中……文字通り、ワンコのように。私の胸に飛び込んで匂いをクンクンと嗅いだり……私の傷をペロペロ舐めたり、自分のモノとでも言いたげに頬をすり寄せてマーキングしたりと。すっかりお家に居る時の琴ちゃんだ。
さ、さっきまでの仕事人な凜々しくかっこよく美しい琴ちゃんは何処に……?
「ふぅ……とりあえず応急処置は済ませたけど……こんなのじゃ足りないよね。小絃お姉ちゃん。来てくれてとっても嬉しいけど、ここはケダモノたちの巣窟で。お姉ちゃんみたいな可愛い人がうろうろしてたら危ない場所なの。わかる?」
「…………そ、そうね……現に今私の目の前に……もの凄いケダモノが居る気がするもの……」
そう、具体的に言うと琴ちゃんという肉食獣が。琴ちゃんに見つかってまだ5分と経っていないのに。全身くまなく舐められたんですが……
「わかってくれて何よりだよお姉ちゃん。というわけで……ここは凄く危険だから今すぐ安全安心な私とお姉ちゃんの
そう言って琴ちゃんは私の車椅子を押そうと私の後ろに立ち。
「——こら琴ちゃん。一体どこへ行こうと言うのかしら」
「ぴゃい!?」
そして、そんな琴ちゃんの後ろに現れた見知らぬお姉さんに拘束されていた。……あ、あれ?
「全く、油断も隙もない。ほーら琴ちゃん。まだ午後の会議が残っているでしょう?午後の打ち合わせもあるんだし。遊んでいる暇なんてないわよー」
「あ、あぅ……は、離して下さい加藤課長!?わ、私には仕事よりも何よりも大事な事が……!」
「はいはいそうねー。何よりも琴ちゃんは『小絃お姉ちゃん』が大事よねー。知ってるー。そんじゃ、その大事なお姉ちゃんを安心して養うためにも。やることはきっちりやらなきゃねー」
「う、うぅぅ……お姉ちゃん、お姉ちゃんおねえちゃん…………小絃おねえちゃぁああああん!!!??」
「あ、あー……えっと。と、とりあえず琴ちゃん……午後からもお仕事頑張ってねー……」
そしてそのままそのお姉さんに。琴ちゃんはズルズルと引きずられてフェードアウトしてゆく。
姿が見えなくなっても、琴ちゃんの悲痛な私を呼ぶ声が途絶えることはしばらく無かったのであった……
◇ ◇ ◇
「——さてさて。大雑把な案内で申し訳なかったけど。職場見学は大体こんなところかな。実際に見学してみてどうだったかな小絃さん?」
一通りの案内も終わり。最後に麻生さんに会社の中の喫茶室へと連れてこられた私と紬希さん。とても品のいい紅茶をご馳走になりながら、麻生さんにそう問いかけられる。
「え、えっと……それはもう素敵な会社でした。琴ちゃんが働いているだけあって雰囲気すっごく良いし。素人だからお仕事とかよくわかんなかったけど……やってる事全部がキラキラしてて。それに……お仕事している琴ちゃん……本当にかっこよくて……見学に来れて本当に良かったって思えました」
思った事を正直に話してみる私。麻生さんは私の一言一言に、うんうんと頷いてにこにこ笑顔に。
突然の職場見学で、正直始まる前はどうなることかと戦々恐々していたけれど。終わってみれば本当に来て良かったと思う。ここへ来るきっかけを作ってくれた紬希さんにも。案内してくれた麻生さんにも感謝感謝だわ。
「そかそか。それは良かった。案内した甲斐があったってもんだ」
「ご丁寧な案内、本当にありがとうございます麻生さん。楽しかったです」
「ううん。それが仕事だもの。もしかしたら将来一緒に働くかもしれない子は大切にしなきゃね」
「貴重なお時間を使わせてすみませんでした。それじゃああまり長居しちゃうと麻生さんのお仕事とかの邪魔にもなっちゃうので……私たちはこの辺で失礼しますね。本日はありがとうございまし……」
「……おっと。ちょい待ち小絃さん。最後にあと一個だけ聞きたいことがあるんだけど良いかな?」
「へ……?」
と、ここいらでお暇しようとした私を。麻生さんはどうしてか引き止めてくる。聞きたいこと……?今更私に聞く事なんてなさそうなのに一体何を聞きたいって言うんだろうか?
「あの、麻生さん?聞きたい事ってなんですか?」
「んー、まあ。話したくないなら無理に話さなくても良いんだけどさ。ねえ小絃さん」
「は、はい……」
「……音羽が働いている姿を見てた時ね。ちょっとだけ貴女暗い顔をしてたように見えたけど……あれ、どうしてかな?」
「……ッ!」
その一言に、私は言葉を一瞬失う。な……なん、で……
「ごめんね。触れられたくない事だったら悪い。でもちょっと気になっちゃってさ。あいつが働いているところを見ながら。何でか小絃さんへこんでたでしょ?」
「え……そ、そうなんですか小絃さん……?た、確かにちょっとだけ……元気ないように一瞬見えたような気はしてましたけど……大丈夫ですか……?」
流石、琴ちゃんの直属の上司さんと言うべきか。人をよく見ている。顔に出ないようにしていたつもりだったのに。ほんの一瞬だったと思ったのに。それでも会って間も無い私の表情の変化をあっさりと見抜いていたみたい。
ジッと私を見て答えを促す麻生さん。そして心配そうに私を同じく見つめる紬希さん。双方の視線が私に刺さる。……これは、ダメだ。ごまかせない……
「……その。た、大した事じゃないんですけど……なんか琴ちゃんが働いてるとこ見てたら……今働きもせずに、ただ漫然と琴ちゃんに養われている今の自分が情けなくって……」
「え……で、でも小絃さん……それは小絃さんがまだ退院したてなだけで……琴ちゃんもそんなの気にしないで良いって言っていたはずでしょう?将来を気にするのは、身体が万全の状態になってからでいいって……今の小絃さんに必要なのはリハビリで……」
「……ええ。そうですね。それはわかってます。常々琴ちゃんからもそう言われています。でも…………でもですね。実際に琴ちゃんが……守るべき存在だった琴ちゃんが、私が知らない間にあんなに立派になっていたのを目の当たりにしたら……」
……なんか、自分が置いて行かれちゃったみたいで……寂しいし、焦ってしまう。不安になってしまう。
大好きな人と比べて……自分がホントに何も出来ない存在に思えて……落ち込んでしまう……
「ある意味、その悩みを解消するきっかけになればと……紬希さんに連れられて職場見学にも来ましたが……何と言いましょうか。かえって焦っちゃって……」
「……小絃さん」
「あ……えと。違うんですよ紬希さん。来なきゃ良かったって言ってるんじゃないんです。ただ……自分が如何に何も出来ないかを痛感しちゃったってだけで…………す、すみません。紬希さんにも麻生さんにも悪いですよね……勝手に舞い上がったり勝手にへこんだりなんかして、迷惑ですよね——」
「……わかるよ、その気持ち」
「え……?」
と、慌てて取り繕おうとする私に対して。麻生さんはなんだか昔を懐かしむような表情で私を見ながらそんな事を言ってきた。
「小絃さんの気持ち、凄くわかるよ。私もそうだった。……焦るよねー。なまじ自分の大事な人が優秀だとさ。自分が役に立てないんじゃないか、とか。隣に並んで立てないんじゃ無いか、とか。不安になるよねー」
「……あ、麻生さんみたいな優秀な人も……そんな気持ちになったりするんですか……?」
「そんなの今でもそうだよ。今だって、不安になる時はあるもの」
そんな話をされて正直驚く。琴ちゃんの上司をやるくらい優秀そうなこの人が……私と同じように悩んだりするってかなり意外だ……
「うんうん。小絃さんには音羽の事で礼をしなきゃと思ってたところだし。これはちょうど良いかもね。お節介かもだけど……力になってあげよう。ごめん小絃さん、ちょっと電話させて貰っても良いかな?」
「へ?で、電話……ですか?え、ええ……どうぞ……?」
「ありがとね。私がアドバイスしてもいいんだけど……この手の悩みは私より、もっと適任者がいるからね」
「「適任者……?」」
そう言って麻生さんは唐突に携帯を懐から取り出して、どこかに電話をかけて始めた。
「——あ、もしもし?うん、そう。姫香だよ。今電話大丈夫?……あんがと。確か今日は料理教室の日でしょう?…………うん、そう。突然で悪いんだけどね。教室の受講希望者を連れてきても良いかな?……うん、今から。二人ほど。……飛び入りOK?ありがたい。ああ、あとね。ついでに悩める若者に、人生のアドバイスもしてやって欲しいの。……え?ああ、心配しなくても大丈夫。多分、適任だからね。…………悪いね、今度何かしら埋め合わせはするからさ。休憩時間にその子たちを連れてくるよ。それじゃあ頼んだよ——マコ」
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