第5話 いっそのこと、図々しいくらいに

 一人暮らしの大学生の大半は食生活のリズムが崩落していく。柊の場合も例外ではなく、朝と昼を抜くのはほぼ毎日で、最近は夜まで抜いてしまうこともある。そもそも柊は昔から食に関心がなかった。最低限食べられればそれでよかった。子供の頃は好き嫌いがないことを母や周りの人間に褒められたものだが、この年になってみれば、なにを出しても薄い反応しかしない柊には、きっと母も作り甲斐がなかっただろうと思う。


 そんなことを思いながら、深夜零時、スーパーのタイムセールで二割引きだった焼きそばを遅すぎる夕飯としてすすっていた。まだ寝るには眼が冴えて眠れない時間だ。しかし、何をして時間を潰すかと取りあえず開いたパソコンのグーグルの検索履歴欄に出てきた文字列を瞳に映して、柊は深い溜め息をつく。文学界、群像、文芸、すばる、新潮。並んでいた文字列は全て、純文学の五大文芸誌と呼ばれているものだ。これらの文芸誌が主催する新人賞に名前が載れば、作家としての道が開かれる。柊が新人賞を取ってやろうとがむしゃらに小説を書いていた頃に調べた名残だった。しかし、執筆に対する熱量どころか、何に対しても身が入らない現状では手の届きようもないものだ。柊は履歴を削除して、椅子に体重を預けた。

 

 しばらくぶらぶらと裸足の足を揺らしていると、ようやく暖房を入れ忘れていることに気づく。机の隅にかろうじて乗っかっているリモコンに手を伸ばして取ろうとすれば、足の人差し指の先で小突いてしまった。落下したそれは床に積んでいた本の山を崩した。柊はリモコンを見捨てて、ベットの上に外着のまま寝転がると目を閉じた。落ちたものは拾い上げない、自分で這い上がってこい。スパルタ教師のような文言を胸の中で呟いて、馬鹿らしいと足で蒲団の端を払った。


 その日の夜、久しぶりに礼美の夢を見た。薄暗い部屋で顔に影がかかってしまっていて表情は読めない。青白くて折れそうなほど細い腕がゆらりとこちらへ伸びる。微かに笑う声が耳に響いた次の瞬間、柊は首を絞められて喘いでいた。そうして、ようやく見ることになった礼美の顔には恍惚とした表情が浮かんでいた。柊はその時、得体のしれない違和感を抱いた。これは違う、実際の事実とは異なっている。そう思うのに、うまく働かない頭では、何が違うのかまでなかなか辿り着かない。これは夢で、それでもって実際にも似たようなことがあったけれど、どこか一点だけ決定的に違っている部分がある気がする。そうしている間にも、喉が絞まり、視界が真っ白になって空気を求めて体が反る。意識が途絶えそうになって目を覚まし、柊はようやく思い出す。あの日、首を絞められたのではない。自分が礼美の首を絞めたのだ。


「先輩、聞こえてます?」

「悪い、ちょっとぼーっとしてた、昨日よく眠れなくて。」


 土曜日の昼下がり。文芸サークルの昼間の教室に来るような酔狂な人間は柊と蘭花の二人だけ。『今度休みの日に、朝から原稿会やりましょうよ』と誘われて言われるがままに今日、柊は蘭花の小説狂いに付き合わされていた。

「それって、『レイミ』が関係してたりします?」


見透かすような瞳から慌てて目を逸らす。


「どうして?」

「私、『レイミ』に書かれていることがどこまで本当にあったことなのか考えたんです。」


心臓が跳ねる。微かに笑みを浮かべた唇が恐ろしい。彼女は隠しておきたい柊の秘密を小説の中から暴き立てて、公衆の目に晒してしまうのだろう。そうして自分は骨の髄まで、綺麗に身を剝がされて美味しくいただかれてしまう。「鷹野柊」という彼女が楽しむ物語の一つとして。


「『シュウ』はヒイラギ先輩モデルだってことは明らかじゃないですか。『レイミ』はじゃあモデルがいるのかなぁって考えたら、ヒイラギ先輩が妄想でこんな恋愛の話を書くかなぁと思って。」

「どうして?」

「先輩は恋愛に興味あるようには見えないので。」


さらりと言い当てる蘭花に柊は恐れを覚える。しかし蘭花は柊の顔を見て反応を伺うこともせず、淡々と続けた。


「こういう話って、恋愛に憧れを持ってる人が書くものだと思ってて。でも、先輩はモテそうだし、その上で恋愛が好きなわけでもないと思ったんです。それでもこういう話を書いてしまう状況を考えると、もしかすると『レイミ』ほぼ全部事実なんじゃないかと思って。」


相槌は打たなかった。蘭花の不思議な程よく通る声が昼下がりの教室に響く。柊は時が止まった部屋に放り込まれて二人きり、向かい合って会話をしているような感覚に陥った。


「あれが全部事実なら、私は小説を書きたくなると思うので。だってあんな文学的な現実、なかなか経験出来ないし全てを書き残しておきたくなると思います。」


爛々と輝く瞳を向けられて、柊はたじろぐ。違う、と言いたかった。そういう理由で自分は『レイミ』を書いたわけではないのだ。『レイミ』の内容を事実ではないかと推測しても尚、楽しそうに語れる彼女は狂っているのだろうか。いやいっそ彼女のようになれれば、自分はきっと礼美を幸せにすることが出来たのだろうか。


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