第3話 小説「レイミ」
裕樹に伴われて、部室へと入った柊は周囲を見回して驚く。柊がサークルに出ていた頃にいた人の顔はほとんど見えず、代わりに派手な髪色をした声の大きなイマドキの若者たちがたむろしていた。彼らは柊たちが入ってきたことに一瞬だけ目を向けたが、すぐに興味を失って裕樹へと視線を移した。
「青山、お前も十七のキャンプ来るよな?」
「あぁ、あれ十七で本決まりになったんだ、多分行ける。」
友人の声かけに笑顔で応じた裕樹は彼らと少し言葉を交わした後、柊と蘭花が座った左隅の席に戻ってきた。あっちとこっちで壁があるわけでもないけれども、違う世界であるようにどうしても柊には感じられる。そうして裕樹はあっち側の人間であるのに堂々とこっちの世界に乗り込んでくるのだ。
「ヒイラギ、見てやってよ蘭花ちゃんの小説。」
柊は裕樹の声にはっとして顔を上げ、差し出されたプリントを言われるがままにめくり出した。正直、「レイミ」を勝手に読まれていた件でもう既に蘭花とは関わりたくなくなっていた。しかし、文字を目で追っていくうちに次第にそんな気持ちは忘れ去られていった。「藍色に墜ちていく」と題された蘭花の書いた短編は、才能ある作曲家が尊敬していた同業者の先輩に曲を盗まれることをきっかけにして曲が書けなくなっていくという話だった。若い天才作曲家が苦悩し、慕っていた先輩に裏切られ何も出来なくなっていく様が、ただひたすらに美しい文章で綴られていた。
彼女の文章は直截すぎた。他の人なら、遠回しに誤魔化して書くだろう痛ましい事実を彼女は正面から描いた。人間の心の傷を恐ろしいくらい丁寧に詳細に。眩い闇に眼を焼かれながら、それでもその光の美しさには焦がれてしまう。他人の書いた作品を読んで高揚感を覚えるのはいつぶりだろう。柊はプリントを机に置くと、蘭花に視線を向けられていたことに気がついた。
「面白い、読んでると心が抉られるけど引き込まれて読み進めちゃう。」
「ありがとうございます。」
謙遜するでもなく、平然とした顔で笑う彼女を見て柊は感嘆する。あぁ、彼女は創作者としての自己を確立している。自分が何を言っても、褒めてもそれは作品に対する一意見にすぎず、彼女の軸がぶれることはないのだろう。お世辞が言えない柊としては蘭花のその性質はとてもありがたかった。
「良いでしょ、蘭花ちゃんの小説。」
「なんでお前が得意げにしてるんだよ。」
柊の問いには答えず、裕樹はへらへらと笑ってばかりいる。気が付けば、周囲にいた人たちはとっくに教室から出ていってしまったようで、窓から入るオレンジ色の日差しは柊たち三人だけを照らしていた。「藍色に墜ちていく」の講評を裕樹も交えてした後に、蘭花は身を乗り出した。
「読んでもらえて嬉しいですけど、私もヒイラギ先輩の小説読みたいです。」
「その呼び方やめろ、俺の名前がヒイラギだと思う人が出てくるだろ。」
「読み方くらい誤差です。」
今日初対面の人間に対してこの馴れ馴れしさ、やっぱり変人でないと良いものは書けないのだろうか。頭の中に突拍子もない逸話を残す先人の文豪たちの顔が浮かぶ。自分も彼女くらい吹っ切れれば良かったのだろうなぁ、と考えて、柊は唇を歪めた。
「今、小説は書けてないから書けたら見せるよ。」
ゆっくりと、蘭花は瞳を瞬いた。そうして、首肯する。
「はい、一番に見せてくださいね。」
ヒイラギ先輩のファンなので。蘭花はそう言って無邪気に見える笑みを作った。
「おい、俺だって読みたいんだけど。お前が知るより前から俺はヒイラギのファンなんだけど?」
唇を尖らせて蘭花に抗議する裕樹の声は深い思考の海に沈んでしまった柊にはもう届いていない。
「書けていない」と聞けば、「まだ書けていない、完成していない」という意味で汲み取る人間が多いだろう。柊は相手に勝手に誤認して汲み取ってもらえればいいと思いながら、「書けていない」とだけ告げたのだ。本当に書けていないので嘘はついていない。正しくは「全く、なにも書けていない」なのだが。書けなくなった理由はわかっている。筆が進まなくなったのは「レイミ」を書き上げてからのことだった。筆が進まないというより、より正しく言うなら小説を書きたいと思わなくなったというのが適切だろう。暗い部屋の中で半狂乱になって「レイミ」を書き上げたあの日から、柊は生きる気力を失っていた。
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