第2話 蘭花

 二回生の必修授業である「文学概論Ⅱ」も、その次のコマの授業「世界史と文学」も終わり、本日受けなければならない授業を全て終え、サークルへ顔を出せる時間になった。裕樹と約束した手前、行かなくてはならないが正直気が重い。長期間、顔を出していない集まりに参加することは人間誰であっても気が重くなるものだ。この世の生き物は全て、変化を苦に感じるように出来ている。蟻になったこともライオンになったこともないけれど。あぁ、全くなんでさっきは裕樹に頷いてしまったんだろう。サークルの部室前を素通りして突き当りの廊下まで行って、もう一度折り返して部室を目指す。今、遠くからこの姿を見られれば完全に不審者だと思われることだろう。それでも、覚悟がすぐには決まらず柊はそう長くはない廊下で行ったり来たりを繰り返した。そうして、何回目の折り返しのためにくるりと向きを変えた時、向こう側から歩いてくる人影があった。静かに息を吸って、素知らぬ顔でそのまま今部室から出てきました、というように柊はすれ違おうとする。しかし、その人はすれ違う前に柊を呼び止めた。


「あの、鷹野先輩ですよね?」


彼女の明瞭な声は廊下によく響いて、柊の頭の中にもクリアに伝わった。


「鷹野柊先輩ですよね、『レイミ』の作者の。」


その音を聞いた時、顔がかっと熱くなった。何故、その名前を知っている。どうして俺の名前を知っているんだ。言いたいことがたくさんありすぎて、一番に発声されるべき台詞が決まらない。だってそれは、世間には公開されていないはずだ。ちゃんと裕樹が応募した後に出版社に電話して取り消してもらったからだ。なら、何処から彼女は『レイミ』を知ったんだ。


「会えて嬉しいです、私あれを読んでから先輩のことが知りたくてたまらなくて。裕樹先輩に連絡先聞いたんですけど、教えてくれないからどうしようと思ってたんです。」


熱に浮かされたように喋りながら、彼女の瞳は一心に柊を見つめていた。


「何で俺が『レイミ』の作者だとわかるんだ。」


あぁ、しまった。この言い方だと正解ですと言ってしまったも同然だ。柊の失言に彼女はやっぱりと言うように笑い、簡単です、と続ける。


「わかりませんか? だって、今サークルに来てる人で真面目に小説書いてる人私と裕樹先輩くらいなんですもん。その裕樹先輩が自分が書いたやつじゃないって言って持ってきたんですから、私が知らない人が部室から出てきたならその人が鷹野先輩だと思うじゃないですか。あっ、『レイミ』を書いたのが鷹野柊だとわかったのは文集に載ってる別作品と文章の癖が一緒だったのでわかりました。」


どうやら、部室から出てきたわけではなく、入る勇気が出ず意味もなく廊下を徘徊していたことはバレていないらしい。しかし、今となってはそんなことはどうでもいい問題だ。あの野郎、こいつにも勝手に見せやがったのか。本当に来るんじゃなかった。頼みごとを断れない自分の性格に嫌気がさす。そうして、柊はようやく目の前の彼女と目を合わせた。


「それで?」


我ながら、思ったよりもドライな声が出てしまったと柊は感じた。勝手に見られた小説について褒められても何も嬉しくはない、むしろ不愉快だ。が、柊の拒絶に一ミリも相手は動揺せず、真っ直ぐに目を合わせてきた。


「私は先輩のことがもっと知りたいです。教えてください。」


その瞳の力強さに飲み込まれる。それはただ、強いだけではない。普通の人よりも彼女は大きな瞳をしていたが、その大きな瞳を更に見開いて黒目の部分を余さずに輝かせていた。それでもって、輝いていると表現するにはその瞳はどこか底知れなさを秘めていた。台詞と状況だけを捉えれば、可愛らしい年下の女の子に迫られていると柊が勘違いすることも可能だっただろう。だが、爛々と輝く彼女の瞳を一身に受けた柊はしっかりと恐怖の感情を覚えていた。シマウマを追いかけるライオンはきっとこんな目をしている。


「柊先輩?」


小首を傾げて、彼女は返事のない柊ににじり寄る。


「あ、私の自己紹介がまだでしたね。私は先輩の後輩の堀越蘭花って言います。蘭花って呼び捨てで良いですよ。」


「えっと、」


さっきでもう、柊は消極的な拒絶は使い果たしてしまった。一刻も早くこの恐ろしい状況から抜け出したいと願った時、また向こうから歩いてくる人影がある。


「お、もう早速良い感じじゃん、二人は気い合うと思ったんだよなぁ。」


今の状況の全ての元凶が呑気な声をして近づいてくる。それでも、今の柊は裕樹を救世主だと思った。

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