囁き

 私は聴覚に関わる機能を極限まで拡張する実験に志願した。

入院している間はこれ以上のものはないという謳い文句の防音機能のカバーを被せられ、人並かそれ以下しか聞こえなかったために正直手術の効果の程については半信半疑だった。

しかし、病院を出てカバーを取ると早速視界の中央、爪ほどの大きさに見える程遠くにある街路樹に止まった虫の羽が風に揺れる音が入ってきた。

それでありながら私と虫の間に存在しているものが発する音は手術前と同様に聞こえる。

入り込む音を選別できるようになるため脳に差し障りはないと言っていた医者の言葉は正しかった。

カクテルパーティ効果というやつに似ているのだろうか、意識の焦点を合わせると他の音は押しのけられたようにボリュームが下がり、気になる音だけを拾うことができる。

私は新しい世界で感じる楽しみに足取りは軽くなり、また一歩ごとに奏でる音の変わる足取りの音を愉しみ尽くした。

それからは何をしても未知に溢れて、様々な場所に赴き、様々な文化に触れた。

知らない音楽は博覧会を開き、知らない食べ物は私の口内で音楽会を開く。

特に北の奥地で食べた血の滴る肉は一切れ一切れ違う生命の音を奏で、脳を揺さぶった。

手術の前の私では考えられないが一躍私のお気に入りとなった。

好奇心は止まるところを知らず、選り好みなどしていられなかった。


 巡り歩くことにも慣れを覚えるようになっていたある日、私はうたた寝をしていた最中初めて聞く音を捉えた。

それは何か耳打ちをするような、けれどもどこか乾いた印象を与える音。

意識が曖昧故に焦点が合わさっておらず、音の出所は分からなかった。

方々に意識を向けども音を拾える範囲が広すぎるために砂漠で一粒のビーズを探しているような気分にさせられた。

捜索を打ち切ってうたた寝に戻ったが時折私の意識がはっきりしない時に耳がその音と再会する。

自らの体由来の音だと考え、防音室で筋肉の収縮や骨の軋みを強く意識してみたものの結果は芳しくなかった。


 何年も経過した後もデータの収集のために脳や耳を診てもらっているがひた隠しにしている音のこと以外は何の支障もない。

明かさなかったのは長い時間を共にする内に私はこの音にある種の親しみを感じるようになっていたからである。

直接合わず手紙だけでやり取りする友人のような知らないが故の無機質的な距離感は何も心遣いがいらないため心地よい。

だが音の正体を知りたいと思う気持ちは音を友人として過ごした時間以上の長い仲だったことに私は気づけなかった。

時間と共に膨らんでいく好奇心は自分で立てた戒めを易々と破り、気付くと私は医者に打ち明けていた。

急遽調べてもらうことになったが脳と耳には何も異常がない。

私も医者も首を捻りながら病院で言葉を交わす日々だったがある日呆気なく結果が出た。

友人は私の体の中に住んでいたのだ。







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