夏を見ている

 その夏、熱あたりで体調を崩した私は、とある海端の田舎の町で、アパートを借りて療養していた。アパートは小づくりで、南国を感じられる木造の外観に、白の戸張が部屋を囲っていて、手入れの行き届いたベランダからは数キロ先の海が一望できた。ベランダ向きの窓へ風鈴をひとつ下げて、キラキラとした音で風の知らせを乗せてくるのを感じる日々だった。

 部屋の前は一メートル半ほどの緑の美しい敷居で囲われていて、ひなげしの花が色とりどり咲いていた。アパートの前はコンクリートの歩道になっていて、通学や通勤に、自転車や徒歩の人たちを少し上から眺めている。その中で、庭先を歩いていくある少年に目を引かれた。中学校の高学年から、高校生くらいだろうか。耳の上で切りそろえた重めの茶色いマッシュから、鼻が高く顎が小さい横顔をのぞかせ、睫毛は光に照らされて透けて、小さく突き出た唇は塗ったような赤をしていた。とても美しい少年だった。私はその夏にとけ入るような美しさに、初めて彼を見たときに思わず息をのんだほどだ。

 彼を見かけるのは朝と夕方の通学時間帯だけだった。私はその時間に合わせて、中国茶を片手に風景を眺め、太陽の輝きに合わせて波の音がさざめくのを聞いていた。時折、彼が友人と話しながら通り過ぎるときの声に耳を澄ますこともあった。変声期を過ぎ掠れたような甘い声だった。肌が日焼けで浅黒く、けれど肩から推察される身体は華奢で、サッカーやテニス、陸上部ということもある。このように私は、名前も年も知らない美少年の、性格や嗜好、匂いの想像を繰り返すことがその夏の日課だった。古くに見たヴィスコンティの映画に思いを馳せる。夏を舞台に書かれた物語は少年が多く登場する。少年と夏には親和性があるのだ。それは過行く儚さと、燃えるような暑さへの親和ではないだろうか。私が過ごすこの不運な夏も、何の因果か美しい少年を見守りながらすぎていくことに身を焼き切られるほどの焦燥を感じる。


「白木のアパートの人?」

 町に来て二月ほど過ぎたある日のことだった。近所のスーパーで調味料コーナーを見ていると、声をかけられた。振り返るとそこにはあの少年が立っていた。制服姿でポケットに手を入れ、カバンを背負っていた。いつも眺めている少年に突然声をかけられたことに動揺していると、怪訝そうな顔で彼は続けた。

「先月、二階の角に引っ越してきたでしょ」

 掠れた甘い声で彼は訊ねられる。私は毎日眺めていることがばれたのかもしれない、と少しだけ背筋が寒くなりつつも、気持ちを取り繕う。

「何か御用?」

 すると返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。

「家に行ってもいい」

「どうして?」

「あの部屋のベランダから、海を見るのが好きなんだ。あんたが引っ越してきてから、入れなくなっちゃったけど」

「ずっと住むわけじゃないのよ」

 私がそう言っても、彼はそんなこと求めていないような表情で私を見た。

「土曜の昼頃行くから」

 彼は不愛想にそう言うと、踵を返してドアから出て行ってしまった。スーパーに取り残された私は、今しがた起きたことを理解するのに必死で立ち尽くしていた。焦がれていた彼は、想像よりもはるかに冷ややかな印象で無遠慮だった。しかしすぐに彼が愛するものが私の部屋にあるということが、偶然の出会いにしてとても貴重なものに思えた。

 夜が更けゆくころ、私はもうひとつの日課を始める。自分自身を慰めるのだ。脳裏には先月別れたばかりの恋人がいた。ジパンシィの香水と煙草の苦みの混ざった香りのする人だった。確かに愛していたのに最後も縋ることさえできなかった。今も彼が最後にドアを閉めて去っていく姿を思うと胸が痛い。しかし私は、共に暮らした他人を失ったための欲求を持て余しているのではなく、そうすることでかつての温もりを思い出すためだった。果てるときは何も考えていない。窓の斜に揺れる風鈴の音が、汗をかいた私の胸元を優しく流していく。通りからの人の気配がするのを、決して世界から切り離されたわけではないという想念を、さざ波のように何度も混ぜ返すのだ。


 土曜の昼過ぎだった。少年はシャツと短パンツ姿でたずねてきた。玄関で靴を脱ぎ、私にアイスクリームの入ったコンビニの袋を手渡す。

「手土産。あとはお構いなく」

 冷たい中国茶の入ったコップに彼は口をつけることなく、その足でベランダの方に向かった。少年は椅子に腰掛けると、ただ黙って海を眺めた。

 私は部屋の中から、彼の美しい横顔を見ていた。この部屋でときどき、こうして海を眺めるのだろうか。そこへ住む人物がどんな人間であるかなど、まるで興味がないようだ。憂うような睫毛の奥には同じ色の瞳が滲むように開かれ、その夏の太陽の輝きをすべて吸収したかのような美しさは、私を飲み込むような日々の絶望を緩やかに柔軟していく。近くに居ながらも他人を寄せ付けない雰囲気の彼にはいったい、どんな孤独が燃えているのだろう。その美しさのなかに押し寄せる絶望は、いったいどんなものなのだろう。

 三十分も経つころ、彼はゆっくりと立ち上がってベランダの窓を開けた。

「あんた、いつ出てくの」

「九月の末」

「ふうん」

 彼はつまらなそうにいうと、その足でそのままドアへ向かった。私がその後姿を追いかけて玄関へ立つ。彼の通り過ぎる間に香る、かいだことのある香水が鼻先にかする。

「行っちゃうの」

 口をついて言葉が出た。愛する誰かと心で繋がれるかもしれなかった機会を、私はまたこうして終わるのを見ているのだろうか、と思うと声を出さずにはいられなかった。年端もいかない少年のその姿に、かつての恋人との煙草と夏の混ざった最後を思い浮かべずにはいられなかった。

 少年は私の思惑など見透かしたような美しい顔で、意地の悪そうに微笑みながら靴を履いた。

「また来るよ」

 その後姿と共に、ドアがゆっくりと閉じていった。

 私は結局、彼の名前も知らないのだった。


(了)

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