第六話 眞神史

 昏き書斎の中にて、眞實義の究竟を欣求し、心逸(はや)らせつ、逝にしへの書の紐を解き、古涸れし章段を捲りて、想い耽る時を過ごせるも、ふと指を止め、二つ文字に眼を留む瞬。


 幾星霜経し古紙(ふるかみ)の、繊維粗毛羽立ちてくつきり晰らか。活版刷りなる洋墨の幽玄なる凹凸を、遙かに眺む。


 過ぎし世を馨らせし昏き書斎よ、羽根ペンやらインク壺、吸取紙やら革パッドなど、真鍮ランプ乏しくば、それらの照りも深き色、ましてや陰は冥き玄(くろ)、底なしに喪せ沈む。

 常日頃見る品々とても、初めて見るかと覚ゆる鮮やかさ、想像すらせぬものを見たかのよう、唐突にて、濃く強く晰らかに睿らかなる哉。 


 これも聖なる文字の力が機(はた)らくゆえか。ガリレオの勝利を見るまでもなく、かつて科学は宗教に勝ち、人々は医療や生活を科学に託し、生命の誕生は偶然でしかなく、神は死にて、世は物的な因果律でしかないというニヒリズムが横行した。

 だが、今や科学は死にて、機らきが謳歌する。だが、それは古き神と言うべきかもしれない。もしくは法(ダンマ)か。或いは、実証主義的で超越的な、精緻精妙なる真の科学か。


 この二つ文字も、今でこそ、かような、刷られたインクの象りでしかないが、かつては荘厳なる偉容の聖なる大岩などに彫り込まれていた。古代の人にあっては、岩に彫り込むことは、永遠ということと同等であったに違いない。

『眞神神統記』の第一書『太祖神』の第一篇『礎』の第一部『彝啊呬厨御(いあれずを)』の第一章『究竟』の第一段『清明』の第二節に「太祖イージュ(※後註1参照)は語りて曰く、『清明たれ、龍のごとくに肯ぜよ』とぞ」。これに由来していた。

『ゐい』と読む。眞神族の言語。固有の文字。フォントがないため、似た文字で代えている。

『ゐ』は「龍」を顕す。『い』は聖なる文字で、言語によって睿らかにされる意味を持たない。『ゐい』と言うとき、一般に「龍肯」と訳される。

 この大いなる叡智の一族について語ろう。

 

※釋註1 太祖イージュ

 初代王彝玖邇の祖先。紀元前五万四千年前に眞神族をまとめたという伝説上の族長。神彝啊呬厨御(カムいあれずを)の末裔であると云う。


 まず、偉大なる眞神人たちが何処から来たかを述べておきたい。すべて受け取られるがままの事象に依拠しなければ、何ごともなせぬがゆえに。

 眞神族が日本へ渉って王朝を建てたのは、神武大帝生誕の二年前、眞神暦7367年の戊辰年甲寅月朔(紀元前713年1月1日)とされ、第三六六代王神彝彌眞斗(カムいやまと)の時代である。上陸地が現在の眞神郡である。

 その発祥は紀元前五万四千年以前に遡る(古代エジプト人の祖先が現在のエチオピア連邦民主共和国、スーダン共和国あたりから移動して来たのが紀元前三万五百年頃、定住が紀元前一万二千年頃と言われる)。文献資料のみで、長い間、伝説の域を出なかったが、最近、南アフリカのナミブ砂漠の洞窟で眞神文字が発見され、その顔料に使われた植物の分布年代と、生贄と思われる動物の遺骸の痕跡から、放射性炭素年代測定により、その年代が確認された。

 ナミブ砂漠は世界最古の砂漠であり、ナミブとは、その地域に住む人(サン人)の言葉で、「何もない」という意味である。サン人は遺伝子解析の結果、人類の祖先、最古の人類とされている。

 眞神族はその後、紀元前一万八千年頃から牧畜を始め、紀元前一万四千年頃に農耕を始めた(古代エジプト人ですら牧畜が紀元前一万年頃、農耕が紀元前八千年頃)。

 農耕作業は独りで行うよりも、集団で行う方が効率良い。一人の仕事が一だとしても、十人の仕事は十ではない。十五であり、時には二十でもある。百ならば三百や四百かもしれない。

 その理を覚り、眞神族は集団をなし、集団が大きければ大きいほど、富を生むことを知る。灌漑や貯水などの土木の技術や、種蒔きや刈り取りの時期を把握すための天文学も発達する。

 又、人口の多さは軍力をも保証する。古代エジプト王国は肥沃な広い土地と、ナイル川の水とアフリカの日光とに恵まれ、巨大な農業国家となり、大人口を支えた。周囲の国に対し、圧倒的な人口を誇り、巨大な軍隊を編成した。兵士らは縦に百人、横に百人をならべ、一万人方陣を以て他国の軍隊を踏み潰した。

 紀元前八千年頃(眞神神統記に拠る眞神元年、西暦で言えば紀元前8079年)、遂に王朝が建つ。 

 眞神族の古来最高神神彝啊呬厨御(カムいあれずを)の真義に還るべく、世界を真実の世界へと戻すべく、暗黒と非情と無明の激暴流に筏を泛べ、棹を差すように、心機を以て、世界を建築すべく魂を滾らせる、彝(い)玖(く)邇(に)という偉大なる王が現れ、眞神之国を建国した(古代エジプトで集落を作り始めるのが紀元前五千年頃とされる。その原始王時代はさらに紀元前四千二百年以降のことだ)。 なお、眞神之国の場所は特定されていないが、一説には、現在のチャド共和国、もしくは中央アフリカ共和国あたりと言わている。

 彝玖邇の系譜は、彝之家として現代まで続くことになるが、イ(彝)は聖なるものを顕し、当該する概念がないため、ナミブと同義ともされることもある。

 周辺に巨大王国や帝国ができ始める時代になっても、彝玖邇の王の子孫たちは巨大国家を作ろうとしなかった。信頼で結束された者たちは、権力を争うことがなかった。全ては龍肯の叡智のためであると言われる。

 莫大な富を持つ眞神族は征服の対象とされた。エジプトの王やアッカドの王が彼らの富を狙った。彼らは大陸を東へ移動した。それは東の涯に聖なる文字と同じ形をした岩山が屹立すると聞いていたからだ。

 日本海を渡って、その聖なる山をも見つける。それが眞神郡の眞神山である。 

 時代が下ると、東夷として、大和朝廷の征伐の対象となった。巨万の富を狙うものであった。やがて朝貢する関係となる。源平合戦の時代や戦国時代に幾度か苦難を迎えるが、頼朝や家康の時代は特に過酷であった。思うに、日本の理不尽なまでに苛烈な管理社会は武家の時代に始まったのではないだろうか。

 江戸幕府の施策は屈辱的でもあった。百貫の金塊を毎年納めるというはよしとしても、言語や文字の禁止、文物の焼却、聖地眞神山の封印は民族の尊厳を毀損した。理由は、怪しげな霊威で、都の帝の神徳を曇らせたというものであった。

 已むを得ず、眞神の王家はその時代、古代に支城として使っていた尖刀石山という、大岩を積み木のように積んだ砦に、屋敷を構え、町を作り、一万年来の戒めを護って只管(ひたすら)時節を待った。

 そして、予め時勢を見抜いて幕末以前から長州藩と誼を結んでいた眞神人たちは、明治十三年、遂に自由を勝ち取ったのである。眞神の御山に還った。


 

 眞神郡龍呑村(まがみぐんりゅうどんむら)に龍峯寺(りゅうほうじ)と云う古刹がある。

 創建は崇神天皇三十四年で、竺法護が翻訳した『維摩経』、『光讃般若経』、『十地経』、『正法華経』を、最新の経典として、天平雀存(あまひらじゃくそん)が西晋(中国)の洛陽から、持ち帰ったことを機に建立された、眞神の神の御社がその祖型である。

 なお、竺法護は鳩摩羅什以前の訳経僧で、西域(敦煌)月氏の家系である。鳩摩羅什以前の訳を古訳と云うが、竺法護は古訳界のビッグネームであったゆえに、眞神族からも、大いに注目されていた。仏教が日本に渡来する遙か以前である。

 ちなみに、眞神の彝之斗々武(いのととぶ)は生前の仏陀と天竺で直截会っている。

 

 さて、諸事情(大和朝廷との確執)でその後、御社から龍峯寺となったが、建久年間に、龍鳳と云ういう禅僧が住まい、公案録『叙無記』を編纂した。

 そのうち、最も有名な段をここに抜粋する。龍鳳とその師 眞巌との対話である。

 

龍峯寺僧 龍鳳が記す 公案録『叙無記』 肇輯(じょうしゅう)第十七段


眞曰(しん いわく)、 文趣眞(ふみのこころ)奚焉(いづく)にしあるとも、究竟也

龍曰(りゅう いわく)、巻子(かんす)皆同じう究竟ならずや

眞曰(しん いわく)、 隹文(このふみ)究竟の所以※ 

 

眞巌が言った「この書に何が記されていようと、この書は究竟の書である」

龍鳳が言った「ならば、すべての書が究竟の書ではないですか」

眞巌が言った「それこそがこの書が究竟の書であるゆえんである」



註)龍峯寺の僧、眞巌が弟子、龍鳳が龍呑神社に奉献した公案録「叙無記」肇輯第十七段より抜粋。

 白善、之を讃じて曰く、「森羅万象を平等に貫通せる無記を露呈す」

 

※異本眞神神社眞倉蔵版には「隹文特異究竟の所以也」とある。其解釈同義。

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