第四話 老子
深い青味を帯びた紫色のまっすぐな髪をしなやかに揺らすアシュタロテ、血統正しく古から続く悪魔の侯爵の家柄で贅と美と快に飽いていた。悪魔の大公爵アスタロトは従兄であり、大審問官を職としていた。
その余りにも高貴なる血筋は、ウガリット神話に於ける最高神イルの末裔で、かつ、その妻である神々の母、海を行く貴婦人アーシラト又はイラトと呼ばれる女神の系列に連なり(ちなみにアーシラトは旧約聖書に異教の神としてヘブライ語形アシェラと呼ばれる)、同じウガリット神話に於いて愛と戦いの女神とされるアナトも遠き祖である。
さて、そのアナト女神は敵を殺戮する容赦なき神であり、腰まで血の海で浸されるほど人間を殺して死骸の頭や手を腰にぶら下げたという。まるでカーリー女神のように。なおインド神話のカーリーもまた彼の遠縁者であった。
他にも彼の祖たる親族らは錚々たる御名ばかりである。
フェニキア人が天の女王として崇拝したアスタルテ、古い世界を破壊しては新しい世界を創造する死と再生の女神。又は地中海の豊穣多産の女神アスタルト(ヘブライ語名はアシュテレト、古代エジプトではアースティルティト。戦車に乗って盾と槍を使い、二枚の羽で飾った冠を被る戦士。古代ギリシア、古代ローマではアスタルテー)。
又ユーノー、ローマ神話で女性の結婚生活を守護する女神である。また主神ユーピテルの妻であり、最高位の女神である。神権を象徴する美しい王冠をかぶった荘厳な姿で描かれ、孔雀がその聖鳥。女性的気質の神格化である。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。
ある日、昏き書斎でクロマニヨン人の世の前、旧人類の時代に流布した書籍を読み耽るうち、ふと老子を愕かしてやろうと思い立った。さすればさぞかし愉快であろうと。
老子とは、司馬遷(紀元前一四五 - 紀元前八六)の『史記』によれば、
『老子者、楚苦縣厲鄉曲仁里人也。姓李氏、名耳、字耼。周守藏室之史也』又『孔子適周、將問禮於老子』又『老子脩道德、其學以自隱無名為務。居周久之、見周之衰、乃遂去。至關、關令尹喜曰「子將隱矣、彊為我著書」。於是老子乃著書上下篇、言道德之意五千餘言而去。莫知其所終』
すなわち老子は、
『姓が「李」、名は「耳」、字が「耼」、楚の国の苦県(現在の河南省鹿邑県)の厲郷の曲仁の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)をしていた。孔子(紀元前五五一 - 紀元前四七九)が礼の摂理を教わりに来たことがある。又道徳を修学したが、名が知られることを避けた。しかし周の国で道徳が衰微すると、ここを去ることとした。国境の関所に来ると、尹喜という関所の役人が「先生は隠棲されようとしているようですが、どうか私に教えを記して戴けませんか」と請うた。そして『老子道徳経』の上下二篇を残し、去ってその後は誰にも知られていない』ということである。
贅に飽いたアスタロテが興味を惹かれたのは、何のことはない、無為自然の道を説いた老子とは言え、所詮人間であり、凍冬には寒さに震え、大自然の脅威には怖れを覚えるのではないかと、意地悪な空想をして面白そうだと感じただけである。
さらに彼がそのようなことを考えた根源には、中国の故事「三聖吸酸」があった。釈迦と老子と孔子がともに同じ一つの甕から酢を掬って舐め、凡人と何ら変わらず酸っぱそうな顔をする、そういう図画が流布していて、有名な故事である。ただし、故事の意味するのは、酢が酸っぱいという事実が皆同じであり、儒教、仏教、道教の「三教は一致する(真理の一致)」なのだが。
彼は時空を超えた。アインシュタインがいみじくも証明したように、時間や空間は絶対的なものではない。
山岳奥人里離れ荒涼たるも幽玄な澄み渡る大気に清らかなる河流るる峡谷ある仙境。閑居する老師の目の前に、忽焉と紺のビロードのコートと深紅の繻子のタイをし、贅意を尽くした金銀のアクセサリーに貴石を象嵌した、深青紫の髪のアシュタロテが現れると、老子は口を開いたまま言葉が出ず、唖然とした表情をした。
「おまえに寒冷を与えよう」
たちまちマイナス40度の冷蔵庫のように氷霜で蔽われる。
「ひゃあ、寒いわい」
アシュタロテは眉を顰めた。
「それが無為自然を説く者か」
頬を打つ。
「痛い、痛い」
いわれなき苦しみに老人は頬に手を当てた。いよいよ悪魔の侯爵は口をゆがめ、眉を顰める。
「病患の衰弱と渇きを」
老子は言った。
「あゝ、喉が渇いた。水が飲みたい」
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