第二話  鹽

 異様な絵だ。『慧可断臂図』。雪舟の筆。南北朝時代の中国での話。インドから嵩山の少林寺に来た達磨大師に教えを乞うた慧可は許されず、覚悟を示すために左腕の肘から下を斬り落としてあらわれたのだ。大雪の夜だったという。

「心が苦しくて堪らないのです」

「ならば、その心を持って来い。安んじてやろう」

 すると、慧可は廓然とし、忽焉と苦悩は消えた……。


 人間は何と深いところまで逝ったのであろう。

 しかし、そんな人間も、かつて広大な塩水であった。海である。海面に突き出た黒い岩、火を噴く島々だ。酸素は未だなく、窒素、メタン、二酸化炭素などに覆われ、湿った熱い空気が渦巻く過酷な世界だ。

 島には熱水の噴出孔がある。孔のわきには水が溜まっていった。岩の上は隕石や彗星について降った有機分子があり、暖かい水に溶け、乾き、また熱水が噴いて溶け、これを繰り返す。繰り返すのうちに、化学反応が起って、そこに核酸が生じた。核酸の濃度が高くなって逝くと、分子が繋がり結ばれ始める。

 これがRNA(リボ核酸)である。後にDNA(デオキシリボ核酸)の基礎となっていくものである。

 自然の摂理の解き難き綾の不可思議か、人知の及び難き御神の意志か、これらはいつしか脂肪酸に包み込まれ、泡のようなものとなり、その脂肪酸が後に細胞膜と呼ばれるものへと進化して逝く。

 水溜りは無数の小さな泡に占拠され、黄色い膜が張ったようになった。

 その一つ一つが細胞となっていくものである。中に核酸が糸のように何本も詰まっていた。遺伝子の祖である。

 細胞の原型とも言うべきこれらは、繋がり結ばれてはすぐに解壊する不安定なものであった。だが、長い長い歳月のうちに、安定を保つものらが現れる。それは壊れた素材を取り入れ、また組み上げる作用で、極々原始的な代謝であった。

 かくして、デオキシリボ核酸が複製を創り始め、生命誕生である。

 極微小で、儚く、壊れやすい生命は長い時間の中で、複雑な形態を取るようになった。水を介し、地表に広がっていく。川や湖へ。

 乾季は極めて大きな危機であった。水がなくなると、乾いて硬くなる。細胞の先祖は素材と水とを求め、環境と苦闘し、命を繋ごうと欲す。それでも、死滅への道を辿りつつあった。増殖したいという根源的な欲求に応えるべく、生命は奮闘する。生き残ったものが後代の、古細菌(アーキア)から草木類・鳥獣までの存在者の、大本となる者へと進化していくのである。

 地球に宇宙線が降り注いだ時も、進化したその一部は生き残った(進化しなかった細胞らは滅んだ)。

 人の心も精神も思惟も、このような活動、化学反応の累積に過ぎない。心情や思惟も。心とは、精神とは。シナプス間隙を超えた神経伝達物質が受け側の樹状突起の受容体にキャッチされ、細胞膜にあるナトリウム・イオンのイオン・チャネル(イオンに細胞膜を透過させる蛋白質)を開口し、ナトリウム・イオンを流入させ、カリウム・イオン濃度の高かった脳神経細胞内部のナトリウム・イオン濃度を上げることでしかない。カリウム・イオンは細胞膜内から排出されていく。

 細胞の内側と外側とのイオンの構成が逆転する脱分極。

 ミリ秒単位の電位差の逆転。

 すぐに静止電位に戻るが、この静止電位から活動電位への刹那の逆転は電気的な発火現象、インパルスである。

 インパルスの刺激が軸索丘に伝わり、再び軸索末端のシナプス小胞が刺激され、神経伝達物質が分泌され、それが脳神経細胞の間隙(シナプス間隙)を跳飛し、一つ次の脳神経細胞の樹状突起の受容体へと飛来する。


 この繰り返しが理性による思考というものである。だとすれば、この思惟は何だと言えるか。仏の叡智は何だと言えるのか。

 阿耨多羅三藐三菩提は何か。解脱を何だと言えるか。 

 すべて草木が萌えいずるように、雲や雨のように、稲妻を起こすように、月が昇り、潮が満ち、山が火を噴くように。カエルが恋して啼き、猛禽が囀り、雌の獅子が受胎し、星が滅びるように。光が波であり、重力で時空も捻じ曲がるように、宇宙が加速するように。 

 畢竟、自然の現象でしかない。化学反応の集積も自然でしかない。その意味を問い質すか、糺すのか。即物の世界を。

 しかしそれもまた、現実が我々の見たままの現実であるならば、という条件附ではあるが。 

 真の現実が、事実が、こうして見ている瞬今、このように観ずるがままに、もし仮に真実在るとあるとするならば。


 何となく、そう思うと、廓然無聖な気分になるのであった。我々は鹽だ。

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