第一六五話

「……それにしても驚きましたよ。よもや、あのような早急な決を下そうとは。仁大臣らしくもない危険な橋を渡りましたね?」


 品格と格調のある御殿の書斎で、その言葉は意味深げに反響した。


「……」


 祐筆として召し抱えている官人からの突如として放たれた馴れ馴れしい言葉に、執務を続ける老貴人は叱責の言葉を吐く事はなかった。温もりに溢れた微笑を浮かべて、微笑む。一瞬の沈黙。そして口を開く。


「おや。賛同して頂けませんでしたか?退魔の者共を疲弊させる絶好の機会であると考えたのですが」


 使節団への襲撃。代表の誘拐。それが公議にもたらされた時の混乱は中々のものであった。朝廷のお膝元たる央土でそのような暴挙が行われたという事に、貴人が脅かされた等という事に、参列者の多くは動転して腰を抜かす者まで出る始末であった。


 それは朝廷が此度の案件を如何に軽視していたのかの証左であった。ただ使節団が行列成して進めばそれだけで相手は平伏すると考えていたのだろう。甘い見通しは呆気なく破られた。彼らはそう認識した。


「混乱する議場を纏めて討伐の命を引き出す口の巧さは称賛するよ。しかし、やはり軽率だね。右大臣が訝んでいたのではないのかな?折角あの家にも唾をつけようという時に、疑惑の目を向けられるような事は感心しないね」


 代々右大臣を継承する家の一つ、龍園家は一際警戒心が強い。それこそ婚姻に対してもだ。縁と血への用心深い故に、百貌の怪物も輪廻を繰り返す左大臣もまた、未だあの家の血統に食い込めた事がない。今代になって左大臣の孫娘の輿入れが決定したのは半世紀以上の計画の結実であった。それを……。


「ですが機会でもありました。中納言殿も右大臣同様少々厄介でありましたしな」


 彼の老中納言は、公家ながら武にも明るいし、頭も回る。道化も出来る。引退しても死ぬまで油断は出来ない。出来るならば早めに死んで欲しかった。


「加えて相手はあの蛇で御座います。討伐隊は壊滅するでしょう。それでいい。それこそが望ましい」


 彼の神蛇を想定していないのだ。当然の帰結。蛇の逆鱗に触れる事になろう。犠牲は積み上がる事になる。


 そしてそれでも……所詮は嘗ての栄光の残り滓である。面目を汚された朝廷は形振り構わず蛇に刺客を差し向けるだろう。そしてやがて討たれる。そして厄災が解放される。神罰が民草を襲う。我らにとっては二重に美味しい。


「師の言によれば過去にも幾度か誘いをかけたのでしょう?拒絶されたとも聞いております」


 朝廷との因縁深くとも、しかしそれは眼前の師とのそれもまた深い事を意味していた。過去、蛇が辛酸を嘗めた経験の幾分かはこの亡霊も噛んでいる。


「協力は不可能。放置も何をしでかすか知れません。無駄に格が高い蛇、企ての不確定要素となり得ましょう。ならば、精々使い倒してしまうべきです。天狗諸とも」


 討伐隊が壊滅すれば、なし崩し的に天狗共もまた朝廷と全面的に戦端を開くしかない。天狗共が蛇に降るか、あるいは三つ巴となるか……何にせよ、朝廷の弱体化は必須である。


「蛇は討たれる。天狗共も根絶やしになりましょう。残された霊脈を抑える用意は出来ております」


 討伐を主張した左大臣が主を失った暗摩の霊脈の権益を最大限確保する事になるだろう。一石二鳥三鳥を狙う。絶好の機会だ。当初の予定たる天狗共との交渉、取り込み、そして朝廷と天狗の対立の企ては水泡に帰したが……差し引きすれば悪くない着地点ではなかろうか?


「はっきりと言ったらどうなんだい?鳥共を滅ぼしてやりたい、とね」

「……」


 左大臣は執務の筆を止めた。無言で祐筆を見やる。沈黙する。貼り付けたような微笑を固めて。


「……そう警戒してくれるなよ。私と君の仲じゃないか?」

「いつ頃からお気付きで?」

「初めから、といったら信じるかな?」


 祐筆の皮を被った亡霊は頬杖をしながら答える。ふざけたような物言いに、しかし大臣は頷いた。


「成る程。確かに、貴方ならそのような考えに辿り着いても可笑しくはありませんな」


 建国期を、大乱を知るこの亡霊は、その道の専門家よりも余程天狗共の事を知っていた。暗摩の天狗共の事を知っていた。天狗の長を知っていた。当然だ、面識があるのだから。


「寧ろ私こそ迂闊だったね。君が機会があれば連中にキツく当たる事くらい想定しておくべきだった」


 普段こそ紳士の皮を被っているが、この大臣の中身が狂人である事を心得ておくべき必要がある。狂人でなければ罪人を師と仰ぎ、目的のために何百年も子孫の身体を奪うなぞ考えまい。地獄に招き入れた立場でそれを一時でも忘れていたのは老化現象であろうか?魂の劣化やも知れぬ。研究の要ありだ。


「やれやれ。気持ちは分かるが横路に逸れるのはいけないね?私と違って絶対に果たすべき大目的があるのだからそれに専念するべきだ。二兎追う者は二兎共得ず、だよ?」


 そういって亡霊が手を伸ばすのは大臣の傍らに置かれた菓子受けであった。中にある赤子卵糖を摘まんで頬張る。優しい甘味が借り物の口の中に広がる。


「うんうん。これは中々美味しいね。確か……橘の商会からの贈呈品だったかな?」

「はい。耳敏く、討伐隊向けの人足と荷を売り込んで参りました」


 亡霊が思い出すのは先日の来客である。娘が新しく考案したという南蛮風菓子を持参しながら商売の話をしていた……途中から単なる娘自慢になっていた……商会長を思い出す。


 後継者扱いの娘の事になると情けない姿であるが、それはそれとして油断ならぬ男である事を左大臣は知っていた。全知全能ではないにしろ、公議で内密に決議した内容が次の日には伝わるのは尋常ではない。その耳は数年前の商会の粛清以降一層鋭敏になっているようにも思える。


「厄介な話だね。彼処の娘さんは鬼月の二の姫に入れ込んでいるのだろう?本当に、厄介だ」


 今一つ、赤子卵糖をぱくりと咀嚼。御茶を呑んで、暫し考え込む。そして……大臣を見据える。


「師として、年長者として、協力者として助言しよう。深入りせずに直ぐに命を撤回出来るように根回ししておきなさい」


 亡霊は弟子であり協力者でもある亡者にそう勧めた。まるで教師が教え子に教え聞かせるように。それでいて誠実に切実に。


 実に実に、百貌の奇人らしくない所作であった。


「……上手くいかぬとお思いで?」

「まぁね。……むっ。そう言ってる間にも黄華君も失敗したようであるし、藪蛇になる前に事態を収拾した方がいいだろうね」


 忍ばせていた蟯虫妖怪を挟んで天狗の山への使者役の有り様を確認しての鵺の言。うぅむと左大臣は呻く。先程から執務の進捗が遅いと思っていたが……どうやら覗き見していたらしい。


「口惜しい限りですな」

「欲張るものじゃあないよ。少なくとも不確定要素は排除出来た。蛇と天狗がどのような結末を迎えようとも朝廷は気が気でないさ。意識は暗摩の山に向かう。いや、向けさせるべきだ。その分此方はやり易くなる」


 山への重石として、軍団と退魔七士でも送る計画を立てるよう、鵺は提案する。大軍と腕の良い退魔士が都から離れる事に悪い事はない。


「確かに、そうですな」

「納得はしていないかい?」


 鋭い質問への返答は、やはり沈黙であった。この執念と執着の亡霊らしい態度である。大乱時代、巫女の人身供養には天狗共は一枚噛んでいる。少なくとも、亡者はそのように思っている。


 鵺からすれば、半ば八つ当たりに思えるが……まぁ、敢えて指摘はしまい。指摘しても納得はしまい。下手に触れて関係を壊す事はない。


「……大臣、そろそろ御時間で御座います。迎えの車が来ております」

「……もうそのような頃合いか」


 重苦しい空気を破ったのは部屋の中ではなく、外からであった。障子の向こう側よりての女中の呼び掛けに威厳を以て応じる大臣。


「御時間?」

「外出の予定があってな。茶会に招待させておるのよ。折角の好意を無下には出来まい?」


 師と弟子から、同志の関係からのそれから表向きの主従へと戻ってのやり取り。そう言えば、あの巫女の出来損ないがそんな事を言っていたかと鵺は思い出す……。


 丁度良い余興だ。彼女を見れば天狗共で熱くなった頭も少しは冷えてくれるだろう。鵺は期待する。


「では、只今出立の用意を……」

「では。残る執務、帰宅するまでには粗方下処理をして貰おうかな?祐筆としての敏腕、期待させて貰おうかな?」


 紳士然として、立ち上がった左大臣は祐筆に命じた。悠然と、優雅な所作と共に。それは立場を考えれば当然の命令であり、しかし応じるように微笑みながらも鵺は内心で憮然とする。


 この不肖の弟子め、と。心中で糾弾する。


「……はっ。御命令承りました」


 赤子卵糖をまた摘まみ食い、祐筆は主君に向けて誠心誠意込めて恭しく吐き捨てる。声だけ聞けば、到底その本心を測れる者はいないだろう取り繕った口調であった。互いに爽やかに微笑み合う。


 ……さてさて。置いてけぼりを食らってしまったからには文句を言っても仕方無い。方々より届けられて積み上がった眼前の書状の山、一つ一つ真心を込めて処理していくとしようか。


 軋轢生み、国が腐るように歪ませながら、ね……?








ーーーーーーーーーーー

 それは余りにも激烈で、苛烈で、壮大で、しかしながら無意味で、無価値で、果てしなく詰まらぬ戦いであった。


 一帯を青白い業火が埋め尽くす。灰燼に帰する。蛇は幾度も立ち上がる。女を叩き潰す。女もまた炎の中から帰って来る。その繰り返し。果てのなき作業……蛇は淡々としてそれを続ける。


《詰まらぬな》


 焼けた肉を落として、再生しながら蛇はぼやく。


《幾度潰しても同じ》


 尾で叩き潰しながら蛇は嘯く。


《幾度溶かそうと同じ》


 毒液で骨肉を崩しながら蛇は嘯く。


《幾度薙ぎ払おうと同じ》


 光線が雛を焼き払い吹き飛ばしながら蛇は嘯く。


 そして、燃えながら己を取り戻す不死鳥の女の刀を受ける。火炎を受ける。同じだ。同じだった。


 実に実に、退屈な作業であった。無駄に大技ばかりが多用される、しかしそれで何かが変わる訳でもない。


 如何に凶妖すら殺しうる一撃とて、蛇の権能に合致しなければ全ては無意味であった。破壊される度に再生する肉体は何等の代価もありやしない。そしてお返しとばかりに雛の身体を尻尾で叩き飛ばしてやるのだ。全身バラバラにしながら四散して、そうして炎の中から五体満足で迫る女……もう何度も見た光景だ。


 激烈さに比べて欠片も緊迫感のない戦いだった。それは本当に本当に、詰まらない繰り返しに過ぎず……。


《ヌッ!!?》


 燃え盛る女との千日手の戦いは突如として終わりを告げた。視界に映りこむ天狗。ばら蒔かれる煙幕玉によってである。


《目眩ましか?詰まらぬ事を……いや。そう腐る事もないか》


 大蛇の感覚器官の前では児戯に等しい所業であった。事実、蛇には『視えていた』。煙幕の中で連中が集い何かを語っている事に。その気になれば集まっている所を一網打尽に出来た。決してやらないが。


 大蛇からすれば歓迎すべき事であったからだ。今しがたまでの戦いの何と空しい事か。互いに決め手のなく、しかし無為な消耗戦の行き着く果ては、その結果を蛇は理解していた。分かりきった詰まらぬ勝利……長命な蛇からすれば尚更それは退屈な結末であった。


 だからこそ、蛇はそれを歓迎した。不死の火女がその場を去るのは視えていた。何処にでも失せるが良い。蛇はその女に欠片も執着はない。


 代わりに残るのは二人三脚。煙の中から、高速で迫り来る。戻って、来る……!!


「お礼参りだ!!糞蛇が!!」

《ははっ、待ちくたびれていたぞ!!あまり我を退屈させてくれるなよっ!!?》


 猿の言に意気揚々として大蛇は答えた。それは大蛇にとって、程好い危機を交えた遊戯の再開であった。








ーーーーーーーーーーーーーー

 扶桑国には『酒呑童子』と呼ばれる伝承がある。


 元より人より変ずる者が多い鬼の中で、その者は相当に特異な出自を持っていた。


 多頭の大蛇の幾度目かの死。その今際の際に残す厄災は時として疫病として、あるいは災害として、様々な形で以て人々を苦しめて来たがその一つが、特に特殊な置き土産がこの鬼であった。


 神気を帯びた呪詛を、当時胃袋に収めていた無数の人の骸に注ぎ込み、その無念、その憎悪、その欲望を濃縮し、凝固し、胃袋から吐き出されたその異形の赤子は瞬く間に扶桑でも有数の「鬼」と化した。


 それは神より産まれた人の業の結晶であった。その一風変わった蛇の報復は、あるいは幾度かの死によって蛇が人を明確に敵として認識した証明であるのかも知れない。蛇は災害では人を倒しきれぬ事を、人が自然の力に次第に優越しつつある過程を見て来た。人を苦しめるには、新しい形の呪が必要だった。


 何にせよ、欲望の権化らしくその鬼は散々に暴れまわった。呑み、喰い、荒らし、壊し、奪い、犯す。弱き人々を気分の赴くままに蹂躙して回った。


 その過程でより低俗な出自の鬼共を無数に従えていった。それは『支配したい』という人の欲望に突き動かされたものである。無論、中には四凶の蒼鬼のように返り討ちにされて追い払われた事もあるが……何はともあれ、尋常の怪物ではない。


 百の鬼。正しく百鬼夜行の主と化した童子はしかし、その悪逆無道が知られ、徳高き高僧が巣穴たる山に訪れる。剛力は、しかし偉大な法力の前には無力。手酷く討たれた鬼……だが其処で鬼は産みの親の恩恵を受け継いでいる事が判明した。


 この鬼は親同様に、己の命に数があったのだ。僧を誤魔化して手下共と共に逃れ出て、鬼の心を支配したのは溢れんばかりの憤怒である。己に楯突き害した人間共への怒り。しかしその根源から死の恐怖もまた知っていた鬼は、決して僧の元に行く事はなかった。


 代わりに鬼は、僧の現れた方角に向かった。八つ当たりである。僧のやって来た方角の村々を滅ぼして、そして遂には央土まで辿り着く。


 扶桑国の歴史においては『夜行百鬼乱』と呼ばれる事件である。四天王と呼ばれる大鬼を筆頭に、鬼共の大群を連れて童子は都とその近隣を襲った。強き者からは逃れて、しかし百姓に商人、都の貴人姫君は見つけ次第浚い、食らう。鬼は楽しむ。最初の復讐の事は膨大な流血の前に何時しか忘れていた。


 当の朝廷はといえば、無策ではない。しかしながら機があれば都の霊脈を窺う様子すらあると来たので、鬼の大群を前に大規模な討伐隊を差し向けるのも躊躇われた。それは朝廷からすれば正面から仕掛けられるよりも厄介であったかも知れない。


 それでもやはり悪行は長くは続かない。武に優れた退魔の武人共の精鋭が帝の勅命にて仕掛けた。卑怯卑劣なぞ何のその。容赦のない手段で以て、悉く鬼共は討たれた。僧の時のように取り零すつもりはない。徹底的な虐殺であり、殲滅である。


 童子も討たれた。首を切り落とされた。一柱逃れた。親より受け継いだ権能のお陰であった。


 流石に恐怖した。怯えた。元が人の怨念である。人の無念である。死の恐怖が明瞭に蘇る。鬼は震えて山に引き籠った。


 どれだけ籠り続けたであろうか……?蛇のように、鬼は冬眠し続けていた。眠りに落ちて、その身を赤子のように丸めて、母の腹の内に戻るように、辺境の霊脈の地で己の力を蓄える。


 己の指を赤ん坊のように咥えて悠久に眠りこける……。


《漸く見つけたぞ?不肖の我が子よ?》


 永遠の夢の中でそれが姿を現した。大蛇が己を見下ろす。それが何物なのか、鬼は一目見て理解した。本能がそれを察した。


《哀れで愚かで可愛い息子よ。我が元まで来るがいい。戻るがいい。掘り起こすがいい。さすれば貴様に与えてしんぜよう。……その飢えた心の空白を埋めてやろうて?》


 それはひたすら獣の如く生きてきた怪物の赤ん坊にとって、文字通りに神託であり、それ以上の物であり……。





『ブオ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"ォ"ォ"!!!!??』


 怒りに身を任せて鬼は綱を引き千切った。暗摩の禁地の大樹林、その神木に巻き付けた縄は木に含まれる霊気を吸い出す事で天狗や人のそれを食らった時以上の強度を誇っていたが、それとてこの大鬼の純粋な腕力の前では時間稼ぎにしかならなかった。遂に千切られる。千切って、鬼は荒々しく吠えて天を仰ぐ。


 この地に来たのは飢え続ける心を埋めるためであり、その縁こそが大蛇であった。故に鬼は大蛇を解放し、従い、守り続けて来た。それを!それを、それをあの矮小な生き物共は……!!!!


『ブオ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"ォ"ォ"!!!!』


 空気を震わせる再度の咆哮は、より攻撃的であった。蛮刀を構える。奴らを見据える。大蛇に迫る二人組を睨み付ける。親孝行……と言えるかは怪しいし、其処までの認識がこの蛮者があったかは分からない。


 それでも鬼は凄まじい形相と一途な殺意を胸に二人を凝視する。そして唸り、跳躍の構えを取り、そして……避けた。


 先程までいた樹林群が蒼い炎の海に呑み込まれる。


「獣らしいな。敵意に反応したか?何とまぁ、良く見る程に穢らわしい容貌だな」


 天よりて、ゆっくりと降り立って来る女の姿に、鬼は湯面を駆けながら唸った。先程までの二人への殺意は即座に彼女に向けて置換された。この鬼の頭は決して良くはない。


 しかしながら、鬼らしく直感には優れていた。故に、突貫した鬼はそれを行う事が出来た。


「燃えろ」

『グオ"オ"ッ"!!』


 放たれる業火。回避不可能な火炎の津波。鬼の対応は単純明快であった。


 腕を振るう。蛮刀を振るう。濁流の如く掬われてぶちまけられる大量の湯が業火を呑み込む。


「っ!?獣の分際でやってくれるな……!!」


 鬼月の一の姫は舌打ちする。鬼の行動がこの場において最善である事を理解していての事だ。


 鬼月雛、彼女の行使する『滅却』の異能は強力だ。一切合切を概念として、存在として焼き尽くすそれは攻撃としても、上手く活用すれば防御としても破格の効果をもたらす。


 そうだ。一切合切だ。特に雛は未だその力を十全に御しきれていない。素早く『滅却』する対象の条件を選択・変更する事が出来ないでいた。故に彼女が攻撃としてこの異能を利用する時、その滅却はあらゆる存在を範囲に含めている。


 湯の濁流が膨大な霊力にて精製された『滅却』の炎を呑み込む。あるいは湯が呑み込まれる。どちらもにしても同じ事だ。湯をその存在そのものを『滅却』する。その過程で雛の内の霊力から精製された炎は消耗していく。それは余りにも不当な交換であった。大判で銅銭を買うような所業である。


(妖気だけを焼く……訳にも行かないからな!!)


 一瞬思い付いた対応策を、しかし雛は否定する。理由は単純明快。立て続けに雛に向けてぶちまけられた何千石分もの湯の波と、それを突き貫いて放たれる大木であった。湯面に着湯すると共に、雛は舞うようにして刀を振るう。連動して蒼炎が彼女を守る。湯と大木から彼女を守る。


 水、大木、あるいは岩……低級な妖でもそれらを道具として使う物は少なくない。より人に由来する妖怪ならば人の使っていた武具を使う事もある。当然それらに妖気はない。攻撃として放つ『滅却』の炎に、妖気由来以外の存在を焼き払う対象から除くのは余りにも現実的ではなかった。


「来た!!」


 湯水の津波の中からそれは現れた。火炎を差し向ける。雛はふっ飛んだ。上半身が粉砕された。


 引っこ抜かれた巨木によるものだった。大木を『滅却』され切る僅か数瞬の間、その間に雛に音速超えで着弾させたのは鬼の剛力による文字通りの力技であった。肉体と共に意識が潰える。視界が真っ暗となる。目覚めた瞬間には再び宙を舞っていた。再生仕切る前に身体を別の巨木で天に投げ飛ばされたからだ。そして……今度は脳天を投擲した巨大岩石で叩き潰される。


「っ…………!!?」


 衝撃と共に潰える意識。湯面への激突。湯中での燃焼。肉体の再生。そして……湯面を貫いて己を串刺しにする大木の姿を燃える眼球が視認した。迫る大木。真っ暗になる視界。


 不死の存在を殺す最も基本的な手法。それは殺し続ける事。殺し続けて、相手の抵抗を封じて、力が切れるのを待ち、復活の条件を探り当てる事、それが不可能ならば封印してしまう事……雛の相対する鬼は本能的にそれを理解していた。あるいは己もまた同じく不死の力を有していたが故か。


「だが、甘い……!!」


 湯の底から溢れた業火の嵐。周囲の湯が流れ込む度に全て『滅却』されていく。己の内の霊力をそれこそ湯水の如く急速に使い込んでの大紅蓮である。これまでとは出力が桁違いの業火に、飛び散る火の粉に堪らず鬼は引き下がる。大木の攻撃が止む。


「はぁ、はぁ……さぁて。仕切り直しだな?」


 湯面まで這い上がって、そして湯面に突き出す……そして己の頭を潰した……岩石の上まで登りついて、鬼月雛は嘯いた。不敵に嗤う。しかしその額には溢れんぼかりの汗の粒。決してここまでの立ち回りが容易でなかった事を示唆している。


 湯面を走りながら雛の周囲を回り続ける鬼はそれを見逃さない。死ねる回数こそまだ眼前の女の方がずっと多いだろう。しかし身体能力では己が隔絶している。最早あの女には己と鍔迫り合える程の体力はない事を察していた。


 地の利は鬼にあった。純粋な身体能力だけで湯面を疾走出来る怪物に対して、雛は身体強化が必要だ。動ける範囲も時間も限られている。飛び道具とて同様だ。腰に差している刀数本が主武装の雛に対しては其処らから伸びる木々を引っこ抜けばいい。岩を投げてもいい。大した労力ではない。そして雛はそれを焼くのに法外な霊力を費やす必要がある……。


『グフッ!!』


 論理的にそれらを理解した訳ではない。ただ獣染みた直感であった。直感的に、赤ら顔の鬼は己の勝利の道を見出だした。裂けたように大きな口元が歪んで釣り上がる。


 手こずらせてくれたが、所詮は猿の小娘。分不相応な力を得た所でそれを使いこなせる訳もなし。じっくりと料理してくれよう。上質な肉ではある。干して塩で食えばさぞ美味たろう。肉を搾って血酒にしても旨かろう。鬼の口元からは涎が垂れる。


「大体貴様ら化物の考えは見当がつく。大分無礼な事を考えているんだろうな?悪いがこんな詰まらぬ場所で終わらんよ」


 何かを噛み締めるように雛は宣言する。そして……直後に彼女は宙を走り出す!!


『オ"オ"ッ"!!?』


 予想だにしなかった事態に一瞬身動きを止めて、しかし即座に踵を返す。天から降り注ぐ『滅却』の火矢を、巨体でありながら僅かな間隙を縫ってすり抜ける。すり抜けながら、驚愕する。


 馬鹿な、湯面ではない。空中だぞ!?それもあの速度で……!?奴は己と同じく空を蹴り上げられるだけの剛力でもあるというのか?鬼は急ぎ雛の実力を上方修正する。


 ……実態は少々違う。鬼月雛の飛行は正確には飛行よりも噴射に近い。ただ黒装束の下人が法螺貝と水蒸気で行ったのを彼女は『異能』を使ったに過ぎない。


『滅却』を足の裏から放って、業火と化した霊気で己を噴射する……非効率の極みである。軽過ぎる程に軽い華奢な雛の身体と、後先考えぬ短期決戦仕様であるからこその技であった。


 ……尤も、雛からすればそんな短所なんてどうでも良くて、愛しい彼が己と似たような発想で飛行して見せた事実で頭の中は一杯であったが。同じ答えに行き着いた事に頭が蕩けそうになる。運命の赤い糸の存在を信じざるを得ない。


 ……到底、生死を賭けた戦の最中で考える事ではなかった。


『グオオッッ!!?』


 何はともあれの不意打ちである。空中を駆け抜けて一気に肉薄する雛に、鬼は紙一重で避ける。放たれる蒼炎は吐息で払った。鬼の肺活量で空気砲と化した息は雛の炎を舞い散らす。雛はそのまま鬼の傍らを通り抜ける。


「ちぃ!?」


 下人の法螺貝蒸気噴射同様、到底細かな立ち回りには不得手な手法である。雛は一旦異能を解除、空中で姿勢を変えて逆噴射して再度鬼に迫る。

 

 鬼はそれを嘲笑う。身体能力は圧倒している。不意打ちですら避けられたのだ。二撃目を避けるのは容易い。鬼は余裕綽々で雛の突貫を受け流さんとする。


 ……それは鋭敏な鬼の直感が指摘する違和感であった。背筋をなぞるような冷たい悪寒!!


『……!!?』


 感じ入る違和感に、殺気に鬼は躊躇い、加速する世界で目を凝らす。目玉が飛び出んばかり見開いて、そして見る。観る。視る。それは眼球に妖気を注ぎこんで極限まで強化された視界……。


 そして見つけ出した。幻惑の中に隠れる式蝶を。己の、視覚を誤認させんとした下手人を……!!


『ウ""オ""オ""オ""オ""ッ""!!』


 即座に轟く咆哮。酒気。衝撃波だけで蝶は消し飛んだ。そして視界は拓かれる。式蝶の幻惑は霧散して、鬼月雛の真の居場所が曝け出される。


 それは遠近感の誤認を誘う幻術であった。実際は十歩先を突き進んでいた鬼月雛、そんな雛に向けてそのまま鬼が放ったのは業火であった。正確には吐き出した息を着火した。


 酒臓、七臓八腑ある鬼の臓器の一つに溜め込んでいた濃厚な酒精を吐き出して、同時に喉仏を擦り合わせて着火する。鬼の臓内で変質した神酒ならぬ妖酒は特殊であり、その発火による高温は人の呑むそれとは比較にもならない。下人と天狗に向けて放ったのと同じ……否。その最大出力版、それが面制圧として放たれた。


『うわっ!?』

『退きなさい!!?』

『危ねぇ!?』


 それは相当離れた距離と高度で有象無象の妖共と戦っていた天狗衆達がたじろぐ程であった。その熱気の凄まじさ。思わず業火に呑まれそうになって天狗達は慌てて高度を上げる。反応の遅れた蛇の下僕共に至っては幾らかが巻き添えとなって火達磨となる。怪物共の絶叫が何十にも奏でられる。


 鬼月雛に至っては言うまでもない。『滅却』の炎を纏っても即座に処理仕切れる豪炎ではなかった。『滅却』は飽和して、焼肉を超えて炭の塊となる。落下していく焼死体。


 ……その落下の直前、炎の中から投擲されていた融けかけた刀の切っ先を、鬼も流石に反応はし切れなかった。腕を掠める刀の先端の刃。鬼の薄皮を切る。僅かな、本当に僅かな出血。手傷。


『ッッッ……!!?』


 湯面に落ちる鬼月雛から、意識を逸らす鬼。急いで怪物は腕の傷を見る。最悪の事態を想定する。


 幸い、『滅却』の炎はこびりついていなかった。仮に肉が燃えていたら、鬼は即刻手刀で以てその肉の部位を斬り落としていただろう。その意味で安堵する。どうやら単なる悪足掻きであったらしい。


 雛が『滅却』の異能ばかり使っていた事による偏見、己の不死の力もあっての楽観。それは……だが、鬼にとって最悪の判断であった。


「ふフふふ。漸ク……漸く、斬れタナァ、?」


 ……おぞましい嗤い声が場に反響する。


 湯面から、それは這い上がる。真っ黒な骨。焼けて水気を失った身体。水気を滴らせながら蠢く。パキパキと音を鳴らして、岩石を登る襤褸襤褸の焼死体が凄惨に嗤った。


『……』


 それはまるで地獄絵図に描かれる亡者が如き光景で、鬼は思わず唖然としてそれを見続けていた。そうしている間にも骸は岩石の上に登り切る。蒼い炎を纏っていく。薄い四肢の肉を再生させながらそれは鬼月雛へと戻っていく。華奢な身体を、服装を、刀も、全ては元通りに……。


 そしてやはり嗤った。再生した事に対してではなく、鬼の体に刻まれた浅傷を見て嗤った。それはもう酷く酷く、まるで勝ち誇るようにして。骸の時よりも尚凄惨に。


『グオオッ……?』


 第六感の告げる危険信号に鬼は素直に従った。距離を取る。湯面から飛び出る木々に乗り掛かり、不気味な狂女を窺う。それは何時でも飛び道具を放てるようにという意味合いもあった。


 何かがある……鬼は雛の次の手を観察するに徹した。それは鬼らしからぬ慎重な対応であり、しかし後知恵であるが失敗であった。


 寧ろ、この時鬼は脇目も振らず獣のように雛を叩き潰すべきであったのだ。完全に、結び付く前に……。


「ん。さて……そうだな。冥土の土産だ。一つ教えてやろうか?今貴様を傷つけたこの刀は妖刀の一種でな。まぁ、長年鬼月の蔵で眠っていたじゃじゃ馬だ」


 身体の八割方を焼き治しながら、しかし雛は身構える事はない。戦う素振りも見せない。


 代わりに、彼女は手元に掴む赤黒く輝く刀を見て語り始めた。『滅却』の炎で彼女同様特に失われた切っ先を中心に刀身を再生させているそれは、見れば確かに妖気を纏っているのが分かる。


 ……尤も、禍々しくも決して総量は多くはない。寧ろ、姫の歪んだ表情の方が余程迫力があった。


「何せこいつ……というよりも低級な妖刀の多くがそうなのだが、必ずしも持ち主に恩恵がある訳ではないんだ。寧ろ切れ味や強度と引き換えに持ち主を呪うものが多いんだ」


 それこそ、代表例たる赤穂十本刀とて例外ではない。末娘の扱う蛇刀なぞ、歴代の所有者が反逆する度に、反逆しなくても何度も何度もへし折って、心を折り切った故に従っているようなものであるし、そも赤穂の妖刀持ちなぞ実際頑丈だから使っているだけの者が大半だ。長子が継承する刀なぞ、持ち主の霊力の大半を食らう大食いだ。


「実はこいつもその口なんだ。大昔、先祖の連中が殺した鬼の宝物庫から見出だしたそうだが……その呪いのせいでずっと埃を被っていた代物さ」


 そういって鬼月雛は、手にした刀を振るった。己の脛に対して。弧を描いて煌めく刃先。そして一瞬遅れて、雛の脛から血が勢い良く噴き出した。自傷である。


 そして、鬼の脛からも同じく血飛沫が舞う。


『グオ"ッ"!!?』


 想定外の事態に鬼は動揺する。思わず姿勢を崩してその半身を湯の中に沈めた。白く濁っていた湯面が、今度は紅く濁っていく。鬼は己の脚を見て、そして雛を見る。雛は嗤う。一層凄惨に。


「見ての通りさ。こいつは持ち主と斬った相手の縁を結ぶ刀でな。片方をその刀で傷つけたらもう片方も同じ場所が同じように傷つくんだ」


 或いはそれは、鬼月谷を支配していた鬼にとっては狡猾な置き土産であったのかも知れぬ。一際丁重に納められていたその刀を手にした鬼月の一族の一人はその力で自滅して、漸く鬼月家はその刀の特性を理解した。理解して、厄介な代物として蔵の奥に死蔵した。


「無論、全く使えないって訳でもないとは思うがな。格上に相討ち覚悟で使う手もあるだろうし、体格差を利用する手もある。捨て駒に使わせる手もあるな」


 寧ろ、そんな使い方をしなかったのは鬼月の家にまだ最低限の人の心があった証明かも知れない。本当に最低限の、であるが。


「名を『供縺』。あぁ。悪いな。完全に縁を結ぶまでこいつは時間が掛かるんだ。だから言霊交じりに少々お喋りさせて貰ったよ。……意外と上手く行くものなんだな。練習では中妖相手にどうにかだったんだが」


 首を傾げて雛は嗤った。一層一層凄惨に。


 彼女は知らない。鬼が動きを止めたのが言霊によるものではなく、彼女の纏う禍々しい狂気である事に。


 彼女の纏う、禍々しい呪いである事に。


「さぁて。では畳み掛けるとしよう」


 鬼火のように蒼炎が雛の身体を焼いた。彼女の脛の傷を『滅却』する。脛を切る。今度はもう片方の脛。鬼の脚も同様に。そして、雛と違って鬼の傷は治る事はない。


『グオオオ!!?』

「残念だが、この刀が結び付けるのは傷だけなんだ。『滅却』された切り傷については範疇の外だ。それ」


 哀れむように雛は語る。そして刀を腹に突き立てて……横十文字を描いたのと鬼の絶叫は同時だった。噴き出す血飛沫。口元を紅く染めて、雛は平然とする。平然と、真っ赤な口を開ける。赤い舌が艶かしく蠢く。


「では、さらばだ」


 娘が咥えた刀を勢い良く押し込むのと、鬼の意識が断絶したのはやはり同時だった。


『ヴォォッ!!?』


 絶命。如何程刻を経たであろうか?鬼は意識を取り戻す。湯面に映る鬼の顔の赤みは、しかし意識を取り戻す以前に比べて青い。単純に血の気を失った訳ではない。それはこの鬼の権能の残数を指していた。酒に酔った赤ら顔が死人のように青くなった時、それがこの鬼の最期の瞬間であった。そして……。


「意外と、起きるのが遅かったじゃないか?」

『ギヤ"ア"ア"ア"ア"ア"ァ"ァ"ァ"ァ"ッ"!!!?』


 飄々としたドス黒い問い掛け。湯に沈んだ両脚が再び裂ける。眼前を見る。同じく脚を斬った女の姿。装束や地面には真っ赤な血が広がっていてそれが意識を失う直前の全てが夢幻の類いではなかった事を証明する。


 両脚を斬る理由は逃亡と反撃をさせぬため。そして、此れから行われる事を、鬼は既に察していた。手元の巨大な蛮刀を投擲しようとした。彼女は己の腕を切り落とす事で対応する。大小の腕が一本ずつ落ちる。余興である。


「それ」


 軽いノリで喉を斬った。自刎である。同じように仰け反って鬼は倒れ伏す。目覚める。脚を斬られる。絶叫。


「これでも死なないか。じゃあ次は首を落として見るかな?」


 言うが早く今度は深く首を切り裂いた。打ち首である。雛のか細い白い首と鬼の太首が同時に落ちる。目覚める。飛び掛かる。遅かった。転がるように鬼は姿勢を崩す。湯面に沈む。意識が飛んだ。心臓を抉られたからだ。しかし、あるいは水中に隠れて死を誤魔化せるのだから鬼としては先程よりは状況はマシかも知れない……。


「まだ死なないか」


 希望は打ち砕かれる。幾つもの簡易式が鬼を引き揚げた。雛の装束には事前に無数の簡易式が忍んでいた。雛の異能による瞬間移動に相乗りする形で転移した簡易式共は鬼を湯面の上まで持ち上げる。意識の覚醒と共の顔面への膝蹴り。鬼は湯の海が届かぬ陸までグルグル転がりながら吹っ飛ばされる。受け身なぞ出来る心理的余裕なんてなかった。


 そして、また脚が斬れる。幾度目かも知れぬ悲痛な叫び……。


「おや?顔が青くなってるな?そんなに死ぬのが怖いのか?同じ不死の癖に可笑しな奴だな?」

『そんな訳あるものか。恐らくアレが命数の指標か何か何だろう。この分だとあと四、五回くらいじゃないか?』


 雛が嗤う。淡々と啄木鳥の式が語る。刃の切っ先が女に向く。鬼は止めろとばかりに咆哮する。


「ふぅん。そうか。貴様のは命数のある系統か」


 納得したような雛の言。そして胸が裂ける。五臓が潰れる。目覚める。脚が斬れる。女を見る。血塗れの女を見る。血と炎と死を纏う女を見て、怯え震える。


「確かにあと数回という所かな?じゃあさっさと終わらせるとしよう。足止めって話だが……別に殺しきってしまっても構わないんだろう?」


 そうふざけるように嘯いて、鬼月雛は唇の鮮血を舐めるように拭うと、妖刀を容赦なく振るっていた。


『グオオオオオオオォォォォッ!!!??』


 悲痛な叫びは木霊する。何度も何度も、反響して繰り返す。それはまるで鬼自身の運命を現すように。


 童子がこの無間の地獄より抜け出すには、もう少しだけ時間を要する事になりそうであった……。

 

 






ーーーーーーーーーーーー

 それは鬼が泣き叫び、鬼が嗤っていたのと同刻であった。


 羽根が舞った。鮮血で汚れた烏羽が舞い散った。烏は狂い墜ちる。墜鳥する。天狗が、墜落する。


「楓花……!!?」

「身構え、てろぉ……!!」


 絶叫の呼び掛けに注意喚起が返される。片翼で軌道を修正する。湯面に突入するのを辛うじて避けて、樹林の枝木に引っ掛かる事で減速していく。減速して、遂には軟着陸する事に成功する。それは神業であった。天狗の意地であった。


 破滅の、先延ばしだった。


「く、はぁ……!!??」


 四方八方に伸びる枝葉に引っ掛かり、それを緩衝剤とする事で着陸ならぬ着木への成功。しかしそれだけの話である。


 抉られるようにへし折れた楓花の片翼。惨く、無残な有り様であった。このような羽では最早翔べまい。少なくとも、手当て無しでは。相当な痛みがあるのだろう、天狗の目元はどうしようもなく涙で潤む。


「糞、がぁ……!!」


 歯を食い縛って痛みに耐えて、鋭い眼光で天狗は睨み付けた。己の翼の仇に向けて。


 天狗の同胞の仇に向けて……。


《ふむ。中々味わい深い手羽先ではないか?今まで食らった中では一番旨味があるぞ。褒めて遣わそう》


 ボリボリと、羽を折り潰しながらの大蛇の感想だった。木々に引っ掛かる人間と天狗を見下して冷笑する。


《さぁて。そろそろ終わりが見えて来たな?さぁさぁ矮小な者共め、抗って見せよ。ここからどのように逆転して魅せてくれる?》


 まるでそれを期待するように、神血の邪蛇は嘯いた……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る