第一六二話

『繰り返す。直ちに武器を捨てて投降せよ。さもなくば今この場にて貴様ら全員を処断する事になる。少しでも長生きしたければ素直に従う事だ。……赤坊長、貴公も己の立場をよくよく理解して最善の選択をする事だ』


 淡々と、冷淡に、重々しく天狗の武装集団の代表は宣言する。囲む軍勢はその宣言に呼応するように一層殺気立つ。錫杖に弓、刀、槍に小槌、縄、法螺貝……多種多様な無数の武器を突きつけて、式の妖鳥共は咆哮して威嚇する。


「こいつは……不味い事になったね」


 強がるように女天狗は呟いた。額から汗を流し、口元は歪に吊り上がっている。美貌が苦悩に歪む。


「嵌められたな。あの物言い、アレだけ大暴れしていれば直情的な脳筋と思っていたが……蛇らしい狡猾さなこったな」


 土蜘蛛もそうだったが、妖ダークサイド堕ちで馬鹿になっている癖に妙に搦め手に余念のない事である。いや、妖怪堕ちしているからこその厭らしさなのか?


「意外な話だね。アレだけ手酷くやられたんだ。私らの事なんざ大した脅威なんて思っていないと考えていたのにさ。……いやはや、容赦のない一手だよ。まさかこの機に里の完全屈服を狙って来るなんてねぇ。見せしめとしては丁度良いと言えば良いのだろうけど」

「……誓約を破るの?」


 女天狗の推測に、いつの間にか傍らにまで来ていた稲葉姫が懐疑的な表情を浮かべる。


 呪術的な誓約は、決して違う事を許さぬ絶対の掟である。その性質にもよるが一度誓った誓約は時として対象の行動を強制し、時としてその運命に干渉し、時としてはその命を奪う代物だ。誓約を破る代償は余りにも重く、必要な覚悟は命を懸けるのと同様の重さを求められる……退魔士の家系ならば誰でも知っている常識であった。稲葉姫からすれば天狗の行いは到底信じられるものではない。


「……確か、血判したのは坊長連中だったか」


 俺は胸元に触れてその感触を確かめる。恐らくこの包囲を命じた連中の胸元には今の俺達と同様に刻印が刻まれている筈だが……。


「つまり、逆に言えば御上の連中以外には刻まれていない、という事だな?」


 俺の問い掛けに赤坊長は苦虫を噛み締めて頷く。向こうの指揮官は坊長ではなく次席。そして誓約を誓った者は全員が坊長。そして女天狗への呼びかけの内容……里と「母様」のために腹を括ったという訳か。


(予想外だったな。命を惜しまないとは)


 人と同じく、あるいはそれ以上に利己的な妖が自己犠牲とは。虫型の妖ならば確かに全のために個を犠牲とする種もあるだろうが……よもや半端に人並みの知恵のある鳥公の癖に、女王に其処までの忠誠を誓っているとは。蜂じゃあるまいに。


「……」

「……何だい、その眼差しはさ?」

「知れた事だ。どうするつもりだ?」


 ツンデレ反抗期気のある赤坊長である。女王の命が掛かっている中、残る幹部が覚悟を決めた中、こいつがどのような選択をするのか、決して明るい予感はしなかった。今すぐ俺と稲葉姫を捕らえて投降する可能性は五分五分以上である事は間違いない。これは……詰んだ、か?


「因みに、期待に応えてやったらどうする?」


 赤坊長が流し目で此方を見る。観察するように、隙を窺うように、視線を逸らさず、瞬きもせず、此方を見続ける。


「姫と共に全力で抵抗するさ。そしてあの糞蛇をぶっ殺しに行く。当然だろ?投降して此方には欠片も利はない」


 抵抗すれば死ぬ。しかし投降しても死ぬのだろう。ならば一厘の可能性でもあるのならばここで素直に捕まってやる義理はない。精々、みっともなく悪足掻きしてやろう。


「そうか。そりゃあ難儀な事で」


 他人事のように口笛吹いて、ゆっくりと赤坊長は懐から短刀を引き抜いていく。咄嗟に同じく得物を手にした稲葉姫が身構える。俺と姫と天狗の視線が交錯する。


「他人の腹の内ってのは中々信用出来ねぇもんだよな?何言っても本音か分からないんだからさ」

「あぁ。全くさ。相手が猿相手だと、猶更ねぇ?」

「相互理解ってのは大変だな。全く」


 ははははは、と二人分の乾いた笑いが部屋を満たす。緊張が張り詰める。短刀を鞘から完全に引き抜いて、その刃の輝きが薄暗い室内を怪しく照らす。


「本当、他人を信用するのは難しいね」

「あぁ。残念だ」

「残念だね」


 そして、女天狗は会話が終わると共に刃を構えて……己の親指を切りつけた。


「何を……!?」

「何って、血判だけど?」


 想定外の行動に唖然とする稲葉姫。そんな稲葉姫の事は流して呑気に天狗は懐から巻物を取り出すと親指から溢れ出る鮮血を墨代わりとして筆に血潮を塗り付けて何やら文面を認める。認めて、血判する。押し付ける。


 呪術的な誓約書。中身は最初の契約の絶対遵守。裏切らぬ事、全力を以て刺客として雇した人間を守る事、それを破ってはならぬ事が示されていた。端的に言えば俺達の肉壁となって無茶ぶりにも全て従うという内容である。それはほぼ一方的な片務契約に近い代物であった。


「……正気かよ、これ?」

「そりゃあお互い様って奴さ。それにあの糞蛇の風下に立つなんざ御免だね。どうせ捨て駒にされるのがオチさ。何よりも……お前さんらを差し出した後の母様の説教が怖い」


 冗談とも本気ともつかぬ理由の吐露は、しかし最後の一文だけは妙に迫真に迫るもので、確かに彼女はそれを恐れているようであった。突き出した後に誓約違反で死ぬだろうから説教の心配は要らぬ筈だがね。


「それは結構だが……問題は二点だな」

「一点はお外の連中だな。もう一点は?」

「中納言様の身の安全だ。人質にされると……いや、されていると思うか?」


 俺の問い掛けに女天狗は暫し黙って考え込む。そして納得したように肩を竦めた。


「そちらは問題ない。安心しな」

「何か、対策でも?」

「お察しの通り、お前さんらが来る前から上ではバチバチしてたもんでね。折角の駒を横取りされぬように保険は掛けてるよ」


 保険、ね。内容については……今話す事ではないか。


「そうか。身の安全が保証されているのならいいんだ。となると眼前の課題だけが関門となるが……」


 強行突破は現実的ではないが、さりとてこっそりと抜け出すのもまた至難の業か。そうなると……。


「説得、って所かい?出来ると?」

「どう思う?天狗一家の一員としては?」

「さてねぇ……あの様子だと、ちんけな誤魔化し如きではどうにもならんだろうねぇ」


 他人事のように言いながら女天狗は俺から誓約書を返される。俺が同じく押した血判を確認して、指を鳴らして生じさせた火遁によって巻物を瞬時に焼き尽くす。巻物を焼いて紅蓮から蒼い鬼火と化した炎はそのまま彼女の利き腕に纏わりついて刺繍のような焼き印を刻み込む。


「あちっちっ!?私の御綺麗な柔肌が傷ついちまったじゃないの。……もう後悔して来たね」

「誓約しちまったんだ。諦めな。それで?どうする?悪いが俺は其処まで口八丁じゃないぞ?」


 げんなりとする天狗に肩を竦める。そして話を本筋に戻す。残念ながら何時までもふざけている訳にもいかなかった。


「……ちっ。じゃあ取り敢えず私が説得してみるさ。期待はしないでおくれよ?」


 即ち時間は稼ぐからその間に鈍い頭で上手い甘言を考えろ、という訳であった。


「やるしかない、か。……問題はこの様で上手く立ち振る舞えるかだが」


 こいつは本気で困った事であった。糞蛇相手にするために大立ち回りする手段は思いついていた。しかし練習も無しというのは……それこそ横転した瞬間に外の連中は完全に失望して見切りをつけるだろう。そうなれば御仕舞いであった。


「……ねぇ」


 押し黙る俺に向けて、ずっと見つめていた稲葉姫が言葉を切り出す。俺と女天狗は姫を見る。


「どうしましたか?」

「教えて欲しい。今、何が必要か。……もしかしたら、役立てる、かも?」


 最後は何処までも曖昧に、得物を見せつけながら殻継の姫君は質問をするのだった……。


  






ーーーーーーーーーーー

『出て来たか、赤坊長。しかし……残念だな。坊組長ともあろう者がそのような愚かな決断をしようとは』


 それが戸口を開いて姿を晒した暗摩天狗衆赤坊組坊組長、真朱坊楓花を出迎えた最初の言葉であった。より正確に言えば彼女が見せつけた腕に刻まれた呪印に関しての罵声であった。


「デカい口叩くじゃあないか、舛花?何時から青坊組の助坊如きが戦遊び出来るようになったんだい?」


 向けられる罵声も、向けられる敵意も、向けられる無数の刃すらも気にも止めず、楓花は軍勢の長に向けて思いっきり挑発をして見せる。


 天狗の里における各分野を司る八坊。青坊組は記帳記録主計……里の事務方を主に取り扱う坊組であり、荒事専門の赤坊組とは正反対といって良い存在だ。ましてやその次席如きが武器を手にした天狗共を従えて他坊の坊組長に敵意を向けるなぞ、秩序維持の観点から見てあってはならない事の筈だった。


 ……本来ならば。


「赤坊は頭が私だから駄目として、お出ましするなら黒坊長が筋だろ?一万歩譲ってもお前さんの上司だ。いけないね。やれ風紀だ規則だと煩いお前さんらが、自分達でそれを踏みにじるなんざ恥を知るべきじゃないの?」

『黙れ。貴様がそれを語るか?よりにもよって猿共の手を借りよう等と言い放った貴様が?しかもその結果はどうだ?見るも無惨な……取り返しのつかぬ事態に及んでいる事が分からんか?』


 青坊組の助坊の紡ぐ言葉は術的な欺瞞によって無機質な声音であったが、それでも苛立ちと焦燥を隠しきれてはいなかった。滲み出る激情が事態の深刻さを物語る。


「取り返し、ねぇ?母様の事?討伐に行く時に皆で散々罵っておいて今更でしょうにさ」

『……だけではない。帰還した目付共から聞き及んでいる。貴様も、刺客役も、散々に打ち倒されて逃げ出したそうではないか?最早勝ち目はない。賢明な選択をするべきだ』

「食われた連中の仇討ちは諦めて?腐っても家族だよ?」


 詰るように赤坊長は言い捨てる。一層機嫌を悪くして青坊組の助坊は答える。


『大のために小を捨てる。道理であろう?無駄な抵抗は犠牲を積み上げるのみだ』

「あの糞蛇がこんなお山の大将で満足すると?使い走りどころか摺り潰されるよ?お分かり?」

『誓約は結ぶ。我々の価値を思えば使い潰されるなぞ考えにくい。……それに、猿連中如きに一方的に負けるなぞあり得ぬ事だ。敗北主義は止めろ』

「あんな糞蛇に屈服する事こそ、敗北主義と思うけどね……神格の御慈悲を期待するものじゃないって昔話で散々語られてるでしょうが。子守唄聴き直したら?」


 まさしく売り言葉に買い言葉であった。相対する青坊の助坊は鼻を鳴らすと背後の部下達に合図を出す。包囲網が、狭まる。


『息絶え絶えに逃げ帰った分際で粋がるな。貴様ら赤坊組がちゃんとしていればこうはならなったのだ。敗軍の頭が言い訳なぞするな。見苦しい』

「勝手な事を。賛同したのは皆でしょうにさ」


 暗摩山の天狗の里にとって、神蛇の存在は許せるものではなかった。


 霊脈の恩恵を独占するだけでなく、山の魑魅魍魎共を屈服させて貢納と賦役を課してきた天狗達にとって蛇による山の勢力図の変動は容認出来るものではなかった。初手の襲撃で多くの犠牲を出した事もあって、当時の里が満場一致で討伐を決断したのはある意味で当然の事であった。


 同時に、討伐は政治的理由から早急に、そして軽率に行われた。大敗の理由である。


「相手は腐っても神格。私らが伝承調べて小手調べからしようって言ったのを非難したのはそちらでしょうに。何が猿共に気取られぬ前に、山の連中への見せしめのためによ。お陰様でウチの坊長は神器ごと喰われたのよ?」

『判断が誤っていたのは認める。だからこそ今正しい選択をしようというのだろう?お前こそ、私情で動いているのではないか?そんなに坊の者達が喰われたのが、姉達が殺されたのが許せんか?』


 暗摩天狗の、里の存続ではなく単なる復讐のために動いているのではないかと青坊組の助坊は指摘する。


「……誤魔化しは無駄よねぇ。えぇ、そうよ。半分は合ってるわよ」


 楓花は頷く。素直に指摘を認める。その上で反論する。


「だけど、もう半分はそれこそ里のためよ。もう一度言うわよ?あんなキモい蛇なんかのために私らが戦の矢面に立つ理由があるわけ?」

『明日よりも今日こそが肝要なのだ。生きて、存続する事こそが大事なのだ。母様の身の安全も考えろ……!!』


 怒鳴り声。包囲網が狭まる。明らかに包囲側は苛立っていた。焦燥していた。同時に緊張して、葛藤していた。


(相当無理に纏めたか。……そりゃあそうよね。感情で納得出来る筈がないものねぇ?)


 刺客が己と共に逃げ帰り、母様が囚われたのだ。絶望は理解出来る。同時に仇に屈服して手先となる事への怒りもあるのは確実だった。天狗という存在は矜持が高い事を楓花自身が自覚していた。


 ……同時に、その矜持が身内達に都合の良い想像をさせている事にも気付いていた。


「……まぁ、見方を変えて見なよ?私と刺客の、二人であの糞蛇の所から逃れたんだ。逃れたんだよ?五体満足で。これがどういう意味か、分かる?」


 道理では楽観主義者達を納得させられないと理解して、赤坊組の長は攻め口を変える。不愉快な記憶を思い返す。そして語り掛ける。


「私らの討伐隊は何人で奴の元に出向いた?何人が生きて帰れた?何人が手足を失った?」

『偶然だ。あるいは気紛れか。貴様ら二人の元に出向いた時に、あの神格が本気であったと思うか?』

「少なくとも討伐隊で赴いた時には、口から訳分からない光線を吐き出しては来なかったわね」


 暗に己と人間とで遭遇した時の方が本気で襲われたと示唆する楓花。その事に包囲網を作る天狗達は不愉快そうに口元を結ぶ。その反応に楓花は艶かしく嗤った。嗜虐的な笑みである。


「加えて、私ら皆で仕掛けた時には図々しい山の化物連中の横槍もなかったわ。……お目付けからその辺り報告は受けているでしょ?」


 天狗一同で討伐に出向いた時には己の力を示す目的もあったのだろう。あの蛇はたった一柱だけで天狗の軍勢を壊滅に追いやったものである。


「ならさ、奴に一太刀浴びせて見せたのも知ってる筈。ねぇ、その辺りについては皆に説明したの?……あぁ。伝えてないわよねぇ?」


 語る内容に僅かに動揺して、小声で囁き合う天狗達。それを認めて態とらしい身ぶり手振りを交えて嘯く楓花。予想通りの反応だ。


 そうだ。予想はしていた。討伐隊は殆んどまともに戦闘にならなかった。それを他所から来た者が生き残っただけでなく手傷まで負わせてみせたともなれば……それが取るに足らぬ浅口の傷であろうとも、下っ端の同胞達からすれば心揺さぶられる快挙であった。勝利に向けて、僅かながらも希望が見えて来る。見えてしまう。

 

 ……五分五分以下の心許ない希望なぞ、安全牌の降伏を選ぶ指導部からすれば敢えて皆に伝える筈もない。


『っ……!!出任せを!!』

「出任せなものかい。事実さ。逆に、だからこそあの糞蛇は要求したんじゃないの?己の首に刃が迫るのを自覚して、背筋を震わせてね。ねぇ、皆。そうは思わない?」


 楓花は皆に向けて訴える。訴えられた天狗達は無言で、しかしチラリチラリと互いに顔を見合わせる。その姿には迷いが見えた。一層動揺が広がる。天狗は矜持が高く、流れ易く、調子に乗り易いのだ。


 都合良く、物事を解釈する者が多い。故に、都合良い夢を見せてやろう。


『っ……!!』


 助坊は事態の深刻さを理解して、部下達を引き締めるために大声で叫ぶ。


『ふん!!幾ら惑わせるように言い立てても無駄だ!多少抵抗出来たからといってそれが何になる?結局は散々に叩きのめされたではないか!!誰も、今更そんな死に損ないの猿なんぞに里を託したりしないわ!!』

「誰が死に損ないの猿だって?」


 直後、楓花の背後から悠然とした足取りで、悠々とした口調で、面に黒装束の男が姿を現すのだった……。







ーーーーーーーーーーーーーー

『貴様、どうして動ける……?』

「どうしてって、そりゃあ動けるからに決まってるだろ?」


 青坊組助坊の驚きを隠しきれぬ第一声に、その人間は呑気に答えて見せた。肩を竦めて嘲って見せる。


「おい、今出て来るんじゃねぇよ。話が拗れるだろ?」

「もう拗れてんだろうが。折角助け船出そうってのに何て言い草だよ」

「……お前さんの手を借りないといけない程切羽詰まってないんだけど?」


 饒舌な人間の男の物言いに歯切れ悪く赤坊長は言い返し、舌打ちする。しおらしい態度で引き下がる。その姿を訝り、しかし咳払いして助坊は宣言する。


『……まぁいい。己から出頭するとは見上げた態度だ。内に籠る今一人と共に手を上げて此方に来い。此方は最悪首だけでも良いんだからな。長生きしたいのなら大人しく従う事だ』

「断る」

『はぁ?』


 命令に対する即答の拒絶に、助坊は困惑した。思ってもなかった返答に、一瞬唖然とする。其処に畳みかけるように人間は更に唱える。


「折角ぞろぞろと集まってくれたんだ。雇われの身の上としては付加価値上げるために売り込みをかけんとな。……不器用な相棒が口喧嘩で苦戦しているみたいでもあるしな」

「おい。誰が相棒だよ?」

「じゃあ、脚か?」

「煩せぇ」


 見せ付けるような軽い詰り合い。そして人の男は周囲を見渡す。完全武装に外套や仮面を挟んで此方を睨む無数の視線……それを肩を竦めて冷笑する。


「そう肩に力を入れるなよ。もっと気楽にやろうぜ?ほれお前ら、笑顔笑顔!」


 己の面を外して、男は不敵な笑みを浮かべた素顔を天狗共に晒し出す。思わず息を呑む天狗達。


 男の行い、それは己が確かに刺客本人だと証明する行いであり、同時に防具でもある面を外す事で敵意の有無を証明するものでもあった。そしてその事を天狗達も即座に理解していた。故の驚愕である。


『……説得のつもりか?馬鹿にしてくれる。今更何を言った所で誤魔化せるものではないぞ、敗北者め』

「敗北者はお前らだろうが?加えるならばこの相方と……母様って奴もだな。折角の勝機をふいにしたんだ。討伐成功の暁には追加の報酬が欲しいくらいだぜ?」


 助坊の言に悠々と言い返す人間。尊大な物言いに、外套の陰で眉をひそめ、口元は強く結ばれる。苦虫を噛み締める。


『強がるな。散々に弄ばれたのだろう?誤魔化してもこの包囲からは逃げられんぞ?』

「強がってんのは赤天狗の相方だけさ。俺は寧ろ迷惑してる側でな。折角再討伐しようとしたら弱気になられた程でね。再挑戦させるのに苦労した程さ」

「おい」

「事実だろう?」

「むぅ」


 糾弾への反論。赤坊長が反発しようとしても、確認の言葉を掛けられたらだんまりであった。舛花はそんな楓花の赤坊長の意外かつ素直な態度に僅かに驚く。


『タラシこまれたか?情けない奴だ。猿如きに……』

「その猿がお前さんらを勝たせてやるっていってんだよ。話、分かるか?」

『適当な事を言うな!』

「適当じゃないから此処に立ってんだよ」


 そしてスタスタと男は進む。腰に手を当てて、武器を向けて包囲網を作る軍勢を悠々として鑑賞して見せる。


「撤収したのは情けない相棒が死にかけたからだ。俺自身は、ほれピンピンしてるぜ?何ならここで大道芸でもお見せようか?」


 そして実際に軽く動いて健在具合を見せつける。その機敏な動きは到底ほうほうの体で逃げ帰った者のものではない。少なくとも天狗達は事前に伝えられていた話よりもずっと傷が浅いように思えた。


「監視役がいたんだろ?なら知ってる筈だ。俺は朝っぱらの戦いで切り札を使っていない。使う程に追い詰められてはいなかったからな。……いざ、本腰入れて始末してやろうと思った所で邪魔もあったしな?」


 非難するように、男は天狗達を見渡す。邪魔、それが何を、誰を意味するのか天狗達は即座に理解する。


『貴様……!!』

『母様の折角の好意を愚弄するか……!?』

「少なくとも邪魔されたのは事実でね。愚痴の一つでも言わせてくれよ。いいじゃねぇかよ。お前さんらも反抗期なんだろ?口喧嘩していたそうじゃないか」

『余所者の分際で家内の問題に口を挟むか……!!』


 周囲の天狗達が一斉に敵意を向ける。敵意に、しかし迷いが混ざる。眼前の人間の実力を測りかねてのものであり、情報と現実の乖離によるものであった。男はその様子を目敏く見抜く。迫撃を掛ける。


「成る程、流石に他人に身内を貶されるのは不快か。親愛があるのは良い事だ。其処は尊敬してやるよ。……だけどな?だからこそお前達は俺に敵意を向けるべきじゃない。母様って奴の意思に反するからな?」


 そして男は語った。母様が己と赤坊の坊組長に何を語ったのかを。


「御客さんは丁重にお帰り下さいってな。まぁ、勝手な話ではあるが……俺を突き出すって事はその意思を無視する事になる訳だな。構わないのか?後でこっぴどく叱られるぜ?」


 まるで他人事のように宣う人間に、苛立つのは青坊の助坊である。


『だからどうした?母様が怒ろうとお方の命には替えられん。叱責を受けようと貴様らを引っ捕らえぬ理由にならんわ。詰まらん命乞いで煙に巻こうとするのはよせ!』

「命乞いはまさにお前さん達がやろうとしている事だろう?俺達を引き渡した所で母様ってのが御返しされる保証はあるのか?誓約か?まさか、たかが脅威たり得ぬ猿数人と引き換えにして神格と対等な誓約が出来ると思ってるのか?神格の高慢さを知らねぇのか?」


 指摘は分かっていたのだろう。助坊は反論出来ずに思わず黙りこむ。問題は無茶で無謀でも勝ち目がない以上は屈服以外の選択肢がない事であった。少なくとも天狗の上層部はそれこそが最も里が生き残れる可能性であると判断していた。


 だからこそ、その覚悟を見せつけられて捕縛を命じられていた助坊は此処で猿の詭弁と甘言と讒言に乗せられる訳にはいかなかった。


『黙れ……!!少なくとも貴様らに賭けるよりはずっとマシだわ!!』

「いいや。俺に掛けた方が賢明だね。安心しろよ、次はちゃーんと仕留めてやるよ。大船に乗ったつもりで任せな」


 堂々とした人間の反論は、しかし助坊にとってはこの上なく無責任過ぎる発言であった。


『ふざけるな!軽々しく言いよって……!神格相手にいい加減な事をほざくな!!知ったかぶりを!!』

「いい加減でも知ったかぶりでもねぇよ。お前さんらより糞神連中については重々承知済みさ」


 その男の態度に、その発言に、その荒唐無稽具合に、天狗の助坊は荒々しい怒声で拒絶する。否定する。


『見苦しい欺瞞だな!猿風情の、ましてや下賤の者の言葉なぞ信用なぞ出来るか!そんな出任せを!何の証拠もない薄っぺらい口だけの言い訳で!誤魔化しで!坊長方の覚悟を、我ら家族の運命を、存亡のかけた選択肢を誤らせる気か……!!』


 それは剥き出しの感情の発露だった。訴えであった。組織の幹部としての悲痛な絶叫であった。取り返しのつかぬ重大な責任を背負う故の悲鳴であった。


『……』


 周囲の天狗達からも殺気が止む。代わりに漂うのは重々しい空気だった。自分達が重大な岐路に立っている事を誰もが自覚していて、怖じ気づいていた。恐怖していた。二者択一の、危険しかない選択を選び取る事に怯えていた。


 沈黙が場を満たす……。


「……そうだな。口先だけじゃあ信用も信頼も出来ねぇよな?」


 沈黙を破ったのはやはり人間であった。窺うように視線を向けてくる天狗達を一人一人見つめて、その様子を観察して、納得するように宣う。


「分かった。俺が糞蛇の討伐が出来る事、その証明をしてやるよ」


 そして男は腰元に、腰元に備えた籠に手を当てる。何をするつもりかと幾人かの天狗達が咄嗟に身構える。


「おいおい落ち着けよ。別に武器の類いじゃねぇよ。……ある意味で武器よりも危険ではあるけどな?」


 向けられる警戒を軽く受け流して、男は籠を開けた。そして今度は全ての天狗達が、その式が身構える。籠から解放された気配に、神の気配に、腰が引けるように後退する。男は籠に当然のように腕を突っ込んだ。


 そして……腕に収まらぬ程に巨大な蜘蛛を見せ付ける。


 神気に満ち満ちた白蜘蛛を、晒し出す。


『なっ!!?こ、これは……!?』


 助坊が愕然とする。周囲の天狗達はこれ迄になくざわめく。信じられないものを見るように混乱する。混沌する。何なら傍らの楓花すらも思わず目を見開いていた。それは演技ではなかった。


『なんだ?それは一体何なんだ……!?その、神気は……!!?』

「土蜘蛛……言い伝えは聞いてるか?」


 それは古き伝承に伝わる巨蜘蛛の神格。扶桑国を長年脅かしてきた悪名高き邪神である。


『は、話には……いや、まさか!?』

「馬鹿、静かにしろ……見ての通りだ。こいつは代替わりしている。そしてこいつは俺を呪ってる。俺個人を、な?祟りだよ」


 小声で何か囁いて、そして男は天狗達に説明していく。腕の内で腰振りしてまるで踊るように暴れる蜘蛛について。その正体と因縁について。


『まさか、神殺し等と……!!?』

「驚く事じゃないだろ?俺が皮一枚捲ったら何物なのか、どうしてそんな様になったのか、少し考えれば分かる事……そうじゃないか?まさか生まれながらにこの様だったと思うかい?」


 地母神に祟られて怪物と化した事を示唆する男。


「この短刀だってそうさ。俺の皮の下見透かせるなら分かる筈だ。……ほれ、受け取ってとくと見な!!」


 男は懐から短刀を取り出すと鞘ごとそれを放り投げる。包囲網を形作る天狗の一人はそれを慌てて受け取るとじっと顔を近付けて見据える。そして息を呑む。瞠目する。


『馬鹿な……いや、確かにこの禍々しい気配は、神格のものか!?』

『しかも性質が違う。奴自身の内のそれとはまた別の柱のものだ』

『あの蜘蛛とも違うぞ?まさか三柱もなのか……!?』


 鞘から僅かに刃を抜き、漏れ出る気配に慌てて戻す天狗。信じられないとばかりに短刀と男を相互に見やる。その周囲に群がる天狗達は口々に語り始める。お喋りを始める。

 


『何をしている!!お喋りなぞするな!務めを果たせ!!』


 助坊が怒鳴る。必死に統制を回復せんとする。しかし、最早動揺を塞き止めるのは不可能だった。


「正確にはこれまでやりあったのは四柱、いや五柱か?仕留めたのは三柱さな。……おいこら、馬鹿蜘蛛、静かにしてろ」


 間髪容れず、動揺する天狗達に更なる武勇伝を語って見せる人間。武勇を誇った直後に手元で暴れる蜘蛛に何かを囁くと腰元の籠に押し込む。押し込んで閉じ籠める。


『……信じられん。何故それだけの神格と戦い生きている?祟りはどうした?』

「色々とあってね。まぁ、無事じゃないからこの身体だし、あの蜘蛛野郎な訳だが……これでも俺がいい加減な法螺吹き野郎と思うか?」


 思わず一人の天狗が漏らした疑問に悠然と答える人間。今やその口振りや態度を非難出来る者はいない。寧ろ息を呑む程だった。


 根本的に山の内の世界しか知らぬ天狗達にとって、男の存在は口の回るだけの猿から恐るべき怪物へと変貌しつつあった。


 実態は地母神相手には不用意に一太刀浴びせただけで呪われた失敗談に過ぎない事も、土蜘蛛相手にも単独で戦った訳ではない事も、山姥相手にはなまはげをぶつけた上で特級の翡翠で搾り取ったに過ぎない事も、蝙蝠に至っては所詮は姿形を似せた偽神に過ぎぬ事も、天狗達は知らない。知らせる必要もなかった。其処まで想定は出来なかった。出来る筈もない。天狗達にとってはこれまで目撃した事のある神格なぞそれこそ邪蛇だけであったのだから。


 世間知らずの小鳥達を、たぶらかす……。


『勝てる、というのか?……本当に?』


 短刀を受け止めた天狗が呟く。期待するように、願うように、恐る恐ると問い掛ける。


『っ!?お前達!!勝手に話すな!!この、詐欺師が……!!』


 これ以上話させるのは危険だと助坊は悟る。同胞達が惑わされている。目覚めさせるには実力行使しかなかった。この者の実力を、無惨な実態を見せつける。希望を打ち砕く。それしかなかった。


『……!!』


 故に一気に肉薄した。一迅の風となり、突風で目眩ましして、瞬間的に背後に回り込む。死角から錫杖を振るう。


 振り向く事すらなく、男は錫杖を手車から伸ばした糸で切断する。


『なっ!?この……!?』


 袖口から飛び出すのは縄に結んだ暗器。男の急所を別々に狙う。避けられて、纏めて糸で切り捨てられた。一目見る事すらなく、雑草を刈り取るように。


『馬鹿な……がはっ!?』


 唖然として、瞬間的に動きが止まったのは必ずしも失態ではなかった。動きが止まったのは僅かの数秒に過ぎなかった。実際、僅かな硬直から三の矢として法螺貝を取り出そうとしていた。


 しかし男が背後を振り向くのと助坊の足を払ってそのまま背負い投げするのは同時の事であり、助坊は訳の分からぬままに法螺貝を放り捨てられ、男に押し倒されていた。首元に手刀を向けられる。その上事態を認識しても尚、唖然とする他なかった。


 そしてそれを目撃した他の天狗達は、男の健在ぶりを確実なものとして受け入れる。


「……」


 そして事の衝撃故に天狗達はそれに気付かなかった。その男が必死に表情を取り繕って、視線をツリーハウス、樹上御殿の窓に佇む殻継の姫と目配せしていた事を。常に姫が男の動きが分かる位置にいた事を。彼女が発動していた異能の力を……そしてそれを悟らせる猶予を彼らは与えるつもりはない。


「誓約の内容は糞蛇討伐、お前さんらはその支援を約束する……だったな?」


 男は確認するように己を囲む天狗共に呼び掛ける。反応を確認して、言葉を続ける。


「ならば今ここで支援の要望だ。お前さん達に露払いを求める。横槍入れて来るだろう雑魚共を足止めしろ」

『盾になれ……そういうつもり、か?ふざけよって……!!』


 床に叩きつけられた助坊が呻きながら吐き捨てる。男は、家人扱の下人は苦笑しながら頷く。


「ある意味ではな。俺はこの鳥と一直線に本丸目指す。道連れはそれだけで十分だ」

「おい。だから人を鳥扱いするなよ?」

「じゃあ烏か?」

「名前を呼べ。名前を。……楓花って名前があるんだよ。母様から貰った名前がさ!」


 ムスッと腕を組んでの非難に肩を竦める。


「分かったよ。……まぁ、そういう訳だ。蛇退治も祟りも、全部受け持ってやる。お前さんらの大事な大事な母様の救出だってしてやるさ」


 そして……天狗達に向けて男は選択を突きつける。


「だから選べよ。この猿皮の化物を利用して全てを奪い返すか。あるいは誇りも何もかも捨てて乞食のようにくたばり損ないの爬虫類の足を舐めるか。今この場で、決断して見せろよ?……猿に矜持を見せてみろよ?」


 男の宣告に暫しの沈黙。天狗達は互いに目配せして、迷い、迷い、迷い……漸く遂に決心する。決心して、決断する。


 手に持つ武器を改めて強く握り締めると、鋭い眼光で以て言葉を紡ぎ出して、そして……。


 






ーーーーーーーーーーーーー

「馬鹿な。この書状は本当なのですか……?」


 手元の文章の内容を二度三度と読み込んで、震える声音で鬼月家派遣要員の暫定的代表は問う。上座に座る使節団の次席に、同じく暫定的な代表に向けて。


「む、無論でおじゃる。そ……その印を見るが良い!間違いなくこれは帝の印である!!即ち、朝廷からの、これは正式な沙汰に相違ない!」


 次席の公家の色白中年男は白若丸以上に震える声で、動揺し切った口調で叫ぶ。それだけ彼もまた書状の内容に驚愕していたのだ。いや、驚愕したのはそれだけではない。その早すぎる判断もまた場の使節団の構成員達にとっては不意打ちであった。


「暗摩山の天狗共、これを朝敵と認めて討伐を命じる。中納言の安否は此れを考慮せず、とは……」

「本当に公議によって認められた内容なのか?余りにも武断主義過ぎるではないか?」

「それに迅速過ぎる。人質がいるのだぞ?使者の行き来を考慮すると半日足らずで結論を出した事になる」

「信じられん。よもやこのような苛烈な文が返って来る事になろうとは……」


 天幕の内にて設けられた議場に参列する護衛、官吏の各家・各部署からの代表達は朝廷の意図を必死に理解せんと頭を抱え、眉間に皺を寄せて、弱々しく呻き声を上げる。文面を認め押印を上奏した者が何物なのかを考察する。


 帝の印は帝の意思ではない。それは大前提である。歴代の、そして今上の帝もまた良くも悪くも朝廷の歯車の一つに過ぎぬ。傀儡に過ぎぬ。単なる権威付けの判子押し機に過ぎぬ。公議の席上で一度の発言もせず、意思表示もしない幼い御飾り。それは暗黙の了解である。


 故にこの書状の中身を定めた公議の参列者、その主導者がいる筈で、その者の企む意図を読み間違える事を場の者達は何よりも恐れていた。宮中の陰謀に巻き込まれて藪蛇となるのは避けたい。


(俺だって、こんな命令の実行はご免だ!)


 書状には援軍の約束とその到着次第の討伐が指示されていた。しかしそれは拐われた者達の安否を考慮せぬ決定である。即ちそれはあの人の安否もまた……他の連中の事なぞどうでも良いが唯一にして最愛の人の身の安全、それだけは何としても守らねばならなかった。


 例え、何をしたとしても……。


(師匠に後から話を聞かなくちゃ……!!どうする?どうすればいい!?何を……!?っ!!?)


 焦燥する白若丸は、そして背後からのその気配に気付いて振り向いた。そして天幕に足を踏み入れるその者の姿を認める。


 全てを焼き尽くして戻したのだろう、凛々しく佇む女武者の姿……鬼月の守護の代表の姿。


「どうして……」

「代役御苦労。もう問題ない。席を替わろうか?」


 想定より早い、そして最低の時節の発言だった。書状の内容を見て、眼前の気狂い女が次の瞬間に何を行うのか全く予想が出来なかった。最悪、全てを焼き払う事すら有り得て身構える。

 

「案ずるな。話は分かっている」


 鬼月の一の姫は白若丸を横目にそう語った。そして直ぐに関心を失って、参列する者達に向けて宣う。


「失礼ながらお話は天幕の外で聞き耳させて頂きました。朝廷からの、帝からの勅命です。心配事はあろうともこれに違う訳にはいきますまい」


 忠義溢れる朝臣らしい、それでいてこの女らしくない発言だと元稚児は思った。思わず妖狐が皮を被って変装しているのではないかとぎょっと視線を向けていた程だ。


「それは、確かに……」

「無論、我らとて勅命に反しようという訳ではない……!!」


 参列者達は慌てて誤解を解こうとする。特に此度の守護として任じられた退魔士家において鬼月家は随一の名門である。其処の一の姫から穿った評価をされるのは何としても避けたかった。


「落ち着いて下さい。糾弾している訳ではありません。私も天狗共に一杯食わされた身なれば偉そうな事は言えません」


 ですが、と雛は己の失態を認めた上でそれを口にする。


「果たしてこのまま討伐隊が来るのを待つだけで良いものでしょうか?」


 雛の指摘に全員が黙って彼女を見つめた。その表情には困惑があり、あるいは幾人かはその先の発言に見当をつけて息を呑む。


「天狗共の里はこれまで幾度の討伐を退けて来た地。なれば此度もまた無策に攻め立ててればあるいは勝利しても尚少なからず犠牲が出ましょう。朝廷の錦の旗に泥をつける可能性は摘むべきです」


 雛の言は正当であり、正統であり、道理であった。そしてその指摘が何を意味するのかを悟る。


「即ち、我らは討伐のための露払いを、偵察を行うべき……そういう事ですかな?」


 武家の護衛隊代表たる亥角藩の老中が確認する。雛は頷いて続けた。


「書状の中身、我らに対しては討伐隊が来た所でこれに合流せよとしか触れていない。しかしこれは即ち何もするなという命令をしていないという事だ。違いますかな?」


 互いに顔を見合わせて、改めて参列者達は雛を見る。


「しかし……それこそ人質が、中納言様の御身が危のう御座いませんかな?」

「既に朝廷はその身柄を考慮せずとしています。ならば我らが動いた所で同じ事でしょう。それに寧ろ潜入して人質の所在と処遇を調べるべきかと思います」


 淡々として、しかしはっきりとした口調での進言であった。


「上手く行けば討伐の助けに、人質の救出も可能でありましょう。更に言えばあの天の光、調べぬ訳にはいきますまい」


 雛の語るのは暗摩の禁地の奥地で観測された光の柱である。使節団の屯する地からは距離が遠過ぎてそれが何なのか確認する事は出来なかった。しかし……あるいは討伐隊の脅威となるやも知れぬ。


「……雛殿の言、真に道理。しかしながら一つ問題がありましょう」

「……何でしょう?」


 先陣を切るように猪衛保武が雛の提案を肯定する。その上で懸念を口にする。


「偵察とは言いますが実際に可能なのでしょうか?既に我らは一杯食わされてしまっているのです。監視されている事は確実。下手な潜入をしては討伐隊としての戦力を減じるだけになりますまいか?」


 保武の指摘に参列者の多くが同意した。半分本音であり、半分は責任の回避のためであった。何かあった時のための弁明、己は反対したという形式のためである。


 雛は冷たく凛々しい態度は変えず、しかし内心では見透かしつつ冷笑気味にそれに応じた。


「その懸念は尤も。そして無用の心配です。偵察に潜入するのは私一人で十分です。最悪独断としても良いでしょう。そも……この潜入手段、私一人で行く以外にやり様がありません」


 雛は皆に語った。己が潜入するその常軌を逸した手段を。皆が唖然として、愕然として、恐怖する。公家共に至っては想像しただけで血の気が引いて気絶した程であった。武家共だけはズレた発想でその忠義の覚悟に感涙する。


 傍らの白若丸は口をあんぐりと開いてそのイカれた手段を聞いていた。聞いた上でその意味を理解しきれずに混乱しきっていた。どうしてそんな狂った発想が出来るのか、欠片も分からなかった。


 そして、遅れて元稚児はそれを目撃する。目撃して、誰がこの女を縄から解放して入れ知恵したのかを察する。察して、提案者とそれを受け入れた者、双方に恐怖する。その愛の深さに嫉妬する。


 

 一の姫の背中には、羽休めするように一羽の黒蝶が隠れながら貼り付いていた……。


 

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